暇だった。原因はそれだけだ。
蓬莱寺は暇だったから顔見知りのいる路地裏に顔を出した。その路地裏で賭け将棋に興じていた村雨も、やはりその場所にいた理由を問われれば暇だったからと答えるだろう。
暇を持て余した男子高校生が顔を合わせれば、往々にして健全な遊びは選択肢から除外される(鬼ごっこでもするか、という蓬莱寺の呟きは綺麗に流された)。卓を囲むには面子が足りない。そもそも賭け事では村雨の一人勝ちが予想されるので、第二候補である酒宴が支持された。
結果、二人はコンビニで適当なアルコール飲料を入手して緋勇の部屋に転がり込んだ。乗り気なのかそうでもないのか、緋勇は特に苦言を呈するでもなく歓迎するでもなく、いつものように淡々と不良少年たちを部屋に入れた。
勧められた杯を干しても平然としている緋勇に、蓬莱寺は少しばかり落胆した。いつも涼しい顔をしている緋勇が酔って醜態を晒したりしたら、さぞや宴は盛り上がっただろうに(主に蓬莱寺一人だけが)。そんな思惑などどこ吹く風、緋勇は勧められるがままに満たされたグラスを呷り、しかし期待に反して顔色ひとつ変えない。少なからず期待していた蓬莱寺は、なんだつまんねぇの、などと胸中で呟きつつも気持ちを切り替え、友人との酒盛りを楽しむ事にした。
異変に気づいたのは、一時間ほどが経過してからだった。
「龍麻、斜めってるぞ」
「む、そうか?」
「先生、もう酔っちまったのか?可愛いねぇ」
とろりとした目つきでゆらゆらと揺れていた緋勇が、不意に腕を上げた。直後、緋勇の顔を覗き込んでいた村雨が奇妙な声を発して後ずさった。同時に村雨の額から黒髪がひとふさ、音もなく落ちる。緋勇の手刀が刃となって村雨の額をかすめたのだと、蓬莱寺が少しの間を置いて察した。緋勇がやはりどこか望洋たる瞳のままゆるやかな動作で、戸惑う村雨へとにじり寄る。
「あ、あの、先生?」
「可愛いのはお前だ」
「そ、そーかい?いや、たぶん一般的にはどっちも可愛くは」
可愛いと表現されるべき容姿ではない、と村雨が言い終える前に、またしても緋勇の手刀が空を切った。その切っ先を見失った村雨が、本能的に左腕で頭部を庇い、右手で顎から下の正中線を庇う。どのような軌道を描いて飛んできたのか、真剣のように張り詰めた緋勇の指先は鼻頭に触れる直前で静止した。傍で見ていた蓬莱寺が、その鋭さに我知らず息を呑む。そうしてから、友人がその顔色からは想像もつかないほど酔っているのだと理解した。
いつものように冷めた表情で、しかし行動はネジが2、3本ほどすっ飛んでいる緋勇に、恐る恐る声をかける。
「おい龍麻?」
「なんだ」
「ええと、あの、あれだ、落ち着け」
「それはお前だ」
「え、あーうん、そーだな、龍麻は落ち着いてる、よな?」
「あ、まあそうだな、冷静だよ、な?」
同意を求められ、村雨が彼にしては珍しく自信なさげに頷いた。二人の言葉に満足したのか、緋勇が氣を緩めて姿勢を崩した。胡坐をほどき、体を横にする。丁度良い位置にあった蓬莱寺の大腿に頭を乗せて、そのまま目を閉じた。じっと息を殺してその動作を見詰めていた蓬莱寺が、ここに至ってようやく自分の置かれた状況を理解して、しかし如何なる行動も起こせず、隣で同じように緋勇の動向を窺っていた村雨に視線を送る。恐怖と混乱とわずかな歓喜を含み、蓬莱寺が無言のまま村雨の袖を掴んだ。
「・・・龍麻が」
「おお」
「・・・膝で寝てる」
「良かったな」
「・・・さ、触ったら殺されるかな」
「まあ、覚悟はしといた方がいいだろうな」
「・・・龍麻が」
「分かったから離せ」
何やら感動に打ち震えつつも眠る緋勇にはその震動を伝えまいと自制して、蓬莱寺が囁くような音量で何度もこの状況を言葉にする。これが夢ではないと確認するように、心に刻み込むように。
「龍麻が、俺の膝で、寝てる」
「うん、お前さん明日あたり死ぬかもな」
「悔いはねぇよ」
「もうよせ、なんか不憫になってきた」
「龍麻が」
「俺がどうした」
大腿に頬を乗せたまま、緋勇が低く声を返した。蓬莱寺が思わず全身を震わせて裏返った声を発したが、それでも彼の枕と成り果てた足は微動だにしない。それは恐怖で硬直しているからなのか、それとも渾身の精神力で緋勇の枕としての役割を果たさんと尽力しているからなのか、村雨には判じ得なかった。
しかしどちらにしろ、極度の緊張状態にある蓬莱寺の筋肉は硬く強張っている。硬い枕が気に食わなかったのか、緋勇がわずかに身じろいだ。その刺激に耐える蓬莱寺が、泣きそうな顔で村雨を見上げる。
「どっどうしよう」
「諦めろ」
「ちょっと勃ってきた」
「ああ、ええと、まあ、あの、なんだ」
「なんだよ」
「・・・幸運を祈る」
過去に得られなかった淡い憧憬を思い返すような表情で、村雨が薄く微笑んだ。それが諦観なのだと察して、蓬莱寺は両手で顔を覆い、心の底からこの薄情な友人を恨んだ。「俺が死んだらまずお前を呪い殺す」などと真顔で呟く蓬莱寺に、彼の本気を読み取った村雨がどうにかして救出する術を探そうと思考を回転させ、しかし名案は得られなかったので諦めた。
「俺はお前を忘れねぇ」
「もうちょっと粘れよ!」
「そーは言ってもなぁ」
「不満か」
「いえ!滅相も御座いばっ」
不機嫌そうな緋勇の声に、使い慣れていない口調で否定を返そうとして、途中で舌を噛んで今度こそ蓬莱寺は泣いた。口元を押さえて肩を震わせる蓬莱寺に、村雨はもうどうしていいのか分からなかったので黙したまま目を逸らした。どうにかしてやりたいとは思うのだが、自分の身を危険に晒さずに現状を打開する手段は見当たらない。我が身が無力であるという事実を苦々しく噛み締め、友人の無事を、信じてなどいない神に祈った。
戦友たちの懊悩などには一切の関心を寄せず、緋勇はあたたかい体に頬を寄せて目を閉じている。頭上では相棒が死の恐怖と垣間見た極楽に意識を奪われているのだが、そしてその横では頼れる陰陽師が憐憫と諦観を遠い目で見詰めているのだが、緋勇にそんな事を推し量る能力はない。ただ、身に馴染んだ陽光のような氣がやけに攻撃的に昂揚しているという情報だけを、酔いの回った脳が受理した。
彼が心安らかに在ればいいと願う反面、その尖った氣は緋勇の深い場所を心地好く刺激する。鋭い切っ先の軌道を見切って躱す瞬間の、あの全身の血が沸くような感覚。己はこの為に産まれ落ちたのかと錯覚するほどの、あの刹那の忘我のなんと甘美な事か。
硬い大腿に頬をすり寄せて、緋勇はその瞬間を思い出してひっそりと昂揚した。あの目が、自分だけを映せばいい。清らかな切っ先も、血に汚れた手も、狂気を含んだ目も、気高い心も、全て自分だけに向かえばいい。そんな幸福な想像を、断崖で星を見るような声が遮った。
「なあ龍麻、やるのとやられるの、どっちがいい?」
「早まるな蓬莱寺!」
「俺としちゃーやる方がいいけど」
「やってもいいから俺の裾を離してからにしろ」
「お前がどうしてもってゆーんなら」
村雨の服の裾を固く握り締めたまま、蓬莱寺が思いつめた表情で言葉を吐き出す。決死の覚悟のようにも、悪夢の中での無駄な足掻きのようにも見えた。村雨としては一刻も早くこの場から逃げ出したいのだが、すがりつく蓬莱寺の手はそれを許そうとしない。この手を払うのは罪悪だろうか。ほんの少しだけ迷い、村雨はその手を払った。
「逃げんなよ村雨!」
「いや、逃げるだろこれは」
「そもそもお前が飲もーぜなんて言うからこんな事になったんだ!」
「人の所為にすんじゃねぇ!お前だって乗っただろ!」
「龍麻!動くな!頼むから!」
頭上で交わされる会話の騒々しさに耐えかねて、緋勇が眼前にあった逞しい腹に額をすり付ける。それは外的刺激を減少させたいという心の表れでしかなかったのだが、蓬莱寺にそんな事を察する思考力は残っていなかった。さりとて無防備に懐いてくる大型の猛獣を邪険にする勇気はない。気安く手を出せば食い千切られるか、引き裂かれるか、折られるか、砕かれるか。なんにせよ後悔するのは火を見るより明らかだ。全力で逃げようとしている村雨に、自尊心もかなぐり捨ててすがりつく。
「もうおっさんとか言わねぇから!」
「おっさんでいいから離してくれ」
「助けてくれたらしーちゃんって呼んでやるから!」
「何プレイだそりゃ」
「俺はきょーちゃんでいいぜ!」
「いいぜって言われても」
不意に腹の辺りが軽くなり、蓬莱寺は我に返って視線を落とした。冷たく尖った黒い瞳が、蓬莱寺を無表情に見上げていた。背筋にぞくりと怖気が走る。さっぱり分からないが、どうやら自分は龍の尾を踏んでしまったらしい。むしろ逆鱗か。覚悟より先に、蓬莱寺は心の底から恐怖した。
緋勇がゆらりと身を起こし、村雨にしがみつく蓬莱寺に視線を突き刺す。
「京一」
「・・・はい」
「そうなのか」
「ど、どうなのか?」
「そうなんだな」
「いや、ええと、どうなんだな?」
「村雨」
「え、俺?」
「お前は悪くない」
「お、おうよ」
主語をどこかに飛ばしたまま、緋勇が静かにそう告げた。何を告げられたのか理解できなかった二人は、互いに相手を飢えた猛獣に差し出して逃走する隙を窺っている。身を起こしてゆらゆらしている緋勇が、再び「京一」と囁いた。呼ばれた蓬莱寺は裏返った声でそれに応え、村雨の後ろに隠れようと身をよじる。
涼やかな緋勇の声を、ずっと好ましく思っていた。凛と発せられる時も、ひそやかに囁く時も、その声が自分の名を呼ぶ度に、蓬莱寺は不思議な気持ちになった。遠い日に聞いた波音を思い出すように、今にも花弁から落ちそうな雫を見るように、痛みとよく似た切ない甘さが胸に染み入ってゆくのだ。その声が、夢の中と同じように自分の名を呼んだ。
「京一」
「おお、どうした」
「俺はどうもしてない」
「そっか?そんならいいんだけど」
「・・・京一」
「おう」
「不満か」
「いえ、滅相も御座いません」
先程は失敗した発音も、今度はどうにか引っ掛からずに言えた。言えたが、意味は分からない。そもそも酔っ払いの言動に意味があるのかも分からない。助けを求めて村雨を見上げるが、自分と同じように困惑した表情しか返ってこなかった。
黒い瞳がじっと見詰めてくる。それを真正面から受け止めるには多大なる精神力を要したが、蓬莱寺は歯を食い縛ってその視線を受け止めた。ここで逸らしたら負けだ。胸中で自分に言い聞かせ、腹に力をこめる。
緋勇が、激情を押し殺したままそっと呟いた。
「そうだったのか」
「はい?」
「気づかなかった」
「え、ええと?」
「京一では駄目なのか」
「あの、ちょっと整理しよーぜ」
「気にするな、お前は悪くない」
「いや、だからさ」
緋勇が分かりにくいのは知っていたが、今夜は特に訳が分からない。刺激しないようにと言葉を探す蓬莱寺を、村雨が先程よりは幾分か冷静に見下ろす。何故か悔しそうに唇を噛む緋勇を見ながら、村雨はなんとなく察してしまって脱力した。
緋勇が呼び名にどれほどの意味を見出していたのか、そんな事は知らないし知りたくもない。意味はないのだろう。恐らくは、たまたま隣にいた醍醐がそのように呼んでいたから記憶しただけ、というのが真相なのだろうとは思う。深い意味などないに違いない。
現代の日本人の多くは、姓と名を持っている。社会的には苗字に敬称をつけるのが一般的な礼儀だ。礼儀を欠いても関係に影響がないほど親密であれば、敬称を省いたりあだ名をつけたりする。例外もあるのだろうが、要するに名前を呼び捨てるのはある程度の関係性を築いている事の証明でもある。
だからどうしたという訳ではない。ただ、緋勇が名を呼び捨てるのは一人だけだ。それだけだ。意味などあってたまるか。服の裾を掴まれたまま、村雨は面倒になって結論だけを口にしてみた。
「先生、俺は間違っても『きょーちゃん』とか呼ばねぇから安心しろ」
蓬莱寺は「ますます分からなくなった」と表情だけで主張したが、緋勇には通じたらしい。緋勇は驚いたように顔を上げて村雨を見て、次に唇を引き結んで絶句した。そうしてから射殺すような目で蓬莱寺を睨み、更に凶悪な眼光で村雨を貫き、右手で自分の顔を覆って俯いた。蓬莱寺はまだ疑問符を浮かべている。村雨は傾いだ赤毛に手の平を乗せて、かけるべき言葉も見つからなかったので無言のまま微笑んでやった。
首を傾げたまま、蓬莱寺がどうにか見出した解答を口にする。
「えーと、きょーちゃんって呼びてーの?」
「どこまで低脳だお前は!」
「ええええ?」
「そして村雨」
「悪かった俺が悪かったからもう帰っていいか?」
「誤解するな。俺は別に呼び方などどうでもいいんだ」
「あーそーかい」
「お前らがどう呼び合おうと俺には関係ない」
「あ、なんだそっか、ひーちゃんって呼ばれたかったのか」
その時、緋勇の中でどのような事態が巻き起こったのか、村雨は判じ得なかった。それでいいと、凪いだ心で村雨は思う。理解などしたくない。渦中にある二人がとても楽しそうなので、傍で見ているだけで充分だ。自分の尻尾を追いかけているうちに階段から転げ落ちた犬を見るような目で、村雨は秘拳の構えをとった緋勇と、木刀を構えそこなって後ずさりながら「なんでだよ!」と叫ぶ蓬莱寺を眺めていた。
「いーじゃねぇかひーちゃんで、なあひーちゃん?」
「呼ぶな!」
「あ、じゃあ俺はきょーちゃんって」
「呼ぶか!」
「ひーちゃんは強情だなー」
賢明にも早々に腰を上げた村雨は、その後の彼らがどうなったかなど知る由もない。
ただ、翌日には何故か定着していたあだ名に、緋勇が苦い顔をしながらも振り向く姿があった。頑なに視線を合わせようとしない緋勇に、蓬莱寺が頬を緩ませてしつこいほど繰り返しその名を呼ぶ。得物を持ったまま緋勇の肩に手を置き、耳元で囁きさえした。鋭くその手を払った緋勇は、しかし言い訳も不可能なほどそれを受け入れているようにしか見えない。
畢竟するに、緋勇は受け入れたのだ。聞いているだけで恥ずかしくなるような、その自分を表す音と声を。
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