窓ガラスに留まったハエを眺めながら、足がかりのないガラスで、どうしてハエは落ちずにいられるのだろうと、そんな事を考えていた。
 不意に手が視界に入り、前髪をひとふさ持ち上げた。伸びたなと声がして、間近で鳶色の瞳がやわらかく滲む。
 無防備な笑みを直視するのは難しくて、しかし目を逸らすのは勿体無くて、知らず眉間に力がこもった。それを威圧的と感じたのだろう、瞳が少しだけ硬くなって離れてゆく。髪をもてあそんでいた指先も、するりと遠のいた。
 それが耐えがたく苦しいのだと、惜しいのだと、伝える術を緋勇は知らない。



 窓辺に座る緋勇はどこか物憂げで、悲観主義の哲学者のようだと、漠然と思う。
 視線の先にあるのは深淵か、はたまた守り抜いた街並みか、判ずる術も持たず、蓬莱寺は届かない空に手を伸ばすような心地で黒い瞳に手を伸ばす。
 伸びたな、と主語を抜いたまま独り言のように呟くと、黒い瞳は不機嫌そうな光を放って蓬莱寺を睨みつけた。気安く触れるなと、言われていないのに言われたみたいな気がして、心を残して手を離す。
 もっと触れたいと言ったら、彼は困るだろうか。

 まるで傷付けぬようにとでも言わんばかり、優しく触れた指先の熱が残っているような気がして、緋勇は目にかかるほど長くなった前髪を無造作に掻き上げた。無精で伸びた髪は指摘されるまでもなく鬱陶しいのだが、しかし緋勇は散髪というものがひどく苦手だった。

 何がどう、と具体的な説明の難しい感情だったが、耳元でさきさきと鳴る鋏の音も、目を閉じてじっとしているのも、切られて落ちた髪を見るのも、何もかもが嫌いだった。だからといって、この目障りな前髪をそのままにしておくのも気が進まない。
 難問に頭を悩ませていると、蓬莱寺があっさりとした口調で決断を迫った。

 俺が切ってやろうか。
 きらりと光った鳶色の瞳を見て、緋勇はラムネの瓶に入っているビー玉を思い出した。この男の瞳がそんな無実で綺麗なものではないと、知っていたはずなのに。



 俺が切ってやろうかと、思いつくと同時に口にしてみる。
 実のところ蓬莱寺は、彼の少し冷たくて真直ぐな髪に触れるのが好きだった。触れるに良い口実ができたと、素晴らしい妙案を思いついたものだと、その時はまだそんな風に感じていた。
 どうでもよさげに頷いた緋勇を確認するや否や、彼の気が変わらないうちに、と急いで鋏を用意する。あまり乗り気ではなさそうな緋勇を窓辺に座らせて、自分は立ったまま、普段は隠れている白い首筋に思わず目を細めた。

 まずは、失敗しても被害は少ないであろう襟足から。そう考えて、肌に触れぬよう留意して鋏をあてた。
 なんだか緊張する。先程から上がり続けているテンションが、嬉しいからなのか怖いからなのか自分でも分からない。鋏を持つ手が、細かく震えている。なんでだ。
 口中に溜まった唾液を飲み込んだら、やけに大きな音がして、なんともなしに後ろめたいような気分になった。

 その瞳が曇ってしまうのを恐れて、思わず頷いてしまった。
 実のところ緋勇は、髪に触れる彼の手が嫌いではない。普段は無骨な手がやけに優しく毛先をもてあそぶのも、時々いたずらにかき回されるのも、間近で鳶色の瞳が細められるのを見るのも、緋勇を不思議とやわらかい気持ちにさせた。
 ちょっと早まったかと後悔しないでもなかったが、いそいそと鋏など取り出してきた蓬莱寺を見ていると、今更やめろというのも言い出しづらい。
 不甲斐ないと自分を罵りつつも、促されるまま窓辺に座った。



 唇を引き結んで眉間にしわを寄せた緋勇が、尻尾で羽虫を追い払う猛獣のように見えて、蓬莱寺は今更ながらに後悔していた。それと同時に、奇妙な衝動が沸き立って心臓を急き立てる。

 刃があたらないようにと気をつけてはいるものの、使い慣れた得物ほどには意のままにならない道具は、気紛れに白い皮膚を引っ掻いてしまうのだ。その度に、緋勇の米神がひくりと引き攣る。それが怖い。
 あと何回なら許されるだろう。もしかしたら、次は反撃されるかも知れない。
 それより何より、首筋に噛みつきたい。一瞬だけ触れてしまった耳朶が驚くほど柔らかくて、どうしたらさり気なく、彼に意図を悟られずに再び触れられるだろうかと、意思ではない部分が必死に考えている。

 ひやりとした金属が首筋に触れて、無意識に肩がびくりと跳ねた。
 ただ散髪をしているだけなのに、どうしてこんなに屈辱的な気分になるのか。だから嫌だったんだ、と胸中で毒づくも、すべてはもう手遅れだ。耳の後ろを冷たい刃先で撫でられて、呼吸が止まる。
 猫が戯れに小鳥をもてあそんでいる光景が、ふと浮かんだ。

 少しだけためらってから、鋏がぱちんと音を立てた。切り離された髪が、さっと皮膚をすべって床に落ちる。目を閉じろと言われて、反発したい気持ちをこらえて従う。
 なんだこの敗北感。



 切り落とした毛先が、汗でうっすらと湿った皮膚に付着している。それを指で払うと、緋勇の首筋がざっと総毛だった。同時に膝に置かれた彼の拳がぎりっと音を立てたので、慌てて飛びそうになった理性を引き戻して鋏に意識を集中させる。

 急所に刃物をあてられても小さく震えるだけでじっとしている緋勇なんて、そうそう見られるものではない。
 彼がこの時間を心地好く感じているように、と願いながら、そろそろ終わらせないと、などと危機感が募ってきた。噛んだら怒られるだろうか。きっと怒るだろう。二度と触らせてくれないかも知れない。それは嫌だ。

 脳内でせめぎ合う様々な欲望は、緋勇の機嫌が傾いできたのを察知すると同時に収束した。
 早く終わらせよう。賢明にもそう判断し、蓬莱寺は雑念を追い払おうとして失敗しつつも、この幸福なのかどうなのかもよく分からない時間を切り上げた。

 軽やかに、薄情に、鋏が髪を削ぎ落としてゆく。代わりに別のものが降り積もるようで、緋勇は小さく身じろいだ。即座に動くなと声が落ちてきて、自分だけがこんなにも追い詰められているのは理不尽だと唇を噛む。

 時折、かすめるように指先が皮膚に触れる。
 首筋に鳥肌が立ったのを、彼は見ただろうか。気付いただろうか。振り向いて問い質したいが、髪を切っているだけなのに何を考えているのだと揶揄されたらどうしよう。
 奴が死ぬか、俺が死ぬか、二つに一つ。望むところだ。来るなら来い、やってやる。おかしな方向に盛り上がってきた精神を、無表情に押し留める。悟られてなるものか。

 またしても首筋を爪がかすめて、緋勇は息を呑んだ。絶対わざとだ。
 上等だ。俺が誰だか思い知らせてやる。固く拳を握り締め、気を抜くと震えそうになる呼気をゆっくりと吐き出す。
 拳が攻撃性を含むより早く、終わったぜと背後で声がした。



 一時はどうなる事かと危ぶんだが、なんとか見栄えの悪くない程度に整え、終わったぜと声をかける。
 緋勇がふっと脱力したのが分かった。どうにも彼の警戒心は、理解の範疇を超えている。
 今まで髪が伸びたらどうしていたのかと訊きたくなったが、なんだか女がやきもちを焼いているような口調になりそうでやめておいた。
 首の辺りに落ちた髪を、息で散らしてみる。緋勇が面白いほど大袈裟に跳び上がった。

 これからは、髪が伸びたら俺に言えよ。なんでもない事のように、無邪気なふりで微笑む。緋勇はぎらりと片目を眇めてから、何も言わずに顔を逸らした。察しの悪い緋勇でも、さすがに含まれた幼稚な独占欲に気付いたのだろうか。それとも、仕上がりが気に食わなかっただけだろうか。
 そのまま風呂場へと向かう背中を見送って、蓬莱寺は床に落ちた髪を片付けにかかった。

 解放され、逃げるように風呂場に来てから、存外に器用な男だと関心して鏡を見る。
 わずかばかり軽くなったような気がする髪を掻き混ぜて、首筋をかすめた指の熱と刃の冷を思い出す。これから髪を切る度に、こんな気持ちを思い出してしまうのだろうか。それは困る。非常に困る。

 鏡に映った自分の顔を直視できずに、やはり散髪は嫌いだと胸中で呟く。
 それでも、きっと次も拒絶できないであろう自分を知っている緋勇は、重く溜息をついて広くなった視界をみずから狭めた。