入手した魚肉を前にして、葉佩は食神の魂を握り締めた。穀物の準備も万端だ。ミネラル水、酢、と心の中で確認しながら、彼は今日も孤独な戦いに挑んだ。しかも、この戦いには制限時間がある。放課後から夜へと移行する僅かな時間で決着をつけなければならないのだ。
焦るな、と口中で繰り返しながら、葉佩は魚肉に刃を入れた。
そして夜、葉佩はいつものように級友を伴って地下に降りていた。しかし、斜め後ろで断続的に発せられる「カレー」「眠い」「だるい」「腰が痛い」という声も、今の彼の耳には届かない。その時、葉佩は落ち込んだ心を自分で慰めるのに忙しかった。
完璧な調合だと思ったのに、どうしてこんな結果になってしまったのか。原因を解明せねば。どこかに不備があったのだろうか。あの戦いを、胸中で何度も思い浮かべる。同時に異形に銃弾を叩きつけ、急所が狙いにくいので殺し損ねた可哀想な蜘蛛(仮)を踵で踏み潰し、「九チャン、なんか不機嫌?」という声に慌てて振り向いて笑顔を作った。そうすると、それが偽りだと知ってか知らずか、八千穂はいつも期待どおりに笑ってくれる。
少しだけ、腹の底でもやもやしていた気持ちが薄くなった。今回の敗北だって、見ようによっては勝利に見えない事もない、かも知れない。魚肉と酢飯を使ったのだから、これが寿司ではないと誰が言いきれる。そもそも寿司の定義とは実に曖昧だ。そうだ、いろんな寿司があってもいいじゃないか。これはこれで寿司だ!そうに違いない!急に勇気が湧いてきた葉佩は、今度は心からの笑みを浮かべて休憩を提案した。八千穂が諸手を上げてそれに賛同し、皆守も寄りかかっていた壁から身を離してゆらゆらと歩み寄る。
「あ、九チャン、今日のお弁当はおにぎり?」
葉佩の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。額に手を当てようとして、ゴーグルを装着したままだと気付いてその手を止める。それを不思議そうに見ていた八千穂が、俯いてゴーグルに溜まった水を抜く葉佩の顔を覗き込む。
「九チャン?なんで泣いてるの?どっか痛いの?」
「いいんだ、俺なんか、バナナの皮ですべって転んで地面から突き出た槍に刺されて死ねばいいんだ」
「どしたの?槍なんて突き出てないから大丈夫だよ」
「うん分かってるよ、ちょっと想像してみただけ」
「イメージトレーニングだね!」
「そうだね!」
無言でカレーライスを咀嚼する皆守が、何故か妙に優しい眼差しで二人を見ていた。彼の眼差しは、時々葉佩をたまらなく悲しい気持ちにさせる。何故だろう。
気を取りなおして、一行は再び戦場へ向かった。重たい扉を開き、迫り来る異形を撃ち倒し、今夜こそはと心で誓う。
「行くぞ!今日の獲物は太陽魚だ!」
「おー!」
「あーだるい」
「カーテンの準備はいいか!野郎ども!」
「抜かりないです隊長!」
「あーねむい」
「しかぁし!頭から被ると前が見えないから注意しろ!」
「イエッサー!」
「腰が痛い」
「撫でてあげるからちょっと独り言やめようか皆守くん」
「あ、九チャンそれセクハラ!」
「訴えたら勝てるな」
「ロゼッタ舐めんな。なんの為の世界規模だと思ってやがる」
「なんの為なの?」
「セクハラで訴えられた時の為なのか?」
「ロゼッタのハンターが訴えられるなんて日常茶飯事だからね」
「ああ、やっぱりそうなんだ」
「おい、今のもしかして聞いたら消される級のやばい話じゃないか?」
「わあお!皆守ってばさすがの洞察力だね!長生きできないぜ!」
「え?なに?どーゆー事?」
「気にするな八千穂、消されるぞ」
「大丈夫!やっちーは俺が守るよ!」
「うん!九ちゃんはあたしが守るからね!」
可能な限りの気合いを入れて、もう何度目かの誓いを胸に掲げる。
葉佩は自他共に認める料理好きだ。どんな食材だろうと素晴らしい一品に仕上げる自信があった。その腕は、各国の著名人が大金を投げ打ってでも手に入れようとするほどだ。某国の大統領は、自分が支払った金が他国製の銃器に費やされている事など知る由もないのだろう。話が逸れた。兎に角、葉佩は料理が得意だった。
「俺は!究極の寿司を握るんだ!」
「普通の寿司も握れないのにいきなり究極か」
「握れるよ!ほら!」
「それは通常おにぎりと呼ばれる物だ」
「そっそんな事ないよ、だって、あの、ほら、ねっ?」
「そんな捨てられたナマケモノみたいな目で俺を見るな抱き締めるぞ」
「ナマケモノってよく見ると気持ち悪い顔してるよね」
「しかも意外と攻撃的らしいぞ」
「そっか、皆守は雨の中で鳴いてる捨てナマケモノを思わず拾っちゃうような奴なんだ」
「ナマケモノって鳴くのか」
「さあ、知らないけど鳴くんじゃね?肺呼吸してる生物なんだし」
暗闇を壁伝いに歩きつつ、時折ぶつかる肩が完全に脱力する前にこの部屋を出ようと足を速める。
少し離れた場所から聞こえる、弾けるような声と破壊音は気にしないでおく。狭い部屋では跳弾の危険もあるので、あまり乱射しないで欲しいのだが。彼女を見ていると、本当は人間に銃など必要ないのだと痛感する。それでも銃を持ち続ける葉佩を、彼女はどう思っているのだろう。どうとも思っていない確率が高い。それはそれで悲しいので、葉佩は考えるのをやめた。
そうこうして扉の前に立った時、時計は深夜を指していた。皆守は既に80%ほど夢の中にいる。そして残りの20%は常にカレーが占めている。立ち入る余地などどこにもないのだと察したが、葉佩は入れそうもない場所に立ち入るのも得意だ。怯む事なく、ゆらゆらしている背中を叩いた。
「行くぞ!気合い入れろよ!」
「無理だ、そんなの入らない」
「諦めんな!お前なら入るよ!」
「そんなに揺するな、出ちまう」
「何が!」
「内臓が」
「あ、ああ、内臓か、そんならいいんだけど」
「よくないよ九チャン!内臓が出たらごはん食べられないよ!」
「そうだね!ごめん皆守!」
「あ、待て葉佩、まだ抜くな」
「今から!ボス戦なんだから!抜くよ!」
懐の銃を抜きながら叫び、どうして自分はこんなにも動揺しているのだろうと脳の片隅で考えながら扉を開ける。心の中だけに存在する別の扉も今まさに開こうとしているのだが、葉佩はそれを全力で閉じて鍵を掛けて見なかった事にした。どこか遠くで「このへたれ野郎!」という自分をなじる声を聞いたような気がしたが、それも無視する。
「やっちー!弾は補填したか!」
「バッチリです隊長!」
「井戸なのになんで濡れないんだ」
「皆守はとっとと起きて時々うとうとしてくれ!」
「おお、任せろ」
「今じゃない!時々っつってんだろ!」
「いっくよー!」
「あ!待ってやっちー!まだ皆守が寝てる!」
「もー九チャンってば皆守クンに甘いんだからー」
「もっと辛くてもいいぞ」
「よし!起きたな!じゃあ行くぞ!」
手に馴染んだ得物を構えて通路を走り、現れた化人にあらん限りの銃弾を撃ち込み、滞りなく殺戮を完了して息をつく。
そうして葉佩は目当ての魚肉をゲットして、今度こそはと拳を握った。魚肉を手に意気込んでいると、八千穂が肩を叩いて力強く頷いた。きっとできるよ。無言で語るその瞳がまぶしくて、葉佩はゴーグル越しに目を細める。根拠などいらない。信じてくれる人がいるだけで、こんなにも強くなれる。葉佩は謝意をこめてその瞳を見返した。
入手した魚肉を前にして、葉佩は食神の魂を握り締めた。穀物の準備も万端だ。ミネラル水、酢、と心の中で確認しながら、彼は今日も孤独な戦いに挑んだ。しかも、この戦いには制限時間がある。探索を終えて帰還命令が下るまでの僅かな時間で決着をつけなければならないのだ。
彼をトロ職人だと信じる可愛い人に、美味しい寿司を食べてもらう為に。
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