会わずに行こうと思ったのは、彼を許せないからではない。きっと許してしまうだろうと思ったからだった。
 葉佩がその事に気付いて転げまわりたくなったのは、飛行機の中だった。窓側の席に座っていたので、転げまわるには通路まで移動しなければいけない。そして何より、公衆の面前で唐突に転げまわったら人々にいらぬ不安を与えてしまうという事を、葉佩は経験から学んでいた。どうにか衝動を押し殺して、溢れ出そうになる激情を飲み込む。

 彼の友人になれたと、思っていた。遠い未来のどこかで偶然に出会っても、肩を叩いて再会を喜ぶような、そんな友人に。あるいはどちらかが死んでいても、それを知らずにふと思い出して心をあたためるような、そんな友人に。
 彼と過ごした日々は決して楽しい事ばかりではなかったけれど、それでも葉佩はそれを価値あるものと感じていた。出口の見えない暗闇も、これがあれば恐れず進める。そんな記憶になるだろうと。

 今も彼の記憶は変わらずあるのに、座り込んで泣きわめきたいのは何故だろう。












 気がついたら空港に着いていた。退屈な移動を意識せずに過ごせたのは喜ぶべきか、それとも悲しむべきか。重たい体とトランクを引きずって、瑣末でありながらも煩わしい手続きを滞らせる人の多さにうんざりして、葉佩が空港前のバス乗り場に辿り着いた時には、もう疲れ果てていた。
 その背に、声がかかった。

「おや、葉佩じゃないか」
「あ、ルイせんせー」
「わたしはもう先生ではない」
「じゃあルイちゃん」
「ははは、腕をもぎ取られたいのかい?」
「ごめんなさい調子に乗りましたもぎ取らないでください」
「随分と疲れてるようだね」
「そう見えますか」
「今の君が疲れていないとすると、始発の下り電車に乗るサラリーマンはもう二徹いけるな」
「たとえがよく分かりません」
「気にするな」
「俺の事も」
「うん?」
「俺の事も気にしないでください」
「分かった、それじゃあ、良い旅を」

 闊達に微笑み、颯爽ときびすを返した劉の背中を見送りながら、それはそれでちょっと寂しいと葉佩は思った。寂しいのと寒いのはよく似ているとも思い、今が冬だからだと気付く。今この時が夏だったら、きっとこんなにも寂しくなかった。

 バスが来た。数人がそれに乗り込み、やがて発車する。あのバスに乗らなければ目的地には着けないと知っていたが、葉佩はしかし停留所にいた。
 大人と子供の違いは何かというと、切符を購入して使用できるか、という一点にあると葉佩は考えている。バスでも電車でも船でも飛行機でも、移動手段を行使できるという事は、自分の行き先を自分で決定するという事だ。自分がどこにいるのかを、自分で決められるという事だ。
 自分は大人だと、もう思い出せないくらい前から葉佩は感じていた。それなのに今、バスに乗るのが怖い。ひとりでバスに乗って、ロゼッタ協会の支部に出向き、次の仕事を与えられるのが怖い。ひとりで遺跡に潜り、ひとりで隧道を歩くのが怖い。

 もし葉佩が死んでしまっても、彼にそれを知る術はない。それが怖い。
 もしかしたら彼は、葉佩が来るのを待っているかも知れない。冷たい風が吹くあの屋上で、世界がたそがれても、その身が凍えても、待っているのかも知れない。
 乾いた風が通りすぎて、葉佩は身を震わせた。












 走って劉に追いついて、今まさにタクシーに乗り込もうとする彼女を大声で呼んだ。彼女は、まるで予想していたかのように苦笑して、後ろに並んでいた男にタクシーを譲った。そうしてから葉佩に向きなおり、困った生徒を前にして、さてどうするかと思案するような顔で葉佩を見る。

「あの、ちょっと聞きたいんですが」
「どうした?」
「あいつ、どうしてました?」
「誰の事かな?」
「えーと、あの、あいつです」
「ああ、あいつか」
「そうですあいつです!」
「奴なら、死んだはずだ」
「えええ!?」
「おや、君の目の前で殺されたんじゃないのか?」
「え、そうなの?」
「あの、なんといったか、ひき肉が好きなあの男」
「ちょっと待ってほんとに誰!?」
「違うのか?」
「誰だか分かんないけどたぶん違うと思います!」
「ああ、思い出した、マッケンゼンだ」
「なんで俺がそれを聞きたくってわざわざ追っかけてきたと思ったんですか」
「いや、さっきから思い出せなくてもやもやしてたんだ」
「あの、あのね、ルイ先生」

 無言で先を促す劉は、葉佩が言わんとしている事を正確に理解しているのだろう。おそらく、葉佩自身よりも正確に。
 彼女と敵対しなくてよかったと、心の底から葉佩は思った。絶対に勝てない。そんな人ばかりだ。負けてばかりだ。悔しくて、それなのに何故か嬉しくて、そんな複雑な心境を表現する方法も知らなくて、葉佩はまた泣きたくなる。
 でも葉佩は《宝探し屋》だったので、風が冷たくとも寒くとも進まねばならない。顔を上げて劉を見た。

「許したくないけど、顔を見たら許しちゃいそうだから会いたくないんです」
「でも気になる、と」
「う、まあ、そう、かも?」
「そいつはたぶん、君を待ってはいない」
「え?」
「今頃、きっと忙しくしているだろうね」
「忙しい?」
「新しい生活を始めるんだ、いろいろと忙しいだろう」
「あ、ああ、そうなんだぁ」

 寒いと痛いはよく似ている。というよりも、ほぼ同じだ。かじかんだ手は、些細な刺激ですぐ痛む。寂しい心は、些細な刺激ですぐ痛む。
 世界にたったひとりで放り出されたような気分だった。誰も知らない場所に、自分ひとりだけが存在しているような。以前ならば我を忘れて昂揚するはずの状況で、葉佩は恐れて立ちすくんだ。
 彼は、待っていない。

 劉がいつくしむように目を細めた。いつだったか、煙管の先につと留まったトンボを見て、彼女が顔をほころばせていたのを思い出す。いじらしくも憐れなる小さな命を見るように、葉佩をやさしく見おろした。

 まったく手のかかる子供たちだと少しだけ嬉しそうに呟いた声は、葉佩には届かなかった。
 背後から近付くかつての級友の気配には、葉佩はまだ気付かない。葉佩のかつての級友が自慢の長い脚を振り上げて、その爪先が綺麗な弧を描くのを、劉は何も言わず微笑んだまま見守っていた。