蓬莱寺は、考えない。かつて己の思考がもたらした結果を知っているから。忘れていないから。
全ては無だ。無駄。
そんな事、どうして彼の前で口に出せるだろう。ただ自分の価値を信じる彼に、どうしてそんなつまらない現実を突き付けられるだろう。本当は脆弱で、愛しいほどに臆病な彼に、どうして。
本当は、口に出してしまえばいいのかも知れない。もしかしたら彼はあっさりと、事も無げに否定してくれるのではないか。而して思う。彼が必死で縋り付く、最後の糸を切ってしまったら。彼には、器としてではなく価値がある。それは多分に主観的で、早い話が思い込みで、勘違いで、希望的観測で、要するに蓬莱寺の願望でしかないのだろう。だが、それでも蓬莱寺は信じている。身を捧げることで誰かが救われる、という、欺瞞に満ちた幻想を。つまり、自分の知的欲求を捻じ伏せて笑う事など、蓬莱寺には容易い事だった。
「ひーちゃん」
「ちょっと黙ってろ」
「ひーちゃん!」
「うるさい」
「ひーちゃーん」
無言で拳が飛んできた。それは疑うべくもなく手加減された速度で、躱す事など造作もない攻撃だった。だが蓬莱寺は、それを顔面で受け止める。鼻の奥でツンと、冷たいような、熱いような匂いがした。涙が出る。きっとこれは嬉し涙だ。高潔な彼が、触れてくれた。その事実に。
緋勇は今、英語の教材を睨んでいる。提出期限が明日に迫ったレポートを制作すべく、足りない知識を教材から得ようという計画だ。実に学生らしい、真っ当な行動である。蓬莱寺はその隣で、緋勇の襟足を引っ張ったり、耳を撫でたりと大忙しだ。優しい鉄拳などで泣いている暇は無い。
「ひーちゃん、髪伸びた?」
「そりゃあ伸びるだろう。生きてるんだから」
「そっか、ひーちゃんは生きてんだなぁ」
「明日には死ぬかもしれん」
「ああ、俺が守ってやれたらいいんだけど」
「そんな顔をするな。気持ちだけで嬉しいぞ」
蓬莱寺にも、緋勇と同じ課題が言い渡されている。しかし、その表情は余裕に満ちたものだ。何故って、信じているから。緋勇が今日中にレポートを完成させ、それを盗み見て写し取る自分の能力を。だが蓬莱寺も決して卑劣漢ではない。眉間に皺を寄せて唸る緋勇がせめて心地好くあるよう、可能な限りの心遣いを捧げている。強大な力を有するが故に他人と距離を置こうとする緋勇に、手の平で、時に全身で触れているのだ。お前は一人じゃない。そう言い聞かせるように。
「お、ひーちゃん、雨降ってきた」
「そうか、丁度いいな。頭を冷やして来い」
「俺、別に熱ねぇけど」
「平熱が高いだろう、お前は」
「ああ、まあ、ひーちゃんよりはな」
「冷やして来い。さもなくば離れろ」
冷厳な言葉に従い、蓬莱寺は体を離した。摂取した栄養を熱に変換する、新陳代謝が恨めしい。文字ばかりを見詰める、黒い瞳が恨めしい。触れるのはやめて、今度はその横顔を見詰める事にした。少し長めの前髪が気になる。それを掻き上げる指先が気になる。「何だこの単語」と呟く唇が気になる。時々回される肩が気になる。
「ひーちゃん」
「ちょっと待ってろ」
「分かった。待ってる」
「よし、いい子だ」
おお、褒められた♪などと思えないのは何故だろう。男だからか、ならば仕方ない。苦しいが、願いどおりに待ってやろう。ちょっとだけ。ちょっとって、どれぐらいだろう。
苦悩する緋勇を見詰めたまま、ちょっとの時間が過ぎた。
「ひーちゃん」
「もう少し」
「少しってどんくらい?」
「・・・月までぐらい」
「そりゃまあ、ひーちゃんなら月まで三分ぐらいだろーけど」
「それは買い被りすぎだ」
「行くんなら俺も誘えよ」
「生憎だが、そんな予定は無い」
「なんだ、つまんねぇの」
何処かで見た、月面の写真を思い出した。穴ぼこだらけの殺風景な場所だと思った。月の起源には、いくつかの説がある。曰く、浮遊していた天体が、地球の重力に捕まった。また曰く、地球が誕生する際に、砕けた欠片が集まって月になった。前者だったとしたら、酷い話だ。捕らわれて、縛り付けられた月が可哀想。蓬莱寺が持つのは人の目で、人の脳で、人の体だ。自分以外のあらゆる存在を、永久に理解する事はないのだろう。或いは、どれだけ頑張っても客観的に観測できない自分自身こそ、最も理解し得ない存在なのかも知れない。
緋勇が顔を上げた。大きく腕を伸ばし、背中を反らせる。間接が小さく鳴った。
「ひーちゃん、終わった?」
「そういう事にしておこう」
「おう、ごくろーごくろー」
そう言って、まるで労わるように頭を撫でた。髪を一掬い指先に乗せ、さらりと落ちる感触を楽しむ。前髪を掻き上げ、露になった瞳を覗きこんだ。その目が睡眠を欲している事に気付き、蓬莱寺が唇を曲げた。
「ひーちゃん、眠い?」
「眠い」
「ずっと起きてられたらいいのにな」
「そうか?」
「寝ちゃったら、ひーちゃん喋んねぇだろ」
「寝言ぐらいは言うかも知れない」
「俺のこと見ないし」
「起きてても見てるとは限らない」
「俺は起きてる時はずっとひーちゃん見てるぜ」
「それは嘘だろう」
「うん、まあ、嘘だけど」
緋勇が、脱力して蓬莱寺にその身を預けた。触れてくる体温には、もう慣れたのだろうか。腕の中で目を閉じる緋勇を見詰めながら、蓬莱寺が上を見た。天井が見える。それを透過して、空が見えたらいいのに。まだ雨は降っている。ならば雲も、何もかも透過して、何も見えなくなればいいのに。可哀想な月も、可哀想な黄龍の器も、可哀想な自分も、全て。
机の上に放置された、緋勇の努力の結果を見る。
ああ、自分の能力を信じるなんて、愚かしい慢心だった。蓬莱寺が安心していられたのは、緋勇が優しいからだ。或いは、学業に重きを置いていないからだ。緋勇がレポートを完成させたのは、自分の知識欲の為ではなく、得られる社会的評価の為でもない。闇に生きる彼女の為だ。何をどう間違って公務員になったのかは判じかねたが、彼女は教師としての役割を全うする事に価値を見出している。その為に、緋勇は生徒としての役割を果たした。
その行為が無駄だなどと、絶対に言わない。だって、緋勇は信じているから。どうせ器としての機構が作動したら、全ては消え失せるのに。とも言わない。思うだけで、言わない。表に出ないのならば、彼がそれを知らないのなら、それは存在しないのと同じ事だ。流れ去るだけ。何も残らない。きっと、すぐに皆は忘れてしまう。そんな事、彼は知らなくていい。
砕かれた矜持も、秘めた慟哭も、清廉な決意も、やがて消えゆくのなら、全ての有は即ち無だ。
彼の消滅を思うだけで泣き叫びたくなる自分も、無だ。
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