よくこんな時に眠れるものだと、鍵のかかっていないドアを開けて蓬莱寺はあきれながら感心した。
 瞬間、閃光が部屋を白と黒に塗りつぶす。少しの間をおいて、轟音が鳴り響く。地を揺るがすような大音量にも、部屋の主は我関せずとばかりに目を閉じている。

 傘も差さずに走ってきた蓬莱寺は、この部屋に着いた時にはずぶ濡れになっていた。遠雷が聞こえると、なんだか落ち着かなくなるのが自分でも不思議だった。走り出したいような、身を縮めてうずくまりたいような、どうとも表現しがたい心持ちになるのだ。そして、どちらかを選択するならば、蓬莱寺はいつもだいたい走る。
 今日は彼の事が気になったので、心のままに彼の部屋まで走ってきた。

 眠る彼を見ていると、死んでいるのではないかと、現実離れしているような、自分たちのおかれた状況を考えると現実的なような、いわく言いがたい不安が蓬莱寺に湧き上がった。まさかと笑いながらも、指先が冷たくなったのは何故だろう。
 少しだけ汗ばんだ指を、眠る人の口元に添える。ふ、と吐息が生あたたかく指の腹を撫でた。胸が切なくなるほど安堵した自分が、どうにも不可解だ。

 また光った。死んだような寝顔が、雷光に照らされる。刺すような光から、覚えず彼を守ろうと窓際に立つ。莫迦げていると思いつつ、やめられないのが無性に悲しかった。守りたいのと、独占したいのは、よく似ている。

「龍麻」

 呼んでみた。返事はない。起きろよ、と発した声は、無為な轟音に掻き消された。
 せめて、好きなだけ泣けばいい。静謐な寝顔を見下ろしながら、そんな言葉が浮かんだ。












 雷雨がやんで、セミの声が聞こえてきた。ぼんやりとした顔のまま、なんでいるんだと問いかける口調がいつもより幼いような気がして、小さな子供にするように微笑んでやった。彼は何度か瞬き、シャツの袖でぐいと顔をぬぐった。

「晴れたな」
「そうか」
「すげぇ雨だったんだぜ」
「そうか」
「雷もすごくて」
「そうか」
「お前が泣いてるかと思って」
「そうか」
「泣いてねぇな」
「そうか」
「聞いてんのかてめぇ」
「聞いてる。俺は泣いてない」

 泣く理由がないと言って、彼は立ち上がって窓を開けた。湿った風がゆるりと舞い込み、彼の黒髪を撫でてゆく。同じ風が、蓬莱寺の頬にも届いた。雨上がりの匂いと混じった何かが、下腹の辺りを熱くする。
 泣けばいいのにと、口にしようとしてやっぱりやめた。代わりにではないのだろうが、彼が口を開く。

「晴れたな」
「そうだな」
「だいぶ降ったみたいいだな」
「そうだな」
「まだ雲がある」
「夕焼けきれーだぜ、きっと」

 蓬莱寺がそう言うと、ほんの少しだけ彼が微笑んだ、ような気がしたが、気のせいだったかも知れない。たぶん気のせいだろう。
 空を見る彼の横顔を見るともなしに見ていると、今度こそはっきりと、疑うべくもなく彼が微笑んだ。蓬莱寺の心臓が、締め付ける束縛をはじき飛ばすような勢いで変な音を立てた。

「お前のそういうところが、俺は」
「・・・」
「腹が減ったな」
「続きは!?」
「気にするな」
「無茶ゆーな!」
「何かあったか?」
「これからある!」
「買ってくるか」
「どこで買えますか!」

 跳ね上がったまま地に足も着かず浮かれた蓬莱寺に、冷酷な手刀が落ちてきた。しかも顔面に。しかも小指の付け根の硬い部分が鼻柱にぶちあたった。しかも絶対にわざとだ。しかもそれすら嬉しい。どうしようもない。

 窓の外は、何事もなかったかのように穏やかな夕涼の景色になっていた。
 地表が熱せられれば、雨が降ってその熱を奪う。世界とは巧妙にできているものだ。与えられて、奪われる。そんな風に、世界はできている。それが、どうしてこんなにも悲しいのだろう。

 お前の言ったとおりだと、溜息のような果かなさで彼がささやく。俯かせていた視線を上げると、染まらぬ黒の彼が見えて、その後ろに空が見えた。

「夕焼けだ」

 懐かしむように、遠い昔の記憶を見るように、彼は空を見ていた。
 蓬莱寺が何がしかの言葉を探し当てるより早く、彼は買出しに行こうと玄関で靴を履き、ドアを開ける。どんな言葉も見つけられず、蓬莱寺もそれに続く。

「ひぐらし、鳴いてんな」
「?」
「声、聞こえんだろ?」
「声じゃないだろう、あれは羽が出す音だ」
「羽で鳴くのはスズムシだろ」
「そうか?」
「セミは腹から出すんだよ」
「どっちにしろ声じゃない」
「こまけー事はいいんだよ」
「そうか」
「あれ聞くと、なんか寂しくなるよな」
「・・・」
「なんとなく」

 彼は何も言わずに、また少しだけ微笑んだ。夏の夕焼けのようだった。あるいは、空が彼の心を映すのだろうか。だとしたら、あの激しい雷雨は彼の嘆きか。
 ふと浮かんだ想像に、蓬莱寺は立ち止まる。彼は気付かず先を歩く。長い影が、するりとアスファルトを逃げていった。

 彼はつい先程まで、天に昇っていたのだ。雲に乗り空を駆け、嘆いていたのだ。あの轟音も閃光も、穿つような激しい雨も、彼の心に違いない。人のままでは、彼は泣けないだろうから。

 彼の心が空ならば、この夏の日の夕暮れは、何故こんなにも美しいのか。