窓枠を飛び越える。三階分の高さを落下し、その衝撃を膝だけでは吸収しきれずに地面に転がった。校庭の端で八千穂が大声を上げる。見付かったか、と鋭く舌を打って、素早く体勢を立て直した。八千穂の声に集まってきたのは、取手、夕薙、七瀬の三人。七瀬は肩で息をしている。進行方向を急変させ、廃屋街を目指して走った。
「あ!逃げた!」
「廃屋街に向かったぞ!」
「み、みなさん、足、速い、ですね」
「無理しないでね、七瀬さん」
進路に、夷澤が転がり入った。咄嗟に踏みそうになった足を止められたのは、自分でも拍手ものだ。恐らく踏んでしまったら、そのまま踵を取られていただろう。放たれた拳を反射神経だけで躱し、更に走る。その耳に、奇妙な音が聞こえた。次の瞬間、脳が揺さ振られたような衝撃を受けた。思わず頭を抱えて膝を付く。声を武器とする、いつも怯えたように身を竦ませている後輩を思い出す。あいつも参加してるのか。だが、ここで止まったら負けだ。歪む視界に目を眇め、繁みに身を投げた。
「おい響!逃がすな!」
「あ、夷澤君、そんなこと言ったって」
「足速ぇな、あの人・・・」
背後で聞こえる声から遠ざかろうと、土と枯葉を払いながら繁みを抜ける。校舎の裏に周り、辺りを見回す。真上で叫んだのは朱堂だった。二階の窓から身を乗り出し、高らかに叫んでいる。再び複数の気配が集まるのを感じ、兎にも角にも走り出す。
「ああんもう!せっかちな男!」
何だってこんな事に、口中で毒づいても、置かれている状況は変わらない。自分は追われる者で、彼等は追う者だ。
辿り着いたのは、見憶えのある屋敷だった。気配は背後に迫っている。形振り構っていられる状況ではない。厳重なドアを、力の限り叩いた。
「阿門!開けろ!」
「・・・何事だ」
「追われてるんだ。匿ってくれ」
「・・・何をやらかした」
疑問を落としつつも開けてくれたドアに滑り込む。常に無く必死な形相と、土や葉に汚れた姿に、阿門が視線を鋭くする。ドアが閉じる一瞬前に「それ反則だろ!」と言う声が聞こえたが、気にせず床に座り込んで息をつく。そして思い出した。阿門が(何故だかはいまいちよく分からなかったが)怨敵に自宅の鍵を預けた事を。
「此処も安全じゃないな」
「・・・自首するなら早い方がいいぞ」
「お前はもう少し俺を信じてもいいと思う」
「信頼はしている、が、何をしたんだ」
真っ直ぐな瞳を見返す事が出来ずに、ドアとは反対側の窓い視線を走らせる。施錠したドアが開かれる音を聞きながら、窓から身を躍らせた。そして、着地と同時に失態を悟った。
「君の事だから、阿門様を頼ると思ってましたよ」
冷たい微笑を浮かべたまま、神鳳が手を伸ばす。窓の向こうでは、阿門が無表情で途方に暮れている。悪い事をしたような気もするが、今はそれどころではない。全身のバネを使い、地を蹴った。髪に神鳳の手が掠ったが、これはセーフだろう。そう判断して走り出したが、神鳳は追ってこない。
チラリと背後を振り返ったその時、頭上から何かが落下してきた。思わず悲鳴を上げてしまったのは、仕方の無い事だと思う。それでも躱せたのだから、もうこれは大喝采ものだろう。着地した墨木が、ガスマスクの奥で悔しそうに喉を鳴らしたのが聞こえた。立ち上がり、疲労を訴える足を叱咤する。
「いました!たいぞーちゃん!あそこです!」
「ボクに任せるでしゅ!」
声の発生源に目を向けた時には、肥後の巨体が道幅いっぱいに転がってきていた。背後からは墨木と神鳳が迫っている。道幅は狭く、抜けられる余地は無い。肥後の後ろでは、舞草が腰を落として構えている。救いなど信じてはいないが、空を振り仰いだ。同時に、壁の僅かな突起に足の指を引っ掛ける。靴越しに壁を掴み、摩擦を利用して、跳んだ。
墨木と神鳳が、急には止まれない肥後と衝突した。神鳳が地に手を付く様を見て、心の隅で淡い爽快感を噛み締める。
自身から発生する荒い呼吸を聞きながら、舞草の手を掻い潜って速度を上げる。複数の気配が近付く。面白い、上等だ。酸素の足りない脳が、苦痛を紛らわせる為に幻の快楽を作り出す。視界に踊り入った真里野も、今回は武器の使用を禁じられているので丸腰だ。容易く逃げ切った。その後ろから現れたトトも、フェイントを入れて撹乱してやる。
「くっ!逃げるとは卑怯だぞ!」
「逃ゲルノガ、コノゲームノ本質デス」
追ってくる気配を気にしながらも、振り向く事はせずに走る。障害物を利用し、巧く目を眩ませたようだ。校舎に戻るのは危険だと判断し、礼拝堂のドアを開けた。
「あら珍しい、貴方が神頼み?」
「信じていても、救われない事ってあるんですのね〜」
双樹と椎名が、同時に皆守を見下ろした。何も言わずにドアを閉める。何やってたんだ、あいつら。疑問が浮き上がったが、追求はしない方がいいだろう。ドアを閉じた体勢のまま固まっていたら、またしても背後で名を呼ばれた。
「石の言ったとおりだ」
振り向いた拍子に、背中をドアに叩き付けてしまった。ドアの隙間から、忍び笑いが零れる。前には、眼鏡の奥の含み笑い。じり、と音を立てて、黒塚が一歩踏み出した。咄嗟に足元の石を拾い、鋭く投げつける。
「あああ!なんて事をするんだ!」
投げられた石を拾い上げた黒塚が、再び顔を上げる前に走り出した。
身を隠せる場所を探し、目に入ったのは温室だった。ガラス越しに、中をそっと窺う。何故か満開の彼岸花はさておき、あまり立ち入りたい場所ではない。何故だかは分からないが、心臓が嫌な音を立てる。ランナーズハイで昂ぶっていた精神が、暴力的なまでに落ち込むのを自覚する。だが、気配は確実に集まりだしていた。既に冷静さは何処かに落っことしていたので、背後を気にしながら、そっと扉に触れた。温室の植物達が一斉にざわめいたように錯覚し、思わず弾かれたように手を引く。気配はすぐそこまで迫っている。逡巡している余裕は無い。
「入りたいのなら、入ればいいわ」
降った声に、裏返った声が出た。真横に、いつの間にか白岐が立っていた。ビクリと肩を震わせたのを見て、まるで微笑みのように頬を緩める。その手に温室の鍵が握られている事に気付き、心臓の傍で何かが音を立てた。
「いや、やっぱいい」
物静かな白岐の立ち振る舞いに、ほんの少しだけ冷静さを取り戻す。そのまま踵を返した。
物陰に身を隠しつつ、辺りの様子を窺う。暇人しか居ないのか、この學園は。何度目かの舌打ちをして、慎重に気配を探りながら移動する。見付かれば、この人数から逃げ切るのは難しいだろう。
どうしてこんな事になっちまったんだ。我が身の不運を嘆き、アロマを銜える。煙が立てば発見されるので、火は点けない。花の香りが恋しい。緩やかな微睡みが恋しい。望んでいたのは確かに安息だった筈なのに、どうして自分はこんなにも追い詰められているのか。そしてこの状況で、どうして自分はこんなにも昂揚しているのか。スリルの妙味など理解できなかった。危険と快楽を同時に感じるなど、狂人だけだと思っていた。ならば、自分はもう狂ってしまったのか。
浅く早く、呼吸を繰り返す。心臓が痛いほど脈打っている。銜えたアロマが急に煩わしくなり、それをポケットに仕舞った。唇を噛み締める。
負けて堪るか。心で呟き、目を閉じる。聞き憶えのある足音を察知して、自分でも可笑しくなるほど心が沸き立った。硬くて重たい靴音が近付くのを感じる。すぐ横で鳴るその音が、いつからか日常になってしまった。
意を決し、物陰から躍り出た。四階の窓から、喪部が大声で叫んだ。
「居たよ!温室の西側!」
「逃がすな!」
「回り込め!」
口々に喚きたてる声を聞き流し、ただ真っ直ぐに走った。
何処かに辿り着けるなどとは思っていない。だが、この足はまだ走れる。この心は、まだ敗北を認めていない。
それならば、理由なんて要らない。
「何やら外が騒がしいね」
「生徒達が鬼ごっこしてるみたいですよ」
「元気な事じゃの」
「若者は元気なのが一番です」
バーのカウンターで、大人達がひっそりとグラスを合わせる。彼女達もまた、自分が走り続ける理由など理解してはいない。ただ、道は続いている。きっかけがどれほど莫迦らしくても、走り出してしまったのだ。グラスを乾して休息を終えれば、また彼等は戦場を踏む。
その誓いと、共に走る戦友に。
「乾杯」
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