ノックもせずに部屋に入ってきた蓬莱寺は、あちーあちーと呪文のように呟きながらシャツを脱ぎ、半裸になって床に寝そべった。そのままピクリとも動かなくなったので、緋勇は気にせず腕立て伏せを再開した。蓬莱寺に気を取られて何回目なのか分からなくなったので、1から数えなおす。
しばらく無言で汗を床に落としていたら、蓬莱寺が視線だけ寄越して問うた。
「なあ龍麻、暑くねぇの?」
「心頭を滅却すれば火も涼しくなると醍醐が言っていた」
「いや、あれ嘘だから」
「そうなのか?」
「だって火は熱いだろ」
「それもそうだな」
「熱いって思わなかったら焼け死ぬだろーがよ」
「む、たしかに」
52、53、と口中で数えつつ、至極もっともな意見に頷く。
痛みや苦しみは、肉体が発する危険信号だ。痛いと感じるのは、生命に危機が及ぶからだ。苦しいと思うのは、死にたくないからだ。この心は、こんなにも生きていたいと叫んでいるのだ。
緋勇は腕を下ろし、床に座り込んだ。蓬莱寺が、寝そべったまま声を発した。
「龍麻」
「なんだ」
「暑いな」
「そうだな」
「あ、やっぱ暑いんだ」
「何が言いたい」
「いや、別に」
お前はなんにも感じてないのかと思ってた。無音でそう告げて、蓬莱寺は安堵したように目を閉じた。
やがて聞こえてきた寝息を聞きつつ、緋勇が首を傾げる。よく分からない男だと、深く考えもせず緋勇はいつもどおり安易に断じた。
蓬莱寺は後悔していた。「涙を見せるな」などと言ってしまった事を思い出すと、心が呵責に苛まれる。いつもどおりの冷たい黒瞳で、緋勇は無表情に頷いた。俺は構わねぇけど、などと慌てて取ってつけたが、その言葉すら悔やまれる。他人の前では泣くな。泣くなら俺の前だけで。そんな浅ましい心を、きっと彼は見透かしただろう。
あの男の傷付いた心を癒すのが自分だったらと考えて、この期に及んでそんな無邪気な願いを浮かべる自分を嘲った。
少女が死んだ。
蓬莱寺が知っているのは、それだけだ。緋勇が彼女にどのような気持ちで接していたのか。彼女は緋勇にどのような感情を抱いていたのか。叶わぬ願いにそれでも頷いた緋勇は、本当にそれを信じたのだろうか。それとも、哀しい彼女の為に優しい嘘をついたのだろうか。あるいは、緋勇も望んでいたのだろうか。叶わぬと知りながら、せめて、と。
蓬莱寺は何も知らない。
目を閉じていても、緋勇の気配は察せられた。今度は腹筋のようだ。一定のリズムで吐き出される呼気が、熱せられた室温を更に上昇させている。開け放たれた窓からは、ぬるい微風が時折ふらりと舞い込むばかりだ。床も皮膚も汗で濡れて気持ち悪い。緋勇は黙々と汗を落としている。
「なあ龍麻」
「なんだ」
「暑くねぇか?」
「・・・暑くない」
「嘘つけよ」
「・・・」
小さく舌打ちが聞こえた。緋勇が苛立っている。怒るなよ、と寝言のように囁けば、怒っていないと声が返った。もしかしたら、本当に怒っていないのかも知れない。蓬莱寺の言動が、彼に影響を与える事など有り得ないのかも知れない。
床にべったりと貼り付いて、緋勇の顔を見る。緋勇は自分の爪先を見ていた。折り曲げられ、また伸ばされる腹部をぼんやりと眺めながら、蓬莱寺は感じている不安の正体にようやく気付いた。
「龍麻」
「なんだ」
「俺がいるだろ」
「?」
緋勇が腹筋運動をやめて蓬莱寺を見た。その瞳は、あからさまな理解不能を浮かべている。まあそうだろうな、と、発言が唐突であった事を自覚している蓬莱寺は胸中で嘆息した。
出会った当初は分かりづらいと感じていた無表情も、最近では少しだけなら読み取れるようになった。それも身勝手な幻なのかも知れない。彼の心など、本当には。
緋勇が傷付いていないといい。蓬莱寺は思い、その思いを悔やむ。
少女の死などでは揺らがず、動じず、傲然と前だけを見ていればいい。誰も、その心には届かないといい。そうすれば、この手が届かずとも、少なくとも誰かを羨む事はなくなる。たとえば、緋勇を傷付けた少女にこんな気持ちを抱かなくて済む。
蓬莱寺は、深く悔やんでいた。
緋勇は深く考えなかった。どうしてこの男はわざわざ人の部屋で昼寝をするのか。他に涼しい場所ならいくらでもあるのに、どうしてよりにもよってクーラーもないこの部屋に来るのか。疑問はあったが、考えもせず、問い質しもしなかった。
それと、脱ぐだけなら構わないのだが、脱いだシャツをその辺に放置するのもやめて欲しい、と緋勇は思っている。特徴的な柄ならまだしも、着古して色褪せたシャツは自分の物と見分けがつかないのだ。なんの気なしに洗濯してしまって、何も考えずに着てしまって、出会い頭に「それ俺の!」と訴えられたのも一度や二度ではない。しかも「まあいいや」と言いつつ、横目で窺うようにちらちらと見るのは何故だ。しかし結局はそれも言い出せない。
思考に気を取られていたら、またしても回数が分からなくなった。八つ当たりぎみに蓬莱寺を睨むが、こちらに背を向けている彼には届かない。どうすればこちらを見るだろうと考え、ふと自分の手の平を見下ろす。この手が触れれば、彼は振り向くだろうか。
伸ばした手は、届かなかった。炎の向こうに立つ少女は、それでも微笑んだ。
もし届いていたら、あの細い腕を掴んでいたら、少女はもっと嬉しそうに笑ってくれたのだろうか。ささやかな願いも、奇跡など必要とせずに叶ったのだろうか。
伸ばした手は、届かなかった。あと一歩でも踏み出していれば、届いたかも知れない。踏み出せなかったのは、炎が熱かったからだ。痛みを恐れたからだ。彼女が死んでも自分は生きていたいと望んだからだ。
見下ろした手の平を閉じて顔を上げると、蓬莱寺と目が合った。蓬莱寺は床に頬をくっつけたまま、やけに尖った視線で見上げてくる。攻撃的な目だ。暴力的な顔だ。それなのに体はぐったりと弛緩している。やはりこの男はよく分からない。
「どうして来た」
「ん?」
「何をしにここへ来たんだ」
「別に、なんとなく」
ふいと顔を逸らして、蓬莱寺が短く答える。声もあからさまに不機嫌だ。それなのに手の平は無防備にさらけ出されていて、愛用の得物も離れた場所に転がっている。不自然な無防備さが、どうにも意図的であるかのような印象を緋勇に与えた。まるで気を引くように、それでいて明確な意思を隠すように感じられる。
しかし追求する術はなく、緋勇の口からは惰性のようなつまらない言葉しか出てこなかった。
「暑いのか?」
「なあ、パンツも脱いでいいか?」
「俺は構わんが」
「構えよ」
うつ伏せだった体をごろりと反転し、天井を見ながら蓬莱寺が低い声で言う。何を言えばいいのか分からなかったので、緋勇は何も言わずにその顔を上から覗き込んだ。
流れ出る汗が米神から頬を伝い、顎からぽつりと蓬莱寺の鼻先に落ちる。脱力して投げ出されていた手の平が、ぎゅっと握り込まれた。
「たつま」
「なんだ」
「俺がいるだろ」
「お前がいるから、どうした」
「俺がいるから」
弱くても、頼りなくても、臆病でも、傷付いても、後悔しても、立ち止まっても、俺がいるから。うつむいても、目を逸らしてもいいんだ。泣いてもいいんだ。お前が泣いてる時は、俺が顔を上げるから。
俺がいるから、泣いても悔やんでもそれは敗北にはならない。
「俺がいるから、いいんだよ」
「よく分からん」
蓬莱寺がやっと笑ったので、緋勇は安堵してその額に拳を落とした。
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