轟音と共に鋭い稲光が走った。まさかこの場所に落ちはしないだろうが、天の怒りにも例えられる轟音は、理屈ではなく恐怖を呼び起こす。雨を避けて走り込んだ大木の陰で、蓬莱寺は湧き上がった恐怖に挑もうと、咄嗟に閉じてしまった目を見開いた。師匠に言われるままに、一人で山の奥に入り込んでしまった事を一瞬だけ後悔する。枝葉が受け止めそこなった雨粒を浴びながら、認めたくない感情と寒気が体を振るわせた。先程まで騒ぎ立てていた蝉の声も止んでいる。
 「人の介入を許さない節理を、身を以って体験する為だ」と、山に入る理由を、師匠はそう告げた。自分の力がどれほど小さなものなのか、それを知る為だと。蝉時雨に圧倒され、草いきれに飲まれ、雷雨に恐怖する事が、強くなる道なのだそうだ。男の横顔を思い出し、恐怖ではないものが湧き上がるのを確かめる。

「ぜってぇウソだ・・・」

 弱音に似た呟きは、激しい雨音と雷鳴に掻き消された。自分の脆弱さなど、蓬莱寺は良く知っているつもりだった。だからこそ、求めるのだ。
 誰にも負けたくない。
 そう真っ直ぐに言い放った蓬莱寺を見て、あの男は少しだけ目を細めた。痛みを感じたのか、それとも遠い幸福を思い出したのか。静かなその表情を、蓬莱寺は今でもはっきりと覚えている。












 雷が少しだけ遠ざかった。雨脚も弱まり、心成しか視界も開けた。西の空が明るくなっている事を確かめ、蓬莱寺は木陰から身を乗り出した。止んでいた蝉の声が、再び喧しく大合唱を始める。濃い土の匂いが鼻腔を刺激する。ぬかるんだ道を踏みながら、蓬莱寺は奥歯を噛み締めた。自分でも理由は分からないが、何故か込み上げたのは涙だった。

 引き戸の奥には、いつものように男が座っていた。雨に降られた蓬莱寺を見て、さも可笑しそうに煙を吐き出す。

「どうだ、勝てたか?」
「はぁ?何に?」
「負けたんだな」
「負けてねぇよ」

男の言う事は、いつも良く分からない。それを認めるのが悔しくて、蓬莱寺は早々に会話を打ち切ろうとした。しかし、男は平然と続ける。

「負けた面してるぞ。・・・怖かったんだろ?」
「怖くねぇよ!あんなもん!」
「そいつは、自分に負けたって事だ。」
「聞けよ!」

むきになる蓬莱寺に、男は至ってマイペースに言葉を投げかける。どうもこの男は、自分とは違う時間軸で生きているようだ。時々蓬莱寺は不安になる。今話している相手は、本当に此処に居るのだろうか。幻ではないか。

「嘘吐くなよ」
「怖くねぇモンは怖くねぇんだよ」
「負けるのも、悪ぃモンじゃねぇぞ」

 幻だとしたら、自分は何て優しい幻を作ってしまったのだろう。

「一遍負けて大泣きしとけ。そしたらもっと強くなれるぞ」

 優しくて、強くて、なんて悲しい幻を。












 蓬莱寺は、幼い自分が嫌いだった。早く大人になりたい。大きく、強くなりたい。眠る前に浮かぶのは、そんな思いばかりだった。
 今では馴染んだ木刀の柄を握り締め、落ちてくる水滴を突く。軒に溜まった水は、風と重力に従って動く。並んだ雫を満遍なく見詰め、次に落ちる水滴を察知する。落ちる速度。風の強さ。全てを把握して、突く。

「おー、やってるな」

 時々ふらりと消える男は、やはり帰って来る時も前触れが無い。ふと蓬莱寺は、彼の足音を聞いた事がないという事実に思い当たった。素足で板の間を歩く時ならまだしも、下駄で歩く時もだ。足はある。思わずそれを確かめた視線を、慌てて水滴に戻す。その足に蹴り飛ばされた記憶は、未だ新しい。

「今日も暑くなりそうだな」
「分かりきった事いちいち言うな」
「分かりきってるから言うんだよ」

 日が昇ると同時に急速に気温も上がり出した。大地から立ち上る水蒸気が、まるで未だ夢の中にいるような錯覚をもたらす。それを振り切るように、蓬莱寺は柄を握った。初めて手にした時は、重たくて硬いだけの無機物だった。気付かぬ内に少しづつ変化したそれと、重さも硬さも感じなくなった自分の手を意識する。
 『その場所』に近付いている。その確信が欲しかった。

「朝飯、何が良い?」
「ラーメン」
「重いな。鯵の開きにするか」
「聞いた意味ねぇ!」
「そ−いや俺も、昔闘ったな」
「ラーメンと?」
「ラーメンと。結構手強かったぜ」
「食いモンと闘うなよ・・・」

言葉の齟齬にも、もう慣れた。時々素っ頓狂な事をいうのだ、この男は。深くは突っ込まず、蓬莱寺は用意された朝餉に取り掛かった。












 男は、寡黙でない時は饒舌だ。特に『相棒』の話をする時は、それが顕著に見える。男の口から語られる『相棒』は、およそ現実離れしていた。作り話だろうと笑った蓬莱寺に、男は静かに微笑んだだけだった。名前も聞いた筈だが、奇妙な語感のその名を、蓬莱寺は記憶しなかった。一度だけ、戯れに問い掛けた事がある。その人に会いたいか、と。
 その問いに、男は遠くを見詰めた。

「どうせアイツは、別嬪の嫁さん貰って子供たくさん作って死んだんだ」
「死んだ?」
「多分な」

そんな目で、何を見ているのだろう。記憶だろうか。幻だろうか。決して知り得ない、その人の最期かも知れない。心に刻まれた、その人の背中かも知れない。
 その人が、幸せだと良い。漠然とそんな事を考え、口に出そうとしてやめた。せめて、男の見詰めるそれが、優しいものであるように。
 落ちた雫に、ただ願った。

「俺だってアイツに会えたんだ。お前だって会えるよ」

 蝉時雨に混じって聞こえたその言葉が、いつまでも耳に残った。












 遠雷の音に、蓬莱寺は空を見上げた。真上は未だ青空を見せているが、西の方は濃い灰色に覆われている。先程まで隣にいた筈の男は、いつの間にか姿を消していた。昨日よりも『家』は近い場所にいたが、走って帰るには少し遠い。濡れ鼠覚悟で走るか、と考え、慌てて首を振る。

「怖くねぇ」

小さく声に出し、夕立を凌げそうな木を探す。どれだけ葉が茂っていても、枝が細ければ雨は避けられない。
 俄かに暗くなった空に、鋭い閃光が走る。ほぼ同時に轟音が耳を劈く。思わず上擦った声を上げそうになり、蓬莱寺は慌てて唇を噛み締めた。目を見開き、大木の根に足を踏ん張る。
 木は生き物なのに、何故冷たいのか。汗ばんだ肌を寄せ、その涼を一頻り味わう。幹を這う虫を指先で突付きながら、蓬莱寺は次の閃光を待った。

「そいつは、死の恐怖だ」

突然、雨音よりも近くで声がした。しかし姿は見えない。左右を見渡しても、太い幹の反対側にも、その姿は無かった。声だけが蓬莱寺の耳に届く。

「俺もお前も、今雷に打たれて死ぬかも知れない」
「こっ怖がらせよーったって無駄だからな!」
「俺は怖い」
「・・・怖いのかよ」
「俺は、一回死んでんだよ」

心臓が冷えた。幻は幻でも、そういう類のモノだとは考えていなかった。幽霊が作った飯まで食ってしまった。何だっけ、何かあったような死者の国の飯を食ったら、もう二度と地上に戻れない、みたいなの。
 雨脚は強まったが、蓬莱寺の耳にその音は届いていなかった。男の声だけが、まるですぐ傍で囁かれているように鮮明に聞こえる。

「アイツの中で、だけどな」
「意味分かんねぇ」
「俺だって良く分かんねぇよ」
「分かんねぇのかよ!」
「どうも俺が死んだと思ってたらしくってな。いや、死んでねぇんだけどさ。でもアイツは、俺が死んで・・・自分だけが生き残ったと思ってたらしい・・・いや、違うか?まあ、良く分かんねぇけど」

凄まじい轟音に男の声が遮られる。稲光が照らす空間に、男の姿は見えない。枝を伝った雫が首筋に落ちた。思わずくぐもった悲鳴を上げ、頭上を振り仰ぐ。

「・・・そこかよ」
「兎に角アイツは、俺が死んだと思ってたんだ」

蓬莱寺が思わず呟いた言葉は、男の耳には届かなかったらしい。蓬莱寺の真上の太い枝に寝そべるように腰掛け、空を走る光を見詰めたまま話し続けている。

「・・・怖かったよ」
「結局死んでねぇじゃねぇか」
「死ぬより怖かった」
「何でだよ。生きてたんだろ?良かったじゃねぇか」
「アイツの中で、俺は一回死んだんだよ」
「・・・良く分かんねぇ」
「絶対死なねぇ、なんて言えねぇしな」

 男が見詰める光は、人の命を奪うものだ。理不尽に、何の理由もなく人を殺傷し、それでも存在し続けるものだ。人の力ではどうする事も出来ない光だ。
 それが、悔しかった。












 ぬかるんだ道に、今日は二人分の足跡を残す。蜩が鳴いている。さっきまでの雨が嘘のように晴れ渡った空は、仄かに夕暮れの色を広げていた。
 込み上げたのは、涙ではなかった。

「お、今日は勝った面ぁしてやがんな」

男が笑う。その目には蓬莱寺が映っていた。蓬莱寺を見詰めたのと同じ目で、男は空を見る。道を見詰め、木々を見詰め、今は遠くにいる人の幻を見詰める。

 いつか、と、蓬莱寺は声に出さずに呟く。
 いつか共に闘う人と出会えたら、その人の幸せを一緒に願おう。
 でもその為には、この男の話から始めなくてはならない。
 それは少しばかり厄介だな、と、男に見えないように蓬莱寺はこっそり苦笑した。