春も暮れ、冬物の上着をしまって白いシャツに袖を通し、新緑の落とす影を踏む。蓬莱寺は夏が好きだった。活力に満ちているような気がするからだ。産まれたばかりのような気持ちになる。 緋勇も、今朝は上着の前を開けていた。日に焼けていない白い首筋が見えて、蓬莱寺は思わず目を逸らした。逸らしてから、ふと我に返る。どうして目を逸らしたのか、自分でもよく分からない。分からないので、考えるのはやめた。 「おめーも早く夏服にしろよ」 「そうだな」 「あ、こないだの傷」 「ん?」 「見えてる」 「そうか?」 「まあ、そんな目立たねぇけどな」 無防備な首筋を指差して、もうほとんど消えかけた小さな傷を示す。彼のほんの些細な傷さえ忘れずにいる自分に気付き、なんともなしに心がざわめく。深淵のような、細い糸のような、不思議な感覚だ。 お前もと言って、緋勇の手が前触れもなくするりと腕順に触れた。喉の奥から変な声が出そうになって、あやうく飲み込む。緋勇が油断も隙もない男だと分かっていたのに、このところ虚を突かれる事が多々あった。 「修行が足んねーな」 「そうだな」 「今に見てろよ」 「その意気だ」 少し冷たい指先が、かさぶたを撫でた。たったそれだけの感触が、なかなか消えない。惜しむ素振りすら見せずあっさりと離れていった指を、無意識に目で追う。その手で、もう一度。不穏な言葉が心に浮かび、慌ててそれを沈めた。 なんだか今日は落ち着かない。覗き込んだら落ちてしまいそうで、すがるにはあまりにも頼りない。そんな気持ちだ。 「セミ、鳴かねぇな」 「まだ早いだろう」 「桜、終わっちまったな」 「そうだな」 「お前、3回に1回ぐらい『そうだな』って言ってる」 「そうだな」 「俺ってかっこいーよなー」 「そうか?」 「てめぇこのやろう」 自分でも忘れていた小さなかさぶたを、不意に剥がしたくなった。ありふれた衝動だ。誰しもが、人生に於いて一度ならずやった記憶があるだろう。痛いと知っているのに、あの衝動はどこから来るのか。 物思いというには散漫とした心持ちで歩き、いつの間にか校舎に着いてしまった。 「じゃ、あとでな」 「どこへ行く」 「んー、ちょっとな」 「サボりか」 「修行だよ」 「そうか」 「あと、あれだ、体調が悪いから」 「そうか、俺もだ」 まるで当然のような顔をして、緋勇が隣を歩いている。つい当然だと思ってしまうのが、なんとなく心地悪い。緋勇が自分の隣にいるのは当然で、同じ方を向いているのも当然で、声をかければ声が返るのも当然だと、勘違いしそうになる。 旧校舎の前で立ち止まり、隣を見る。緋勇は前を見ていた。立ち止まった蓬莱寺に気付き、振り向いた。 「どうした」 「ほんとに体調悪いかも」 「どこか痛いのか?」 「痛いっつーか、なんか、やな感じ」 「さっぱり分からんが無理はするな」 「うん、まあ、無理はしねーけどさ」 苦しい、ような気がする。腹の辺りが、痛みというほど明確ではなく、ほんのりと淡く染まるように、漠然と苦しい。 顔をしかめると、緋勇が心配そうには見えない表情で覗き込んできた。どちらかというと不機嫌そうな表情だ。他人の体調不良など、どうしたらいいのか分からないのだろう。緋勇は気遣いも下手で、不安すら上手に表現できない。 それが、つらい。 「やっぱ帰る」 「そうか」 「ちょっと待て、お前もだよ」 「なんでだ」 「俺がいなかったらお前ひとりになっちまうじゃねぇか」 それが真実だったら、もしかしたらこんなにも苦しくはなかったかも知れない。彼に寄り添うのが、ただひとりだけだったら、それが自分だったら、こんなにも。 「あ、分かった」 「?」 「これ、あれだ」 「どれだ」 「あーくそ、マジかよ」 「??」 緋勇は得られない答えを諦めたらしい。やはり不機嫌そうに眉根を寄せている。できるものなら答えてやりたい。彼に得られないものなど存在しないと証明してやりたい。でもそれは不可能で、蓬莱寺は思わずしゃがみ込んだ。 心なしか慌てたようにも聞こえる声で、緋勇が呼びかけてくる。応えたかったが応えずにいると、髪にそっと何かが触れた。顔を上げて確認するまでもない。緋勇の手だ。優しくもない声が、それでも戸惑っているのだと分かった。 「京一、どうした?」 答えられるか! |