体が宙に浮いた、と思ったのは錯覚で、地球の引力はいつもどおり正常にはたらいて蓬莱寺の体を地面に叩きつけた。樹上で昼寝などしていればそんな事もたまにはあるだろうが、まさかそれが今とは想像もしていなかった。 咄嗟に受身を取って地に伏したが、立ち上がるだけの気力を得るには時間がかかりそうだ。仰向けになり、花霞みをぼんやりと眺める。 ここはどこだ。 聞きなれた鐘の音が響き、ようやく身を起こす気になった。のろのろと立ち上がり、また空を見上げる。 狂うほどの熱が、まだたしかに残っていた。 教室に行くと、見慣れた風景の中に見慣れた顔があった。美里と桜井が、さざめくような仕草でその男に話しかけている。蓬莱寺は我知らず右手の得物を強く握り締めた。 呆然と立ちすくんだ蓬莱寺に、その男が視線を向ける。それだけで体が震えた。 遅刻だと言って、桜井がからかうように蓬莱寺を指差す。美里は、律儀に転校生を紹介してくれた。知っている、とは言えなくて、曖昧に頷いておく。転校生も、会釈のような首肯のような動きでそれに応えた。 思い出す。最初から、この男は分かりづらいように見えて、実に分かりやすかった。最期まで変わらなかった。蓬莱寺には、何ひとつ変えられなかった。 溢れてしまう前に、蓬莱寺は足早にその場を立ち去った。どうせあの男は追ってこない。代わりにという訳でもないだろうが桜井が上げた非難の声にも、振り向かなかった。 ほとんど走るような勢いで、先程の木の下に戻ってきた。右手の得物が震えている。否、自分の右手が震えているのだと知覚して、あやうく溢れそうになったものを辛うじて飲み込む。 ここは地獄か。 どれほどの時間が過ぎたのかは、正確には分からない。まだ衝動は胸中で暴れまわっていたので、あまり多くの時間は流れていないのだろう。 そうだ、時間とは流れるものだ。上から下へと落ちるように、それは残酷なまでに不可逆だ。だからこれは、きっと夢だ。無理矢理に結論づけて、意識を保つ。そうでもしないと、気が触れてしまいそうだ。 人の気配を感じて、どこに隠れようかと思案するまでもなく枝を掴んで幹を登る。そうして間もなく、数人の男が眼下に現れた。思わず微笑が零れる。やがてあの男も来るだろう。春の冷風が、花の隙間を吹くかのように。 相違なく、あの男は現れた。 新しい級友との交友を深めようとは、たぶん思っていないだろう。双方ともに、そんな表情だった。 転校生が身を沈める。級友たちが複数で同時に襲いかかる。蓬莱寺が違和を覚えたのは、転校生が上体を揺らがせた瞬間だった。まさか、あの男がこんなところで不覚をとるなどとは考えづらい。枝の上から目を凝らす。 使用した形跡もない真新しいメリケンサックが、春の陽光を受けて場違いなほど長閑に輝いた。武器ではなく装飾として使用していたのでは、などと疑いたくなる。しかしそんな長閑な拳が、たやすく白い頬にぶつかったのだ。 体を捻って衝撃を逃がしはしているが、そのまま通りすぎた腕を見送ったのが蓬莱寺には不可解だった。絡めとって極めてしまえば、このくだらない茶番も早々に終わるのに。彼の目が、それを見逃すはずもないのに。 「なに遊んでやがる」 「!?」 「とっととやっちまえよ」 「???」 我慢できずに飛び降りてしまった。 級友たちはともかく、あの男までもが目を見開いて何事かと戸惑っている。心底から困惑しているような彼に、少しだけ胸がすいた。もしかして、頭上の傍観者に気付いていなかったのだろうか。少しだけ愉快な気分になった。 得物の先端に氣を滾らせて、級友たちに突きつける。背にした男が息を呑んだのが聞こえた。しまったと、心で舌を打つ。あの男が息を呑むところを、真正面から見たかった。見開いた目を覗き込んで、気付かなかったのかとからかってやりたい。知らなかったのか、俺はお前を見ていたのだと、伝えたい。ずっと、言いたかった。ついに、言えなかった。 「おい、ええと、ひ、緋勇」 「?」 「お前は動くなよ」 「!」 「そこにいろ」 「・・・」 呼び慣れた愛称では、戸惑うどころの騒ぎではないだろう。ぐっと押し留めて、努めて冷静な声を出す。一息に蹴散らしてしまおうと、切先の氣を加速させる。 不意に、彼の手が蓬莱寺の腕に触れた。今まさに解き放たれんとしていた氣が、一瞬で飛び散った。これは仕方ない。だって彼から触れてきたなどと、しかもちょっと控えめに、遠慮がちに、そっと触れてきたなどと、肉体が飛び散っても不思議ではないほどの衝撃だろう。実際、心拍数は跳ね上がった。 「な、なんだよ」 「待て」 「なんで」 「それだと強すぎる」 やっと理解した。傷付けぬよう、彼は細心の注意を払っていたのだ。それは理解したが、それよりも袖に触れたままの手が気になる。やわらかく押しとどめるように触れる手が、なんだか妙に落ち着かない。でも振り払えない。どうしよう。 幸福な苦悩は、級友たちの怒声で消滅した。圧倒的な暴力の予兆を、彼らも感じているのだろう。やや腰が引けているが、それでも完全なる敗北には至らなかったらしい。まだ何か言いたそうな彼に「手加減ぐらいできる」と微笑んでやってから、蓬莱寺は裂風の氣を解放した。 醍醐が来る前にその場を離れ、まだ戸惑っている彼を引っ張って屋上まで駆け上がった。眉根を寄せつつも黙ったままの彼が、なんだか懐かしいような、遠いような感じがする。知らず目を細めると、彼はまた不思議そうな顔をした。 思い出す。彼もそうだった。ふと遠い景色を見るように、懐かしい知己に再会したかのような、そんな目をしていた。そうか、彼も、と考え至る。きっと彼もここに来たのだ。 蓬莱寺は彼を知っている。彼がこれから出会う人も、通る道も、知っている。 彼も知っていたのだ。この地獄を、もしかしたら何度も何度も繰り返し。 この記憶の中の彼は、何度目の彼だったのだろう。蓬莱寺は振り向いて彼を見る。 今度こそ、と誓ったのは、これが一回目だった。 |