その日、葉佩はさんざんだった。
 まず、朝っぱらから愛車のDT250のプラグがかぶった。それはまだいい。プラグレンチひとつあれば解決する。実はこの程度ならわりとよくある。
 幸先が悪いと呟きながらも港から山に向かうその途中で、次は土砂崩れに道を阻まれた。土砂の中には巨大な岩石も含まれており、かなりの遠回りを余儀なくされた。それも、まあいい。少しばかりの悪路など、葉佩はいつだって愛車とともに乗り越えてきた。
 さすがに溜息をついたのは、橋が崩壊していた時だ。渓流を越えるには、崖をくだり、また登らねばならない。不幸中の幸いと表すべきか、川幅はさほど広くなく、高度差も超えるのに苦労するほどではなかった。ただ、愛車を置いてゆかねばならないのが痛かった。

 そうして2時間ほど歩いて遺跡に到達し、意気揚々と暗がりに潜り込んだ直後、煙草の吸い殻を発見した。しかも下品な落書きまで見つけてしまって、葉佩は暗澹たる気持ちになった。だから誰かが探索したあとの再探索は嫌いなんだと葉佩が舌を打ったのも、無理からぬ事だろう。
 そして気を取りなおす間もなく、死角から小型の獣が飛びかかってきた。咄嗟にブーツの爪先で蹴り上げてしまったが、硬質合成樹脂製の爪先は容易に小動物の内臓を叩き潰した。岩肌に貼り付いた血液と内臓は、それが正常な生命、つまり葉佩の仕事とはなんの関係もない存在であった事を証明している。

 事前に報告されていたとおり、その遺跡は浅く狭く、葉佩が昂揚するような謎も発見できず、内部の撮影とサンプルの採取だけで仕事は終わってしまった。
 未知と闇と途方もない謎を内包している遺跡など、そうそう出会えるものではないと知ってはいるものの、葉佩は膨大な闇をも知っている。気の遠くなるような永い年月を経て、なお残る声と言葉を知っている。その声を聞く瞬間の、喜びと悲しみと、それ以外の名状しがたい痛みと情動を知っている。その記憶が今でも自分を駆り立てている事を、葉佩はもう知っている。

 更には、とぼとぼと出口に向かうその足で水溜りを踏み、自分でも笑ってしまうほど見事にこけた。ずぶ濡れになって、泣きたいような笑いたいような気分で地上に戻ると、彼がいた。

「・・・は?」
「おお、葉佩」
「え?」
「久し振りだな」
「あ、え、ええと?」
「お前もここに来てたのか」
「ど、どこに?」
「大丈夫か?」

 声すらうまく出せないでいる葉佩に、皆守は少しだけ笑って手を差し出した。思考も追いつかず、目と口を開いたままその手を取ると、強い力で光の中に引っ張り出された。

「相変わらずみたいだな」

 お前こそ、と声にもならなかった。












 途中に放置していた愛車を回収し、街に戻った頃には日が暮れていた。

「あれだね、前触れってやつだね」
「ん?」
「今日はなんか、もう散々だったんだよ」
「ほお」
「お前の所為だったのか」
「人を悪霊かなんかみたいに言うな」
「もっとタチわりーだろ」

 最終便が出てしまったので、仕方なく宿を探す。
 とはいえ、泥と泥ではない液体に汚れたままでは、宿探しもままならない。しかも観光地でもない田舎の漁村で、異邦人はそれだけで警戒される。すぐに終わる仕事と高をくくって宿の用意などしていない葉佩は、野宿の覚悟を決めた。
 そんな葉佩を見て、皆守が薄く微笑んだ。なんだかバカにされているような、それでいてどことなく優しげにも見えて、葉佩は思わず目を逸らす。あの頃の彼は、こんな風に笑っただろうか。もしかしたら葉佩がよく見ていなかっただけで、こんな風に笑っていたのかも知れない。
 比較的まともな格好をしていた皆守が交渉を行うと、宿業はもう廃業して今はレストランのみ経営しているという老夫婦が申し出てくれた。食事もそこで済ませ、案内されたのは、少々埃っぽいが、よく手入れされた素朴な部屋だった。
 しかし、問題がひとつ。

「ベッドがひとつしかない」
「ソファがあるだろ」
「なんで当然のようにベッド占領してんだよ」
「ソファがあるだろ」
「え、でもさ、ほら、俺だって今日は疲れて」
「ソファがあるだろ」
「ところで俺に名案があるんだけど」
「ソファがあるだろ」
「一緒に」
「ソファがあるだろ」

 葉佩は少しだけ涙ぐんでソファにうずくまった。
 カチリと音がして、甘い香りが広がる。鼻の奥がツンと痛んだ。

 ここはどこだ。潮騒が聞こえて、甘い香りがして、老夫婦が親切にしてくれて、柔らかいソファ(ベッドが柔からいかどうかは、葉佩は確認していない)があって、尊大なのに優しい彼がいる。今日は最悪な日だったのに。

「皆守」
「ん?」
「スペイン語、できたんだ」
「まあな」
「何してんの?」
「風呂に入ろうと」
「そうじゃなくって」
「一緒に入るか?」
「落ち着けこれは罠だ騙されるな俺!」

 葉佩が察したとおり、それは罠だった。皆守はさっさとドアを開けてシャワーを借りに部屋を出た。予想していた事だ。悲しくなんかない。切なくもない。ただ、何か、ほんの少しだけ、漠然と怖い。このまま彼は消えてしまうのではないか。
 甘い残り香が、部屋をゆらゆらとたゆたう。葉佩はまた少しだけ涙ぐんで、ソファに横たわって膝を抱えた。

 まどろんでいたらしい。皆守が部屋に戻った音で目を覚まし、顔を上げる。皆守は強引に占有権を主張したベッドではなく、葉佩がうずくまっているソファに座った。水気を含んだ匂いが、触れそうなほど近付く。濡れた髪に手を伸ばしたくなったが、やめておいた。

「お前も入ってこいよ」
「んー、めんどくさい」
「自分がどんだけ汚れてるか分かってんのか」
「てめぇは綺麗なのかよ」
「お前よりはな」
「嘘だ」
「・・・」
「お前だって人殺しのくせに」
「葉佩」
「俺なんかよりずっと汚ねぇくせに」

 皆守は何も言わず、葉佩の額に手を当てた。風呂に入ったばかりなのに、泥だらけの髪を撫でた。白くて甘くて硬くて、今はいつもより温かい手が、葉佩を撫でた。死人は冷たいから、温かい彼は生きているのだ。言葉にしたら信じられなくなるから、言わずに葉佩はまた目を閉じた。
 風呂は、明日にしよう。

「駄目だ、入ってこい」
「心を読むなぁ!」
「読むまでもなく体現してるぞ」
「だってめんどくさいー」
「人んちに泊めてもらうのに汚れたまま寝るな」
「常識人ぶりやがって」
「俺は常識人だ」
「ねむいー」
「葉佩」
「んー?」

 とろとろと微睡みの浅いところで遊んでいたら、冷たい床に叩き落された。タオルと着替えを投げられて、部屋を蹴り出される前に立ち上がって歩いてドアを開ける。

「皆守」
「早く行ってこい」
「いてね」
「は?」
「先に行かないでね」

 早く風呂に入ってこいと、微笑みながらまた言われて、ドアを閉めた。
 皆守は、否定も肯定もしなかった。言いづらい事は、ぎりぎりまで追い詰められても逡巡して、本当に最後の最後まで言わない男だ。だから、彼の本心が分からないうちは、まだ安心できる。まだ終わりではないのだと。でも、もしかしたら本当の最期にも言わないかも知れない。だとしたら、永遠に知らずに終わる可能性もあるのだが。

 元宿屋なだけあって、風呂の設備はそこそこ整っていた。まだ濡れたタイルの床を、数分前には彼が踏んだのかと思うと、なんとなくそれだけで気恥ずかしいような、なんだろうこれは。知らず彼の痕跡を探している自分に気付き、葉佩は深く溜息をついた。

 泥を落として部屋に戻ると、予想どおり、皆守はもう眠っていた。しかも何故かソファで。先ほど葉佩が寝ていた場所で、長い脚を折りたたんで、窮屈そうに。一瞬だけベッドに運んでやろうかとも思ったが、やっぱりやめた。遠慮なく、ひとりでベッドに潜り込む。ベッドは柔らかかったが、少し冷たかった。












 目覚めたが、まだ朝ではなかった。視線を上げると、ソファには誰もいない。慌てて身を起こすと、窓辺から「どうした」と声がかかった。安堵したのだと気付かれたくなくて、わざと寝惚けたふりをする。そうすると、皆守が笑った。

「油断しすぎだろ」
「うるせぇ」
「そんなに疲れてたのか」
「疲れてたんだよ」
「寝ろよ、まだ夜だ」
「もう眠くない」
「俺がいるから」
「いるから?」
「安心して眠れ」
「むしろお前に襲われる危険性は?」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ」

 そんな深遠な問いに答えられようはずもなく、葉佩は無言のままベッドから起き上がり、鞄から瓶とドライフルーツを取り出した。ぐいと瓶を呷り、皆守にも手渡す。皆守も、同じように瓶を呷った。まだ彼が高校生だった頃にも、こっそりくすねた酒をこうして呷ったのだと思い出す。
 名状しがたい痛みと情動が、じわりと腹から湧き上がる。あやうく涙が出そうになって、かろうじて飲み込んだ。あの記憶が今でも自分を駆り立てている事を、葉佩はもう知っている。

「ねえ皆守、後悔してる?」
「何を」
「俺を憎んでる?」
「なんで」
「お前、偽者だろ」
「は?」
「皆守はそんな奴じゃない!」
「いや、だいたいこういう奴だと思うが」
「成仏しやがれ!」
「まあ落ち着け」
「もしくは退け悪魔!」
「うるせぇ何時だと思ってやがる」

 鋭い爪先で米神を小突かれ、初動の気配すら察知できなかった自分に愕然とする。こんなにも鋭かったのか。こんな相手と、かつて対峙したのか。こんなにも苛烈で、それでいて怠惰で、優しい人と、かつて葉佩は。

「潮時ってあるよね」
「あれは、船を出すのに適した時って意味だ」
「へえ、そうなんだ」
「引き際って意味じゃないぞ」
「そっか」
「《宝探し屋》、引退するのか?」

 皆守が、答えの分かりきった問いを、そうと知って投げかける。唇の端を上げる笑い方は、あの頃と同じだ。
 葉佩は過去ばかり見ている。あの頃の記憶があまりに鮮烈で、純粋で、悲しみや怒りすら透きとおっていて、その後の経験がまるで色褪せた写真のように乾いていた。昨日よりも近いあの夜を、いつまでも忘れられないでいる。あの夜に、もう一度でもいいから出会いたくて、葉佩は旅を続けている。

「ああ、そうか」
「ん?」
「日本じゃ、お盆だね」
「そうだな」
「だからか」
「そう思うか?」
「いや、お前はそんなん気にする奴じゃねぇよな」
「そうだな」
「いつでもいいよ」
「うん」
「気が向いた時でいいから」
「うん」
「また会いたい」

 皆守はふわりと微笑む。きっと、これはあの頃の記憶ではない。記憶にある彼は、そんな風には笑わなかった。こんなにも穏やかに夏の夜に微笑むのは、葉佩の知っている彼ではない。

「俺は《宝探し屋》だから」
「おう」
「まだ、当分はね」
「早くこっち来いよ」
「やだよ」
「薄情だな」
「そうだよ、知ってんだろ?」
「ああ、知ってる」

 もうすぐ朝が来る。朝が来れば、船が出る。船が出れば、葉佩は旅立つ。