どこかで見たような、そうでもないような。呟きながら、葉佩はその扉の前に立った。 扉には向かい合った二匹の蛇が描かれている。蛇は頭部が大きく広がっていた。コブラに似ている。その下には、奇妙な形のくぼみがある。何かをはめ込むと開くのだろうか。 ぼんやりと、惰性のように思考が回る。もう考える必要はなくなってしまったのに。 不意に背後から声が聞こえた。 「ばかだなお前、分かってたけど」 笑みを含んだ、穏やかな低い声。懐かしくて涙が出そうになった。同時にカチリと音がして、甘い香りが広がる。もう二度と会えないと思っていた。 落ち着こうとして息を深く吸い、後悔した。こんなにも甘かったのだと、葉佩はすっかり忘れていたのだ。 「久し振り、だね?」 「なんで疑問形だ」 「そんな久し振りでもないような気がした」 「まあ、そんな久し振りでもないな」 「やっぱりね」 振り向く前に涙が溢れそうになって、振り向けなくなってしまった。そうしてから、葉佩は安堵する。もう二度と振り向かないと決めたのだ。体が動かなくてよかった。あやうく誓いを破るところだった。 「ところで葉佩」 「なに?」 「天国と地獄、行くならどっちだ?」 「そうだなぁ、どっちかなー」 「迷うまでもないだろ」 「うん、地獄だね」 「え、そうなのか?」 「だって、お前は地獄だろ?」 「ああ、いや、まあ、そう、かもな」 「どう考えてもそうだろ」 「いや、俺はまだ行かないけどな」 「そうなの?」 彼がいるのなら、と思ったのだが、どうやらまだ本当には会えないらしい。喜ぶべきか惜しむべきか少しだけ迷い、葉佩は喜ぶ事にした。彼がまだどちらにも行かないのなら、喜ぶべきだ。ちょっとがっかりしたなんて、もし本当に会っても絶対に言わないでおこう。 「そんな訳だ」 「どんな訳だよ」 「お前は地獄。これ決定な」 「うーん、まあしょうがないね」 「意外とあっさり認めたな」 「育ったのがキリスト教圏じゃないからね」 「そういや国籍不明だったな」 「死んだら終わりとしか考えてなかったよ」 「残念だったな」 ふ、と甘い香りが強くなって、彼が微笑んだのだと分かった。 いろんな神がいて、様々な信仰がある。特に彼の故郷には、驚くほどたくさんの神がいた。一神教が説くその存在とは少し違ったけれど、似たようなものだと葉佩は思っている。それとも、根本からして異なるのだろうか。真実は、ついに分からないまま終わってしまった。 ひとりの人間から、その子供へと、そのまた子供へと、永い時を受け継がれてきた信仰というものを、葉佩はついに理解できなかった。 「で、お前は死んだ訳だが」 「え?」 「え?」 「え、やっぱそうなの?」 「どう見てもそうだろ」 「えええマジでぇ?」 「残念ながら、大マジだ」 「ちなみに死因は?」 「知らん」 「何しに来たのお前」 「来たくて来たんじゃない」 「あ、分かったあれだ、三途の川」 「俺は川じゃない」 「三途の川って初めての人と渡るんだよ」 「ほんとっぽく言うな」 「いやほんとだって」 「まあ、諸説あるからな、そういうのって」 「そうだけどさぁ!」 ふと、扉のくぼみが目に入った。これは何の形だろう。何を入れればこの扉は開くのだろう。二匹の蛇は二重螺旋を表しているのだと、どこかで誰かが言っていたような気がするけど、思い出せない。 そういえば、背後にいるこの人は誰だっただろう。甘い香りに、体の奥底が震えるのは何故だろう。扉を開いてはいけないような気がするのは、何故だろう。心残りなどないはずなのに。進むのにためらいなど、ある訳ないのに。 「あ、ねえ、地獄ってどんなとこ?」 「俺が知る訳ないだろ」 「そりゃそうか」 「鬼とかがいるんじゃないのか?」 「あ、炒り豆忘れた」 「年の数だけ食べるんだぞ」 「それ違う行事じゃね?」 「同じだろ」 「そうだっけ?」 「まあ、あれだ」 「どれだよ」 「あっちではあいつとも仲良くやれよ」 「無理」 「即答か」 「誰と仲良くやれって?」 「分からないのに即答か」 「だってあいつ、なんか嫌いなんだよ」 「似た者同士だからじゃないか?」 「傷付いた!」 「いや認めろ、そっくりだお前ら」 「え、誰と?」 「殴るぞ」 と言ったのに、何故か蹴られた。理不尽だ。しかも構える暇もなく、恐ろしく正確にテンプル狙いの爪先が飛んできた。殺す気か。もう死んでるけど。せめて予備動作ぐらい察知させろ。本気で死ぬ。もう死んでるけど。 振り向かないと決めていたが、一度くらいは振り向いてもいい事にしようか。どうせ誓いなど果たせた記憶もない。 「ねえ、やっぱ俺、死にたくないよ」 「そうか、諦めろ」 「取り付く島もねぇ!」 「俺だってつらいんだ」 「そうは見えないけど」 「まあ、実はそんなにつらくない」 「やっぱりな、俺には分かってたぜ!」 「ちっ、やっぱり分かっちまったか、さすがは《宝探し屋》だな」 「ま、まあねー!」 「お前の事は忘れない、永遠にな」 「どうせ嘘だろそれ!」 「まあ、当分は忘れない」 「死んでも死に切れねぇ!」 「本当は嘘じゃないって言ったら?」 「余計に死に切れねぇだろそれ!」 「よし、諦めろ」 「やだー!」 「ガムやるから」 「いらねぇよこの期に及んで行動力とか!」 「じゃあチョコレートやるから」 「カレールゥじゃねぇか!」 「よく見破った、さすがは《宝探し屋》だ」 「ま、まあねー!」 受け取ったカレールゥをポケットに入れて、葉佩は思い出した。今このポケットには、穀物とミネラル水が入っている。という事はつまり、米を作れる。米があれば、カレーライスを調合できる。 はっと息を呑んで固まった葉佩の背後で、甘い気配がわずかに揺れた。まるで期待するかのように感じられたのは、葉佩の願望が見せた幻だろうか。その幻に賭けるのは、愚かな事だろうか。一瞬だけ迷い、葉佩は決断した。 いつだって、葉佩は愚かだった。正しい決断などひとつもできなかった。何が間違っているのかも分からず、それでも進み続けた。そうするしかなかったから。彼が優しく微笑んで手を振っても、どうしていいか分からなかった。壊して、壊れて、進む以外にできる事などなかった。 間違っていても、それでも、愚かな葉佩は望んでしまうのだ。 「あ、ええと、あのね」 「10秒前、9、8、7」 「カウントダウンやめてぇ!」 「いいから早く諦めろよ」 「か、カレーあげるからぁ!」 「分かった、やめてやる」 「はい?」 「この道を戻ると生き返れる」 「え、あ、そうなの?」 「スプーンは?」 「あるよ、はい」 「じゃ、またな」 「あ、うん、じゃあねー」 葉佩が目覚めると、青い瞳に見下ろされていた。少し遅れて、激痛が襲ってくる。離れた場所から夕薙の声が聞こえた。どうやら敵を引き付けてくれているらしい。 早く自分で回復しろと高圧的に言われて、慌ててポケットを探る。たしか穀物とミネラル水があったはず。とりあえず米があれば、なんとかなる。 阿門の瞳が、わずかに細められた。焦っているのだろうか。この男の表情は、よく分からない。 「俺の能力は、回復まではしない」 「できないって言わないのがお前の可愛いところだよね!」 「皆守みたいな事を言うな」 「あいつそんなん言うの!?」 「いいから早く回復しろ」 「ちょっと待ってたしかここら辺に入れといたはず!」 痛みと焦りで泣きそうになりながら、手に触れた物を引きずり出す。ポケットから出てきたのは、入れた憶えのないガム一枚。思わず床を叩きつつも、とにかく口に入れてみた。ほぼ同時に、夕薙の救命措置が発動する。騒ぎ立てていたH.A.N.Tが、いくらか落ち着きを取り戻した。 葉佩が立ち上がる。 「ありがと阿門、助かった」 「助かったのはお前の力だ」 「夕薙も、ありがとね!」 「気にするな、ビフテキでいいぞ!」 なんだか変な夢を見たような気もするが、思い出せない。そして思い出している暇もなかったので、葉佩はライフルを両手で抱えて走り出した。 |