兎と亀の物語。いわずと知れた有名な物語だ。
動作が遅い亀と、俊足を誇る兎。ある日、競争をしたのだが、勝ったのは亀だった。慢心し、自分の勝利を疑いもしなかった兎は、努力を怠って敗北した。一歩一歩を着実に積み上げた亀が勝利した、というこの物語は、男にささやかな感傷をもたらす。
弱くて頼りない弟だった。すぐ泣くし、それでいて負けん気だけは旺盛で、相手も選ばず噛み付く様は、男の目には滑稽にしか映らなかった。彼を守り、教え導くのは、自尊心を心地好く刺激した。そんな事も知らないのか?と口にする度に、悔しそうに、しかし絶対の信頼をこめて向けられる眼差し。今の自分を形作る数多の要素の中には、そんなものも含まれているに違いない。
混じり気のない信頼。果たしてそれが本当に純粋な眼差しであったかどうかは、今となっては確かめる術もない。嫉妬や苛立ち、焦燥、そして自分をそのような状況に追いやった、兄である男をも含めた世界に対する憎悪こそが、あの瞳の光源だったのではないか。
ギラギラと物騒な光を放つ、今でも子供のような弟を見遣る。自分の主張が通らなければ、暴力を以ってそれを押し通そうとする、その態度。我が儘だな、と心で呟きつつも、そんな彼がこんなにもまぶしいのは何故だろう。望めば叶うのだと信じてやまないその姿を、認めるのは業腹だが、少しだけ、断じてほんの少しだけ、心の片隅で、羨んでいる。
己は眠っていたのだろうか。ふと自問する。否、と即座に返る矜持の声。男は進み続けた。立ちはだかる壁を打ち砕き、突き抜けて、最速で走り抜けてきた。彼が拳を誇るように、男にも誇りがある。しかし彼のようにがむしゃらなスタイルは、美意識に反するのだ。雄叫びを上げて荒野を疾駆する姿は獣のようで多少なりとも男心をくすぐるが、もっとスマートにできないものか、などとと男は考える。考えながら、陽光に目を細め、弟の姿に目を細めた。
悲しいなどと、彼はきっと信じないだろう。
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