皆守はその日、さんざんだった。
まずは夜明けの少し前、目が覚めてしまったのだ。何か不穏な気配を感じたのかというと、そうでもないのが厄介だ。目覚めるべき朝は遠く、静寂と闇に包まれて、夢ではない幻がどろどろと視界を這いずるのを為す術もなく眺めた。そんな時に気を紛らわしてくれる、いつもはまるで見計らったかのように訪れる小さな《宝探し屋》も、姿を見せない。
実はわりとよくある事なのだが、それだけでもう一日が不機嫌に終わっても不思議ではない。
そうしてようやく迎えた朝、校舎へと向かう道すがら、八千穂が地面に膝を付いていた。なんでも財布を落としてしまったらしく、泣きそうになりながら茂みを覗きこんでいる。どうしてそんな道でもない場所に財布を落としたと思うのかと何気なく疑問を口にすれば、部活に遅刻しそうでショートカットしたのだと返ってきた。
ああ見つからない、といよいよ涙目になってきた八千穂を放置できない自分が、もうどうしようもなく面倒臭い。
腰ほどの高さの枝に引っ掛かった財布を見つけて、八千穂から抱きつかんばかりの謝意を受けたのも、なんだか気が滅入る理由になってしまった。
結局、非情になどなれないのだ。あの男の期待には応えられない。いつかきっと、自分は破綻する。そんな予感が真実のように思えた。
憂鬱を背負って保健室の戸を開けると、取手と劉が向かい合って座っていた。皆守の姿を見留めた途端、大きな体を可能な限り小さくして、取手が口を閉じる。劉がするどく皆守を見て、すまないが外してくれと、一寸たりともすまないとは思っていない口調で言った。
友人の心が壊れかけていると知ってはいたが、実のところ目をそらしていたのだと叱責されたような気分になって、だからといって直視したところで何ができるという訳でもなく、つまり背負っていた憂鬱が倍になった。
思い足取りで辿り着いた屋上には、先客がいた。そもそも日の当たる場所にいるのを見た記憶もない人物だ。「石が教えてくれたんだけど」と先客が口を開いた瞬間に、きびすを返してドアを閉じた。
鉱物が何を語るというのだ。それとも比喩なのだろうか。そうだきっとそうに違いない。学者が資料を検分して新たな知識を得るように、彼は石と向かい合っているのだろう。うん、それだ。
君、今日はついてない日だね、などとドアの向こうから聞こえたような気がしたが、幻聴だ。幻聴だ。もう一回ぐらい言っておこうか、幻聴だ!
昼の出来事は、因果関係のはっきりしたものだった。八千穂が「朝はありがとう」と言って、皆守をマミーズに引っ張って行こうとしたのだ。白岐は是とも否とも言わず、ただじっと皆守を見詰めていた。隙を突いて逃げる事には成功したが、なんとなく彼女の気が済むまで昼休みは油断できないような気がした。
あと、白岐の視線が刺々しくなったような気もするが、これはきっと気のせいだ。白岐は前から刺を含んでいた。なんでかは知らない。
朝から何も食べていないと気が付いたのは、そろそろ夕刻が近付く頃だった。売店のカレーパンが売り切れているのだから、残るはマミーズしかない。知らずうつむき加減で食堂への道を歩いていると、神鳳と夷澤が並んで歩いてくるのが見えた。皆守はまたしても無言できびすを返した。
本腰を入れて侵入者を排除せよと訴える夷澤の声を背中に聞きつつ、今日はもう寝ようと皆守は早くも帰路についた。
自室に戻り、鍵をかけて、上着を脱いで、アロマに火を点け、ようとして、舌を打った。ジッポのオイル切れだ。とどめを刺されたような心持ちでベッドに突っ伏す。
冷たいままのパイプに歯を立てて、込み上げた破壊衝動をやり過ごす。最悪だ。こんなにも些細な事で、こんなにも落ち込む自分が最悪だ。
だから、皆守は窓が鳴っても顔を上げなかった。今日は窓にも鍵をかけた。今更なんの用だと、まるでずっと待っていたかのような言葉を吐き出してしまう事もないだろう。
一度だけ鳴った窓が、かたりと動いた。あの子供の前では施錠など無意味なのだと思い出して、愚鈍な自分を憎んだ。
あいつが俺を拾ったからだ。俺に価値があるみたいに言ったからだ。あの全ての憂鬱がつどったみたいに青い瞳が、俺を引き留めた。恨み言のつもりで吐き出した言葉は、すがるように憐れがましく口中でくぐもった。
もっと早く壊れていれば、こんな気分を知らずに済んだ。
音もなく窓が開いて、無遠慮な子供が進入を果たした。直後、オイルの切れたジッポが飛んで、その額にぶつかった。金属製のライターは、速度を与えればそれなりの破壊力を有する。打たれた額を押さえつつ、葉佩が顔をしかめて皆守を睨んだ。
「いてーな、何しやがる」
「出ていけ」
「なんだよ、いきなり」
「今更なんの用だ」
「いまさら?」
「え、あ、いや、何の用だ」
「ああ、俺が来るの待ってたんだ」
「ちょっと頼みがあるんだが、俺を殴ってくれないか」
「いいよ」
「あ、待て、グローブは外せ」
「ちょうどメリケンサックをゲットレしました俺!」
「あ、やっぱいい」
「遠慮すんなよ」
「お前はもうちょっと遠慮しろ」
「しただろ」
「いつ?」
「ええと、昨日の、夜っつーか、今日の明け方」
「来てたのか?」
「うん、でも我慢したよ」
本当は顔を見たかったけど、と言って、どこか誇らしげに葉佩が言う。そうしてから、更に笑みを深めた。
「でも、いらなかったんだね」
「いや、遠慮は必要だと思うぞ」
「待ってたんだ、俺が来るの」
「あ、そういえば」
「なに?」
「お前が諸悪の根源だ」
「しょあくのこんげん?」
「悪い事は全部お前のせいだ」
「うんごめん、もっと早く来ればよかったね」
「いや、でも元はといえば阿門が」
「あいつはダメだよ!」
「なんでだ」
「皆守よりダメかもってぐらいダメだよ!」
「なんで比較対照が俺なんだ」
「あいつは、ほら、お前を利用してるだけだから」
「利用価値があるものは使う、当然だろ?」
「皆守に利用価値とか、どんだけ人材に恵まれてないんだよ!」
今度はジッポではなく、自分の拳を使った。ジッポの衝撃には痛みを訴えた葉佩が、何故か今度はくすぐったそうに笑っているのが腑に落ちない。そんなに手加減してしまったのだろうか。
葉佩がベッドに寝転んで、皆守を見上げた。そうしてふと笑顔をやめて、ひそめた声でささやいた。
「阿門はダメだ」
「お前にあいつの何が分かる」
「分かるよ、見てれば分かる」
「そうとも思えないけどな」
「あいつが見てるのはお前じゃない」
「まあ、そうだな、俺じゃないな」
「優しい人にあんな事させる奴は絶対にダメだ」
「ん?」
「皆守は優しいのに」
「誰がなんだって?」
「皆守は優しいよ」
「それはつまり、脆いって事か」
「そうとも言うね」
やはり今日は最悪の日だ。確信して、言葉もなく皆守は目を閉じた。
きっと明日も最悪だ。ずっと死ぬまで最悪だ。
それでもいいと思えるこんな夜こそが、何よりも最悪だ。
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