ひときわ大きく風が鳴った。眠っていた自覚はないのだが、皆守はふと覚醒した。覚醒したのだから、きっと眠っていたのだろう。自覚はないが。
 カーテンを開け放していた窓から、皓皓と月がこちらを見おろしている。
 同じ面だけを見せる月はその後ろ側が傷だらけなのを、どうして自分は知っているのだろうと、不思議な気持ちになった。見た事などないのに。地球からは見えない部分だけ、クレーターだらけなのだ。月には守ってくれる大気もない。放射線も隕石も、真直ぐに落ちてくる。

 まだ70%ほどは眠っているようだ。アロマを指先で探り当てて、火を点ける。窓の外では、何か不吉な予感のように木々がざわめいている。皆守にとっての不吉とは、死や終焉ではない。だとしたら、この風は何を運んできたというのだろう。

 冷たく硬質な音が、かすかに聞こえた。鉄がすり合わさるような、気味の悪い音だ。小さく、何度も、繰り返す。皆守は耳をふさいで毛布を頭まで引き上げた。
 やがて音がやむと、静寂がきんと凝固した。なぜか風さえもやんだようで、今は皆守の部屋の窓の下でうずくまっているか寝そべっているかは分からないが、先程まで無様にあがいていた男が、まるであらゆる不吉なものを連れてきたかに思えた。
 あの男が死ねば、きっと世界は平穏で、優しいものになる。目を閉じてそう断じた。

 まどろんでいたのか、耳を澄ましていたのか、皆守の耳にまたしても音が触れた。ゆっくりと溶けてゆくような心地が、硬く尖る不快感に、思わず舌を打つ。
 息遣いすら感じられるのが、もうどうしようもなく耐えがたい。いっそみずから殺しにいこうかと常になく積極的な気持ちになったものの、体は常と同じく静謐を欲した。その欲望までもが、不快な気配に侵食される。

 堪らなくなって身を起こしたのが、殺すためなのか、生かすためなのか、皆守には判ぜられず、また判ずる意思もなかった。
 毛布を抜け出し、気怠くぬくまった体を冷気にさらす。よし、殺そう。そう決めたのは、裸の爪先を床に下ろした瞬間だった。面倒だが、今あの男を殺しておけば、今後このように煩わされる事もなくなるだろう。

 窓を開けて、身を乗り出す。予想たがわず、視界に寝そべった男が見えた。うつ伏せで、まるで行き倒れのような格好だ。おそらくは、本当に行き倒れたのだろう。行こうとして、倒れた。どこへ行こうとしたのかは、知らないし知ろうとも思わない。

 顔の近くに着地して、靴を履いていない事に気付いた。予想外に痛かった。どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか、筋違いの恨みを込めて男を見おろす。
 腕がおかしな方向に曲がっているのが気持ち悪い。感想としては、それだけだった。うつ伏せだったので顔もよく見えない。なんとなく、爪先で小突いて顔を上げさせる。小さく呻いた声は無視して、ようやく見えた彼の寝顔に満足した。
 裸足のまましゃがみ込んで、その顔を覗いてみた。指先を、そっと唇に触れさせる。乾いて血の滲んだ唇からは、残念ながら生ぬるい息が吐き出されていた。
 吐息で湿った指先を持て余して、その生命の温度があまりにも苦痛に満ちていて、皆守は戸惑った。

 左手は、なんとなく使えなくなってしまった。指先に残っていた温度はもう冷えていたが、感触がなかなか消えないのだ。どうしようかとしばし迷い、どうしようもなくて中途半端な位置でゆらめかせて、皆守は考えるのをやめた。
 右手で左側のポケットから携帯を取り出し、眼下の男に向ける。パシャっと弾けるような音がして、男がまた少しだけ呻いた。薄く、目を開ける。

「あ、みなかみ?」
「おう」
「え、あの、何してんの?」
「撮影」
「何を?」
「お前の死に顔」
「まだ死んでない」
「もうすぐ死ぬだろ」
「死なないよ」
「なんでそう思う?」
「え、いや、だって、死ぬほどの怪我じゃない」
「俺の前で、そんな無防備に寝っ転がってるのに?」
「・・・ええと?」

 ぼんやりしていた葉佩の目が、ほんの少しだけ見開かれた。じわじわと、染み入るように表情を変える。そうしてから、ぎこちない動作で何やら変な声を上げつつも、上体を起こす事に成功した。

「あ、あの、皆守くん?」
「なんだ?」
「あ、裸足だ」
「そうだな」
「靴は?」
「忘れた」
「え、それって人としてどうなの」
「人間は、忘れる生き物なんだ」
「そ、そうなの!?」

 いつまでも憶えていては、生きていられない。だから忘れるのだ。すべては流れ去るのだから、取り残されても寂しくならないように、忘れるのだ。在った事も、会った事も。だから、靴くらい忘れても不思議ではない。足の裏が痛くても、だから仕方のない事なのだ。

「じゃあしょうがねぇな!」
「思ったより元気だなお前」
「残念そうに言うな」
「いや、別に残念とかは言ってない」
「でも思ってんだろ?」
「なんで分かるんだ」
「なぜなら俺は」
「まあいいか」
「聞いてください!」

 と叫んでから、自分を抱えるような仕草でうずくまった。聞き取れないくらい小さくてかすれた声で何やら不穏な言葉を呟き、言葉ではない音を絞り出して、黙った。
 黒い服は、血液を含んでいても判別しづらい。闇に溶けるような色は、きっと彼が夜に行動する生物で、人目に触れる事を望んでいないからだ。闇の底で、誰にも知られずに死んでゆくのが、彼の願いなのだろう。

「可哀想に」
「な、何が?」
「お前が」
「脳内で何があった」
「まあ、気持ちは分からなくもない」
「お、おお、理解が得られた?」
「という訳で」
「え、待ってさっぱり分かんない」
「ああ、お前には分からないだろうな」
「俺が可哀想な感じで納得すんな!」
「だってお前、可哀想だろ」

 皆守がそう言うと、雲が不意に月を隠した。ようやく静寂を得た。満足して、皆守は裸足のままきびすを返した。その背中を、声が追う。

「あ、皆守、ちょっと待って」
「なんだよ」
「写真」
「写真?」
「撮っただろ」
「ああ、そういえば」
「なんで撮ったの?」
「なんとなく」
「待ち受けとか、すんなよ」
「それはさすがにしないと思う」
「どうせなら、もっといい顔で写りたい」
「いい顔してるぞ、ほら」
「まあいいか、あとでこっそり消しに行くよ」
「おい、なんだその殺人予告」
「いや、あの、その写真をね」
「ああ、なんだ、俺が消されるのかと思ったぜ」
「なんかもう、いっそすげぇなお前」

 そう言って脱力した死にぞこないは、たぶん放っておいても死なないだろう。そして、そろそろ取り繕うのもつらいほど疲労が強くなってきたらしい。早く立ち去れと、声ではなく主張しているのが皆守にも分かった。おやすみ、と言って微笑むと、息をのむ音が聞こえた。振り向かず、歩き出す。

 歩いて寮に戻り、階段をのぼり、部屋のドアを開けてから気が付いた。左手はまだ使えなかったので、右手で携帯を取り出す。
 どうして写真など撮ったのか。ふと考えそうになって、慌てて思考を止める。こんな小さな端末の、ささやかな電気信号で、まるで彼を手に入れたかのような気分になるのが、自分でも気色悪い。

 写真。

 何かが浮かびそうになって、慌てていたので左手でライターを擦った。いつまでも残っていて不快だった柔らかな感触が、着火して煙になって消えた。やっと安堵して、息をつく。
 左手で携帯を操作して、撮ったばかりの写真を削除した。親指がボタンを押した瞬間、なぜか喪失感がじわりと広がった。消してしまった写真を惜しんでいるのだと、数秒の間をおいて察する。
 自分は写真が欲しかったのだろうかと考え、否と思い至る。写真が欲しかったのではない。やっと気付いた。
 欲しかったのは、写真ではない。

 一度は陰った月が、まだ姿を現した。取り繕った顔、見えない傷。目を閉じて、そんなものを漫然と思い浮かべる。
 そうか決して手に入らないものが欲しかったのかと、皆守は自分を憐れんだ。