カチリと音がした。続いて、紙の燃える音と匂い、癖のある煙草の匂いまでが鼻腔に届き、蓬莱寺は顔をしかめた。
 時刻は既に深夜に近い。旧校舎から引き揚げて、今まさに校庭を横切ろうとしていた瞬間だった。あの口うるさい教員がすぐ傍にいるのだと察して、音の発信源に目を向ける。予想どおり、どこか眠たげな男がほどなくして視界に入った。

 校舎の屋上で手すりに凭れかかって、気だるげに紫煙をくゆらすその姿が。

 蓬莱寺はひとつ瞬き、今度は意識して耳を澄ました。煙を吐き出す呼気、わずかな衣擦れの音までもが、まるで耳の傍で立てられているかのように聞こえる。蓬莱寺の視線に気付いたのか、はたまた先程から気付いていたのか、犬神がこちらを見た。ふ、と吐息の音が耳に届く。

 風のない、静かな夜だった。だからといって、この距離で聞こえる音量ではない。訝しむと同時に、未だ冷めやらぬ戦闘の余韻を再び刀先に集中させた。異常だと認知すれば、体は即座に攻撃態勢をとる。それは、ここ最近で染み付いた蓬莱寺の癖のようなものだった。人を相手にする往来の喧嘩ではなく、魔物を相手にする闇中の攻防を経験したからこそ、蓬莱寺はその変化を得た。

 五感を研ぎ澄ます。男の体臭までもを感じたような気がして、嫌悪に舌を打った。
 門を出れば、そこには不夜の街が混沌を内包して渦巻いている。そのさざめきが、蓬莱寺の耳を打つ。汚濁と欲望、清浄と切願。そのどちらでもなく、夜に瀰漫しうごめく人々と、人ではないもの。それらの気配が、蓬莱寺の神経になだれ込んだ。堪らず低く呻き、危うく取り逃しそうになった正気を引き戻す。奔流のような情報に翻弄されつつも、蓬莱寺の耳はその音を聞いた。
 屋上の男が踵を返し、屋内へのドアを開き、階段を下りる。静まり返った夜の廊下を、獣のように足音を殺して男が歩く。その姿が、見えずとも知れた。

 蓬莱寺は、足音の主が眼前に現れるより早くその場を立ち去った。
 走りながらも、絶え間なく音と匂いが神経を刺激する。その全てを振り切るように走り、やがて辿り着いたのは、見慣れたアパートの一室。ドアの前で上がった呼吸を整え、ノックしようと拳を握り、ふと気付いた。時計は持っていなかったので、空を見上げてみる。月も星も見えないが、東の空がわずかに明るい。それ以上に地上からの光りが見えるのだが、何故か人工照明と太陽光はたやすく判別できた。要するに、この部屋に住む人は寝ている時間だろうと判断できた。
 そして状況を鑑みるまでもなく、耳を澄ませば寝息が聞こえた。何度かこの部屋に泊まったが、こんなにも無防備な寝息は聞いた憶えがない。あの人は、自分の前でも深くは寝入らないのだ。否、他者の気配が、彼に眠りを許さないのだ。小さな物音で目を覚ましては、また浅い眠りに落ちてゆく。そうして迎えた朝に、蓬莱寺はまだ目覚めたくないなどと言って彼を困らせた。
 思考するまでもなく自動的に組み上がってゆく情報に、蓬莱寺は愕然とした。

 この情報の奔流は、もしや彼の影響ではないか。
 脳裡に閃いた言葉は、真実のように思えた。それがどのような仕組みで、どのように作用して、どのように現象となるのかは分からない。だが、あらゆる物事を知り得るこの能力は、彼の存在を説明するに相応しい。
 わずかな間隙にするりと入り込む、彼の手刀。背後に迫った攻撃にさえ、的確に反応してみせる。誰よりも早く、速く、巨大な異形の急所に寸分違わず拳を叩き込み、溢れた氣ですらその流れる先を過たず、次の動作をなめらかに助ける。
 少ない言葉は、しかし発せられれば雄弁とは比べようもなく仲間を勇気付ける。まるで、精神のほころびた部位を正確に知っているかのように。思い、蓬莱寺は瞠目した。

 彼には、見えているのではないか。この心さえも。

 不意に、耳をくすぐっていた寝息が乱れた。しゅる、と鳴った音は、彼が体を起こした音だ。まさか、ドアの前で煩悶していた気配を察したのだろうか。周章して、咄嗟に考えたのは身を隠す方法だった。しかし彼ならば、物陰にひそんだ不埒なやからを見逃す筈もない。いや待て、別に不埒な行いなどしていない。堂々としていればいいのだ、と思い直し、何故か跳ね上がった心拍数を宥めつつ、室内の様子に耳を澄ます。
 室内でも、同じように息をひそめ耳を澄ましているのが分かった。口中に溜まった唾液を飲み込むと、この音さえも聞かれているのでは、と宥めた心臓がまた音量を増す。
 見透かされているのかも知れない。闘う姿に目を奪われたのも、虚空を撫でるように上がった手から目が離せなくなったのも、ただ座っているだけのその背中に見惚れていたのも、何気なく肩を叩こうとして白い首筋が目に入り一瞬だけ触れるのをためらってしまったのも、黒い瞳に真正面から見詰められて息が詰まったのも、彼は知っているのだ。
 ならば、隠すだけ無駄だ。

 あっさりと決断を下し、蓬莱寺はドアをノックした。重苦しい溜息が聞こえたが、たぶんこれは彼が聞かせたのだろう。
 間もなく開いたドアから、射殺さんばかりに不機嫌な眼光が放たれた。後ずさりかけた足をなんとか踏ん張り、平静を装って片手を上げる。頬が引き攣ったのが自分でも分かった。

「よ、よお、おはようさん」
「・・・」
「ええと、ごめん、寝てたよな」
「寝てた」
「うん、いや、あの、大した用じゃねぇんだけど」
「ほお、用があったのか」
「一応な」
「言ってみろ」

 刃物のような眼差しが、容赦なく蓬莱寺を貫く。安静を作るのなら、動くもの音を立てるもの全て平らげてしまえばいい。俺にはその力がある。彼は絶対に言わないと思うが、そんな幻聴が聞こえた気がした。
 そういえば、何故に自分はここへ来たのだろうと疑問が表層に浮かび上がる。眼前の男は、じっと言葉を待っている。

「え、ええと、緋勇ってさ、なんでそんなに強いんだ?」
「それを訊きにきたのか」
「いや、違う、あ、やっぱ違わない!」

 視線が更に研ぎ澄まされた。彼の機嫌が落下する速度で傾いてゆくのが察せられる。俺、ここで死ぬのかな。そんな言葉が脳裡をよぎり、蓬莱寺は慌てて頭を振った。逃げ出したいと主張してやまない両の足を叱咤して、顔を上げる。

「俺も、強くなりたい」
「それで、あそこに行ったのか」
「ん?」

 数日前にも見蕩れた手が、ついと伸びてきて皮膚に触れた。ぞわりと全身をざわめかせたのは、恐怖ではなかった。
 乾いたかさぶたを、硬い指の腹が撫でる。先程の旧校舎で不覚をとった証拠だ。鋭い爪に打たれて数秒だけ意識が落ちたのは、言わない方がいいだろう。あるいは、この男はそれすらも知り得るのだろうか。

「あまり無茶をするな」
「うん」
「お前が得たのは、闘う手段ではない」
「は?」
「ただの力だ」
「はあ」
「それを振るう心があって、初めて力は手段になる」
「へえ」
「・・・まあつまり、あまり無茶をするな」
「うん」
「あと、あまり一人で行動するな」
「うん」
「おいこらちょっと待て」
「うん」
「何がしたい」

 彼の心臓の音が心地好かったので、もっと聞きたいと思い抱き寄せた。彼にも自分の心臓の音が聞こえていればいいと思い、強く抱き締めた。あからさまに身を引かれて少しばかり悲しかったが、抵抗らしい抵抗もなかったので良しとする。

 鼓動とぬくもりに、いつしか奔流は穏やかになっていた。
 だがそれが消えた訳ではないのだと、蓬莱寺は知ってしまった。自身さえ失わんばかりの音と匂いと、表現するのも難しい雑多な気配。それが常にこの男の精神を侵しているのだ。自分ならば一日で気が狂う、と言おうとして、蓬莱寺は口を閉じた。
 想うと高鳴るこの鼓動が彼を煩わせぬよう、願いながら心音に耳を澄ました。