蓬莱寺は更なる深層に向かう階段の前でふと、不安になった。もしかしたらこの地下への階段は、永遠に続くのではないか。終わりの無い戦闘が、唯只管に存在しているのではないか。
修羅道、という言葉が脳裡を掠める。目的を持った戦いではなく、生き物を殺傷する為だけに、この手の中の刃を振り続ける。そんな自分の姿を夢想し、蓬莱寺は背筋を粟立てた。
守りたいと思うのは本心だ。力を持たない者を、それでも生きたいと願う命を、自分の手で守る事が出来たら。熱く深く、そう思う。同時に、自分の中の欲求を意識する。力を誇示したい。自分の強さを確かめたい。もっと困難な逆境を。激しい痛みを。それらを全て、俺は力に出来る。それを証明したい。闘いたい!
「来るぞ!」
緋勇が凛と声を張る。巨大な鬼が咆哮を上げて襲い掛かる。蓬莱寺は一瞬前の自分の不安を忘れ床を蹴った。斜め後ろにいた桜井が、鋭い気合いと共に矢を放つ。醍醐が雄叫びを上げながら低く、速く複雑に蹴りを繰り出す。美里に後方から気を送られ、血が沸騰するような高揚感を覚える。羅刹と呼ばれる状態だ。人を食う鬼と同化し、鬼を斬る。僅かに残った冷静な部分が、その皮肉を笑った。
攻撃の余波で鬼の周りを取り巻いていた小さな(それでも人間よりは大きい)異形が吹っ飛ぶ。それを目の端で確認し、次の技を繰り出すべく蓬莱寺は愛刀を翳す。その瞬間、悲鳴が耳を刺した。
「ああぁ!」
余波で吹っ飛んだ異形が、後ろに居た藤咲を直撃したらしい。かなりの勢いで飛んで行ったのだから、当然ぶつかった藤咲も相当な衝撃を受けただろう。細い体が悲鳴と共に大きく体勢を崩した。
「わりぃ!」
慌てて詫びを入れるが、攻撃の手は止めない。翳した愛刀を一息に振り下ろし、体勢を崩した鬼に更なる追撃を打ち込む。間合いを確かめ止めの一撃を叩き込むと、予想に違わず鬼は断末魔を撒き散らしながら地面に倒れた。
残っていた雑魚も緋勇の一閃で散らされたらしい。殲滅を確認し、緋勇が拳を下ろす。そしてそのままの表情で蓬莱寺に視線を向けた。視線を受けて、蓬莱寺は笑みを返す。「ナイス鳳凰」などと言いながら親指を立ててみる。緋勇の表情が険しくなり、視線を促すように流した。促されるままに視線を移動させると、藤咲が目に入った。
額から血を流し、美里に支えられるようにして座り込んでいる。先程の衝突事故が原因なのは考えるまでもない。蓬莱寺は慌てて藤咲に駆け寄り、改めて詫びの言葉を口にする。
「悪かった。大丈夫か?」
「大丈夫。葵ちゃんに手当てしてもらったから。」
「そっか。」
「でも傷が残ったら責任とってよね。」
冗談なのか本気なのか判断し難い表情で笑い、藤咲は髪をかき上げた。傷は塞がっている様に見えるが、流れた血液は未だ乾かずに服を染めている。ぶつかった衝撃で転倒したらしく、掌と膝にも擦過傷があった。
「・・・悪かった。」
もう一度、深く頭を下げる。止むを得ない状況ではなかった。注意していれば避けられた。その事実を噛み締める。
数ヶ月前のあの旧校舎での出来事を、蓬莱寺は時々思い出す。美里達も同じだろう。道に迷い、自分が何処から来たのかを確かめる為に振り向く。しかし蓬莱寺が振り向く理由は、美里のそれとは違った。
幼少の頃から、強くなりたいと心の奥で叫び続けた。誰にも負けない心を、理不尽に与えられる暴力に抗う術を、全てが平伏す程の力を欲した。しかしそれは間違いだ、と囁く自身の声も感じていた。殺傷する能力に長けている事と、自分が求める強さとは違う。では、自分が求める強さとは何だ。
《力》に目覚める以前も、蓬莱寺は喧嘩で負けるという経験を久しくしていない。口先ばかりの愚鈍な挑戦者達の相手をする事すら煩わしく感じていた。自分は何処へ向かっているのか。もしかしたら、この先に在るのは虚無ではないのか。その疑念に、恐怖すらしていた。
運命が存在する事に気付いたのは、その頃だった。鮮烈な残像が視界を埋める。与えられた敵という存在。蓬莱寺に湧き上がったのは歓喜だった。許された、と思ったのだ。この道で間違いない。その確信の、何と安寧に満ちた事か。
心臓が絞られる様な恐怖も、自分では止められない体の震えも、全てが心地好かった。自分では、永遠に辿り着けない境地が在る。その事実を認識して、蓬莱寺は歓喜した。虚無など存在しない。進む道は永遠に続いている。
歓喜を呼び覚ました永遠と、常闇の淵で垣間見た永遠。自分の行動が原因で、仲間が流した血。
容易く揺らぐ自分の心を意識して、蓬莱寺は素振りの手を止めた。回数など端から勘定していない。腕が疲労を訴えるまで振り続けるのが、蓬莱寺の常だった。冷水で汗を流し、見上げた空には静謐な光。
「寝待月、ってヤツか?」
口中で呟き、その光と良く似た人物を想った。満ちて、欠けて、また満ちる。照らす事なく光を放ち、ふと気付くとそこにいる。温度を持たないその光が、緋勇の眼差しを思い出させた。
濡れた髪を夜気に晒したまま、蓬莱寺は道を踏む。向かう先は漠然としているが、恐らく着く場所は一つだ。
(もう寝てっかな。)
夜は更けた。朝の早い緋勇の事だ。就寝時間も早いのだろう。蓬莱寺も、会えるとは思っていない。むしろ会っても何を話したら良いのか分からない。気配だけでも感じ取れれば、などと考えていた。今、あの氣を感じたかった。
予想に反して、緋勇の部屋の明かりは付いていた。思わず時計を確認する。深夜といっても可笑しくない時間だ。もう一度、緋勇の部屋を見上げた。抑えられてはいるが、確かに緋勇の高潔な氣を感じる。
(何やってんだ、早く寝ろ。)
声に出さずに呟きながら、意識して自分の氣を高める。気付くな、気付いてくれ、と同時に思う。
窓が開いた。
「ひーちゃん、何してんだよこんな時間に。」
「・・・こっちの科白だ。」
「俺はただの散歩だよ。ちょっとこっち来たから寄ってみただけ。」
「そうか。早く寝ろ。」
「ひーちゃん、何してた?」
「何も。」
緋勇は、本当に何もせずに時間を過ごす事がある。脳内では何事か行われているのかも知れないが、傍から見れば虚空の一点を見詰めているようにしか見えない。出合った当初は不思議で仕方なかったが、今では少しだけ分かる。緋勇は、自分が王者であるかのように錯覚しているのだろう。迷いや不安を表に出す事を善しとしていない。その事実に、蓬莱寺は漠然とした痛みを覚えていた。
お前はそうして、ずっと一人で行くのか?
口に出した事はないが、その痛みは絶えず蓬莱寺の心臓を刺激していた。
「上がっていーか?」
「・・・いや、俺が下りる。」
そう言い、乗り出していた顔を引っ込めた。暫くしてアパートの玄関から緋勇が姿を見せる。
「何で制服?」
「気にするな。」
「寝るトコじゃなかったのか。」
「・・・努力はしていた。」
「努力?何の?」
「寝る。」
眠れなかった、という意味だろう。緋勇にもそんな人並みな事があるのか、と蓬莱寺は奇妙な感慨を覚えた。緋勇は黙ったまま蓬莱寺の歩調に合わせている。その横顔からは、何の感情も読み取れない。沈黙を厭い、蓬莱寺は会話を続けようと言葉を発した。
「月、出てんだろ?」
「出てるな。」
「アレ、ちょっとひーちゃんに似てるよな。」
「そうか。」
「俺、お前の為になら闘えるぜ。」
「その必要は無い。」
蓬莱寺にとっては雑談に混ぜた告白のつもりだったが、余りに唐突だった上に、きっぱりと斬って捨てられた。自分に対する突っ込みの嵐が胸中を吹き荒ぶ。
「あー、まあ、忘れてくれ。」
何とかそれだけを声に出し、再び訪れた静寂に奥歯を噛み締め拳を握る。自己嫌悪に陥った蓬莱寺を気遣いもせず、緋勇は前を見たまま言葉を紡ぐ。
「俺を理由にするな。」
落ちた言葉に蓬莱寺は、はっと顔を上げた。そんなつもりではない、と口にしようとして、その言葉の薄っぺらい響きに愕然とする。
「お前は、他人を利用して自分の衝動を正当化しているだけだ。」
「・・・そーかも、な。」
「強くなるという事は、何も感じなくなる事だ。」
「そうか?」
「俺にとってはそういう事だ。痛みも恐怖も無くなる。」
「ふーん・・・」
「だからお前は、強くなる必要は無い。」
「そんなこたぁねぇよ。」
「まあ、好きにすればいい。」
突き放す様な科白が、蓬莱寺の脳内で違う言葉に変換された。緋勇は迷っている。道を見付けられぬまま、何が正しいのか分からぬまま、それでも全てを振り切って進んでいる。そう聞こえた。
「・・・あ、何か今電波来た。」
「家族が心配してるんじゃないのか?」
「いや、携帯じゃなくって。」
笑いながら、住宅街の小さな公園に入る。街灯が映し出す葉桜のざわめきを吸い込み、言葉と共に息を吐き出す。
「仲間に怪我ぁさせちまったのは、俺が未熟だったからだ。」
「・・・その通りだ。」
「うん、だから俺は、強くなる。」
「自分を律する事が、お前の求める強さか。」
「ん、んん?うん、まあ、そんな感じ。」
広い通りに出て、月ではない光が二人を照らした。大きなトラックが轟音を立てて通過する。その上に架けられた歩道橋の真ん中で、蓬莱寺は今度こそ、と口に出す。
「血ぃ見て寝らんなくなるヤツが、ちゃんと熟睡できるよーに、だよ。」
緋勇の目が少しだけ見開かれたのを視界の端で確認し、一本取った、と胸中で笑う。自分の体ならばどれ程に傷付こうとまるで頓着しないのに、仲間の怪我には滑稽な程動揺する。
緋勇は弱い。痛みにも恐怖にも、過敏なほど反応する。失う覚悟など、出来る筈がないほどに未熟だ。
増えて行く仲間の数は、比例して危険も増大させる。何か一つ失う度に、この奇妙な転校生は眠れぬ夜を過ごすのだろう。長い夜を越えて、失った分だけ自分も壊して、そうしていつか倒れ臥すのだろう。守れなかった自分を責めながら。
「俺のこたぁ、守る必要ねぇぞ。」
「ならいいんだがな。」
「信用しろよ。」
「無茶を言うな。」
迷いは未だ消えない。眠れぬ夜は、これからも無数にあるだろう。その度に緋勇は少しずつ壊れて行くのだろう。
守りたい、と、熱く深く思う。その度に、蓬莱寺は自分の無力に打ち拉がれる。永遠に辿り着く事のない場所は、本当は存在していないのかも知れない。自分が強くなれる日など来ないのかも知れない。失い続けて、後悔と共に沈んで行くだけなのかも知れない。
闘うという事は、そういう事なのかも知れない。決意などではなく、覚悟でもなく、蓬莱寺はただその言葉だけが眼前に浮かび上がるのを見詰めた。
「修羅道ならば、望む所だ。」
前を見たまま、緋勇が言う。蓬莱寺は、嘘つけ、と笑いながら緋勇の肩を小突く。本当は、怖いくせに。
「まあ、お前となら修羅場も悪かねぇな。」
緋勇と同じ方向を見詰めながら、蓬莱寺は軽口に似せて心を告げる。
隣を歩く緋勇がこちらを見詰めている事に気付き、蓬莱寺は、この人を壊すのが自分ではないように、と身勝手な誓いを込めてその視線を受け止めた。
きっと、この夜の記憶が、いつか来るその日を安らかにしてくれる。
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