朝、目覚めたら隣で緋勇が寝ていた。思わず叫んだのは仕方のない事だろう。誰だって、目覚めたら隣で緋勇が寝ていれば叫ぶに違いない。むしろ短い悲鳴だけに留めた精神力に感嘆すべきだ。一秒に満たない時間でそんな思考を巡らせ、蓬莱寺は安らかな寝息を途切れさせぬよう細心の注意を払って身を起こした。
 死地から這い出るように布団から抜け出し、自分が衣服を着ていない事に気付いてまた頭が真っ白になった。

 布団の周りに緋勇の衣服が散乱している。それは、彼がいま服を着ていないという事実を意味していた。
 腰の辺りが妙に重たく感じられる。それは、きっと関節技でも食らったからだ。そうだそうに違いない。
 膝もなんだか痛むのだが、これはつまり、ええと、ローキックを食らったから、かな?
 首の後ろも、動かすと少しだけ引き攣る。これは恐らく寝違えただけだろう。誰かそうだと言ってくれ。
 昨日着ていたシャツのボタンは、そのほとんどが引き千切られている。それは、どういう事だろう。
 なんだかやけに体がすっきりしているような気がするのは、きっと気のせいだ。
 頭が痛いのは二日酔いだからだ。

 もう一度、眠る人を見た。間違いなく緋勇だ。彼までもが全裸だったら、一体どうすれば良いというのだ。どうしようもないな。簡潔な結論を導き出し、蓬莱寺は考えるのをやめた。
 何はさておき、服を着るべきだ。回らない頭でそう断じて辺りを見回し、パンツが見当たらない事に気付いた。今も緋勇が眠っている布団の中だったら、為す術はない。暫し呆然と絶望のような他の何かのような気分を噛み締め、ここは自室なのだから箪笥から洗濯済みの物を取り出せば良い、と思い当たった。のろのろと実行に移す。
 その背中に、この世で最も恐ろしい(と、その時は思えた)声が投げられた。

「早いな」
「・・・ごめんなさい」
「何がだ」
「でもきっと俺が早いのはひーちゃんにも原因があってですね」
「なんの話だ」
「ええとつまり、いつもはそんなに早くないんです」
「・・・何があった?」
「え?何がってゆーか、ナニ、え?」

必死の言い訳を考えてから、ふと我に返る。時計に視線を走らせ、時刻を確認する。午前5時少し過ぎ。確かに早い時間だ。恐怖に震える体を叱咤して、ゆっくりと振り向いた。緋勇は、少々眠気を含んだ目でこちらを見ている。頭髪の右側だけが跳ね上がっていた。それどころではないのだが、非常に気になる。その髪がどんな感触なのか、蓬莱寺の手は知っていた。
 落ち着け、と自分に言い聞かせ、意を決して彼の名を呼ぶ。

「ええと、ひーちゃん」
「なんだ」
「俺、昨日、あの、なんか、した?」
「酒を飲んだ」
「それは憶えてる」
「傷を見たいと言った」
「え、そんなん言ったっけ?」
「言った」
「で、なんで俺まで脱いでんだ」
「俺だけ見せるのは不公平だと思ったから脱がせた」
「・・・俺、それ抵抗した?」
「それはもう、思わず夢中になるほど激しく」
「よし、謎は全て解けた」
「ん?」
「こっちの話だ気にすんな」
「そうしたらお前が泣き出したから、慰めた」

それも薄っすら憶えていた。眼前に現れた痛ましい傷跡に己の弱さを思い出し、この人が生きて目の前にいる事がどうしようもなく嬉しくて、酔った勢いでそれを吐露してしまったような、あれ?それだけだっけ?泣くなと彼にしては優しい声音で言われて、頬に熱い手が触れて、それで、どうしたっけ?
 追憶を、疼くような鈍痛がしきりに邪魔する。完全に二日酔いだ。足元に転がる一升瓶をぼんやりと見詰め、現実から逃避したがる精神を引き戻す。

 空き缶が全て縦に潰されている。それは、缶潰し競争をしたからだろう。勝敗は決したのだろうか。思い出せない。だが酔いが覚めてしまった今では、最早どうでもいい。
 床が少し焦げている。それは、恐らく緋勇が巫炎を放った所為だ。どうして巫炎を放ったのかは未だ闇の中だ。自分で確認できる範囲内に火傷は見当たらないのだから、それももういい。
 体中が痛む原因は、もう分かった。でも腰が痛いのはちょっと気になる。

 疑問の解答は既に漠然と察しているのだが、蓬莱寺は敢えてそれを意識の外に追い遣った。布団から這い出て自分の服を探す緋勇から、理由は自分でも分からなかったが目を逸らして箪笥を開ける。
 緋勇が思案するような顔で続けた。

「あとは、お前が逆海老固めを是非とも体験したいと」
「それは嘘だ!」
「まあ、そんなような趣旨の事を言った、ような、言ってないような」
「意訳しすぎだろ!つーかぜってぇ言ってない!」
「まさかお前から誘ってくるとは思わなかったぞ」
「とっとと酒抜いてこい!」

今度こそ謎は全て解けた。要するに、酔っ払いが酒の勢いで泣いたり技を競い合ったりしたのだろう。蓬莱寺にとってはよくある事だ。
 まだゆらゆらしている緋勇の後頭部に平手を叩き込み、透かさずその手を取られて瞬く間に肘を極められて悲鳴を上げ、気の済んだ緋勇がぺたぺたと足音を立てて風呂場に向かうのを見送った。砕かれる寸前まで捻られた肘を抱き締め、大きく息を吐く。僅かにぬくもりの残る布団に突っ伏し、断片的な昨夜の記憶が浮かんでくるのを見詰めた。

 傷を見たいなどと言ったのは、忘れたくなかったからだ。恐怖も屈辱も愚かな自分も、時と共に薄れてしまう事が怖かった。
 涙が止まらなくなったのは、遠くなったと思っていた記憶があまりにも近くにあったからだ。目の前で彼が傷付いているように、記憶の中のその映像は心臓を圧迫した。
 逆海老固めを食らったのは、泣き顔を見られたのが恥ずかしくなって、居た堪れない気持ちを誤魔化す為に拳を振り上げ、不意を突かれてそれを顔面で受けた緋勇に「固めるぞ貴様」と言われて、「やれるもんならやってみろ」と言い放ったからだ。恐るべきは酒の勢いだ。禁酒しよう。夕方ぐらいまで。

 顔色があまり変わらないのでザルだと思っていたが、緋勇も人並み(?)に酔うのだと最近になって知った。酔って動きの鈍くなった緋勇は、大型の猛獣が眠っている程度には微笑ましいと思えなくもない。同じくらい怖いのだが、それを上回る喜びもあった。理性や論理的な思考回路が鈍った緋勇は、普段よりも少しだけ積極的に接触してくる。緋勇から伸ばされた手に沸き立つ喜びを抑えるなど、蓬莱寺には不可能だ。

 勢いよく身を起こし、水音の発信源に忍び寄る。気配を察した緋勇が振り向くと同時に、両手でその体を拘束した。耳元で息を飲んだ音が聞こえた。濡れた黒髪を固定して、至近距離からその驚愕に見開かれた瞳を覗きこむ。直後に、体が自動的に防御体制をとった。視界を黄金が埋め尽くしたような錯覚に、恐怖と愉悦が絡まりあって心臓を叩く。髪一筋の間合いで直撃を避け、代わりに風呂場のドアが木っ端微塵になるのを視界の端で確認した。窓ガラスは亀裂が走るだけで済んだようだ。
 凄絶な氣を発した手の平を掲げた姿勢のまま、緋勇が呆然と呟く。

「・・・何がしたいんだ、お前は」
「いや、えーと、肝試し?」
「他所でやれ」
「そーだな、久し振りにやるか?」

壊れたので開く必要もなくなったドアを跨ぎ、肩越しに微笑んで見せる。

 お前は特別な人間なんかじゃない。臆病で分からず屋で思い込みの激しい、ただのつまらない男だ。勘違いが高じてうっかり世界を救ってしまったが、それはお前に宿星だかなんだかがあったからじゃない。お前がそうしたいと思って、頑張って努力したからだ。本当はただ、普通の高校生がするように友人と喧嘩したりじゃれたりしたかったのに、それを我慢してお前は俺達の居場所を守ってくれたんだ。だから、今度はお前の欲しがってるものを全部やるよ。

 眼差しにそんな気持ちを込めたつもりだったが、予想どおり彼には伝わらなかったようだ。緋勇は溜息をついてまだ流れ出ていた湯を止め、刃物のような眼差しで蓬莱寺をひたりと見詰めた。

「そんなに俺の秘拳が見たいか」
「・・・お、おお、見てぇな」

それは偽らざる本心だったが、何故か声が震えた。だが緋勇はこの場で全裸のまま秘拳・黄龍を発する事はせず、何事もなかったようにタオルを取り上げた。体を拭いながら、それをぼんやり見ていた蓬莱寺に不快と疑問を含んだ視線を投げる。それにも応えずにいると、緋勇が諦めたように視線を落として言った。

「腹ごしらえしたら付き合ってやる」
「キレーだ」
「・・・は?」
「ひーちゃんってキレーだ」
「・・・き?」
「綺麗だ」

緋勇が目を細めて口を開き、しかし声は発する事なく閉じた。一瞬だけ可哀想な生き物を見るような目で見られたのはさておき、目を逸らしたくなるような傷跡が縦横に走る体を見て、自分がそんな感想を抱いた事に蓬莱寺は満足した。心成しか気味が悪そうにこちらを見ている緋勇に「なんか食いもん買ってくる」と言い残し、木片とガラス片の散らばる床で踵を返す。

 彼が生きていると思うだけで心が震えるのが嬉しかった。それは、自分があの頃と何一つ変わらず彼を愛しく思っているという事だからだ。
 彼が攻撃をほぼ無意識で繰り出してくるのも爽快だ。それは、隣に立つ相棒がそう易々と死ぬような人間ではないと確信しているからだ。恐れながら触れる事など、緋勇はもう二度としないだろう。
 彼の攻撃を見切って躱せるという事実が誇らしいのは、それが彼と共に道を歩いてきたという事実を示しているからだ。












 食料を仕入れて全速力で走って帰って来た蓬莱寺を迎えたのは、二度寝に沈んだ緋勇の安らかな寝息だった。寝顔を眺めるのも悪くはないのだが、今はそんな気分ではない。それより何より、暖めてもらった弁当が冷めてしまう前に緋勇を起こす必要があった。熱はやがて冷める。それを知っているからこそ、この心はこんなにも急くのだろう。
 しょうがねぇなと一つ息を吐き、眠る虎の尾を踏む覚悟を決める。

 跳ね起きた緋勇が驚愕に目を見開き、自分の唇を手で覆った。早く起きねぇと食っちまうぞ、などと低く囁き、きっと含まれた意味は理解していないだろうと思ったが、わざと優しい手付きで髪を整えてやる。

 彼の驚き戸惑う顔を見るのが楽しいのは、この男が想像もしない出来事がこの世に溢れているという事の証明だからだ。