血が出てる、と彼が独り言のようにつぶやくので、先程の旧校舎でどこか怪我でもしかのかと思わず振り向いた。なぜか睨むような目でこちらを見ている彼に、見て分かる外傷はない。なんともなしに睨み返すような気持ちで目を凝らしても、彼の傷ついた所は発見できなかった。安堵すべきか迷っていると、彼がまたつぶやいた。

「血が出てる」
「どこから」
「手」
「出てないぞ」
「てめーだバカ」

 殊更に嘲るような口調で言われて、覚えず拳が上がった。無防備な顎に、軽く触れさせるだけで済んだ自制心を称賛したい。切っ先のように鋭い視線が、いっそ心地よい。と思っている事は、できれば彼には知られたくない。
 些細な接触で満足してしまった拳を、彼の手が唐突に掴んだ。乱雑な動作で、捻り上げるような勢いで引っ張られて、不覚にもたたらを踏んだ。さも不愉快そうに顔を歪めて、彼が小さく舌を打つ。
 そこでようやく、彼の指摘した手に視線を落とした。手首を掴まれているので、手の平は見えない。小さな古傷は多少あるが、目につく出血はやはり認められなかった。訝しんで、彼の目を見る。

 燃え上がるような、凍り付くような、相反するものを矛盾もなく内包する彼が、ここに存在しているのが奇跡のようだ。彼の瞳をぼんやりと見つめながら、そんな事を漠然と思った。そんな事を思わせる瞳だったのだ。
 苛立った彼が、掴んだ手首をぐいと引き寄せた。当然ながら、続く腕と胴体と、それに繋がるすべてが彼に引き寄せられる。太陽に落ちてゆく彗星は、こんな気持ちなのだろうか。一瞬で、そんな妄想にふける。

「指」
「もう少し分かりやすく喋れ」
「お前にだけは言われたくねぇな」
「俺は、そこまでじゃない、だろう?」
「ちょっと自信なさげだな」
「俺はそこまでじゃない」
「指、ささくれてる」
「?」
「ここ」

 薬指の爪のふちを、彼の硬い指がそっとなぞった。ぞわりと、背筋に怖気のような何かが走る。それを彼には知られまいと、奥歯を噛み締めてやり過ごす。睨むなよ、と、自分の事は棚に上げて拗ねる彼を直視できなくて、目を逸らした。

「痛いか?」
「いや、まったく気付かなかった」
「マジかよ」
「ああ、痛くない」
「じゃあ剥くぞ」
「それはやめろ」
「ほら、やっぱり痛いんだろ」
「いや、だから」
「じゃあ剥くぞ」
「だからやめろ」

 掴まれた手を取り戻し、何やら不穏な事を言い出した彼からも距離をとる。そうすると、彼がまるで酷い裏切りにあったかのような悲惨な目をして、次に凄絶な目でこちらを睨み、更には俯いてまたしても舌を打った。訳が分からない。分からないのに、なんだか彼に酷い事をしてしまったかのような居心地の悪さを感じる。理不尽だ。なのに不快ではない。それが実に理不尽だ。
 取り戻した手をポケットに入れると、彼はさも不服そうに唇を曲げた。一瞥して歩き出せば、彼もそれに続くのだと、この愚かな心は疑いもしない。

「なあ、おい」
「なんだ」
「ほんとに痛くねぇのか?」
「痛くない」
「じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」
「知らないのか」
「知らねぇよ」
「俺はもともとこんな顔だ」
「そうじゃねぇだろ」
「違ったか」

 ポケットに隠したまま、指先をこすり合わせる。彼の指が触れたから、少し熱い。この熱が消えてしまうのが惜しい。そんな事をぼんやりと思いはしたが、彼も両手はポケットの中だ。
 そういえば、彼の指先もささくれていた、ような、そうでもなかったような、どうだっただろう。

「京一」
「あ、おでん食いたい」
「お前の手も見せろ」
「ちょっとコンビニ寄ろうぜ」
「おいこら」
「ひーちゃんも食うだろ?」
「大根と牛すじと玉子」
「りょーかい」
「待たないと殴る」

 と言うと、彼はぴたりと立ち止まった。目を逸らしたまま、俺はいいんだよ、と不機嫌そうに道理に合わない事を言う。
 ポケットの中の手が、ひっそりと冷たくなってきた。彼の手は、まだ熱いのだろうか。見せろと言っても、彼はポケットから手を出そうともしない。こんなつたない言葉では、彼の心には届かない。それならば。

 左足の爪先で、地面をこする。じゃりっと音がして、彼の意識がそちらに向いた。右足を振り上げた時には、彼はもう信じられないものを見るように目を見開いていた。咄嗟にガードしようと上げた腕を、すかさず掴んで捻り上げた。

「龍麻てめぇ!」
「まったくお前は、かわいいな」
「あああ殴りてぇ!」
「やってみろ」
「おお、やったらぁ!」

 低い声で叫びながら無理に体を捻ろうとするので、さすがに折れてしまっては可哀相だと思い、身動きがとれないように、肩を背後から固定して肘を極めた。彼が息を止めて奥歯を噛み締める。
 動くと折れるぞ、と分かりきった事を耳元でささやくと、彼は獣の唸り声じみた音を喉から絞り出した。そこはかとなく、胸が痛む。痛むというか、甘く疼くような気持ちになる。彼の屈辱を想像すると、ほんのり淡く心が染まる。これはいったい、なんだろう。

 それはさておき、見おろした彼の指に、ささくれは見当たらなかった。その指先には、奇妙な絵が描かれた絆創膏が巻かれていたからだ。

「なんだこれは」
「醍醐にもらった」
「ほお」
「ちなみに醍醐は、小蒔にもらったんだってよ」
「ほお」
「なんか、アニメのキャラだって」
「そうか」
「ええと、緋勇さん?」
「どうした」
「そろそろ、あの、離してくれませんか?」

 抵抗は諦めた彼が、遠慮がちに提案する。名残惜しいが、彼の苦痛は本意ではない。解放すると、彼の右腕は惜しむ風もなくするりと逃げていった。取り戻した腕を、胸に抱きしめるようにして無事を喜ぶ。実際、彼がわずかでも予想と違う方向に体を捻っていたら、無事ではなかっただろう。
 恨めしげに、涙の滲んだ目がこちらを睨みつける。そこはかとなく、胸が痛む。以下略。

「だから、お前にもやろうかと思ったんだよ」
「何を」
「俺の話、聞いてたか?」
「聞いてた」
「だから、お前が怪我したらやろうと」
「何を」
「なのにお前、まったく怪我しねぇし」
「当然だ」
「だから、ささくれ剥いたら血が出ると思って」
「だからの用法、間違ってないか?」
「間違ってない」

 そう言いながら、彼はポケットから絆創膏を取り出した。攻撃にも防御にも使用されていないと手持無沙汰になってしまう無骨な手を、無造作に掴む。あんなにも熱心に剥こうとしていたささくれに、ぺたりと絆創膏を貼り付けて、満足そうに手を放す。

「はがすなよ」
「なんで」
「いや、はがしてもいいけど」
「どっちだ」
「醍醐にもらったんだよ」
「さっき聞いた」

 どうすれば、彼の手はもっと触れてくれるだろう。理由などなくても、触れてくれたらいいのに。
 ふたりが同時に思い、同時に口をつぐんだ。そんな事を考えているなんて、知られたら終わりだ。


















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