村雨が久し振りに如月骨董品店に顔を出すと、既に先客がいた。額に裂傷を負った緋勇と、頬に青痣など作っている蓬莱寺。相変わらずのようで嬉しいような、遣る瀬無いような。手前に座っていた蓬莱寺が、店に立ち入るなり遠い目をした村雨に気付いて嬉しそうに笑おうとして、しかし切れた唇の痛みを思い出して顔をしかめた。緋勇は無表情のまま村雨に視線を流し、目の端だけで知己への親愛を表現して見せた。片手を上げてそれに応える。
 その傷どうした?などと、間違っても口にしてはいけない。口にしたが最期、異口同音に相棒がどれほど非道で自分勝手で、そして誰よりも自分は愛されているのだと遠まわしに主張されるに決まっている。
 店主にも軽く挨拶を投げ、ついでに提げていた紙袋を手渡した。それを受け取った如月が、営業用ではない笑顔を浮かべる。緋勇と蓬莱寺も、売り物の札で遊ぶのをやめてこちらを見た。

「手土産とは珍しいね」
「ああ、ちょっといいのが手に入ったんでな」
「お、酒か?」
「一人でやるのも味気ねぇと思ってよ」
「御門はどうしたんだ」
「あいつは仕事」
「で、おめーは相変わらずゴロついてんのかよ」
「そーゆーてめぇは先生のヒモか?」
「いや、どっちかっつーとひーちゃんがヒモ」
「マジでか」

などと軽口を叩き合っているうちに、如月は手早く商い中の看板を仕舞い、夕食の為に購入する物リストを完成させていた。相伴に与る気満々の緋勇と蓬莱寺に買い物係を任命し、その手際の良さをぼんやりと眺めていた村雨に向きなおって口の端を持ち上げた。

「実は、僕もいつ開封するか考えてた物があるんだ」
「ほお」
「一人で開けてもつまらないしね」
「あの二人は?」
「三ヶ月ぶりに顔を見せたんだ」

 どうやら奇跡的な確率での邂逅だったようだ。やっぱり俺はツイてるな。口中で呟いた言葉に、背後から予想外の声で同意が返った。跳ね上がった心拍数を押し隠して振り向くと、黒づくめの暗殺者が寝起きのようにも仕事帰りのようにも見える目をして突っ立っていた。

「お前、その気配消して背後に立つのやめろ」
「おや、後ろから刺される心当たりでも?」
「やあいらっしゃい。例の物、もう届いてるよ」
「さすがは如月さん、仕事が速い」

村雨が精一杯の眼光で睨んでも、壬生は涼しい顔で如月とやけに礼儀正しい挨拶を交わしている。どうやら彼らは頻繁に繋ぎを取っているらしい。二言三言を交わしてから如月が夕餉に誘うと、壬生は控えめに微笑んで喜びを表した。












 緋勇と蓬莱寺が、出て行った時の2倍の人数に増えて帰ってきた。つまり4人。

「Oh!ニンジャ!ボクを憶えてマスカー?」
「如月サン、ご無沙汰っす!あ、壬生サンと村雨サンも!」
「そこで会ったから連れてきたぞ」
「くっそーパシらせやがって」

一気に賑やかになった骨董品店で、如月が何かを諦めたような顔をして、それでも律儀に「いらっしゃい」と声を発する。この程度で疲れていては、溜まり場と化した店の主人などやっていられないのだろう。だが、静謐と闇に生きる暗殺者には少々刺激が強すぎたらしい。それを察した如月は、作り笑いを浮かべて雨紋から土産と称した缶ビール(350ml×24)を受け取りつつ、腰が引けた壬生の肩を掴んでその逃亡を阻止した。
 一刻も早くこの場を離れたいと全身で主張する壬生に、アランが満面の笑みで迫る。

「クレハ!クレハじゃないデスカ!」
「あ、はい、壬生紅葉です」
「知ってるヨ!クレハ!」
「はい」
「クレハ!」
「・・・はい」
「クレハッ!」
「・・・・・・はい」
「ノリ悪いと思ってマシタガ、面白い人ネ!」
「・・・それは、どうもありがとう」

意思疎通に成功した(?)二人を置いて、残りの面々は居間へと向かった。

 各々が勝手知ったる仕草で座敷に腰を下し、音頭など必要とせずまったりと宴が始まる。家主である如月は、既にそれについて何事か言及する事は疾うに諦めていた。それでも甲斐甲斐しく食器の用意などしてしまうのは、客商売の悲しき性か。そんな言葉で揶揄すると、ついでとばかりに「結界を張っておいてくれ」などと頼まれた。

 早くも買い物袋から調理不要で飲食可能な物を取り出して包装を破っていた雨紋が、村雨が口にする寸前で呑み込んだ言葉をあっさりと口にした。

「龍麻サン、その傷どうした?」
「・・・聞き分けの悪い猿に行儀を叩き込んでやったんだ」
「へえ」
「おい待てよ!聞き分けねぇのはどっちだ!」
「そもそもお前は忍耐というものを知らなすぎる」
「忍耐できねー奴がお前に付き合ってられるか」
「俺がどれだけ耐え忍んでると思ってる」
「耐え忍んでくれって頼んだ憶えもねぇけどな」
「・・・ほう?」

緋勇がゆらりと立ち上がった。同時に、刃物のような氣が場に満ちる。蓬莱寺が猫のように目を細めた。袱紗を取り上げ、ゆったりとした動作で愛刀を抜く。一瞬にして色めきたった空気に、村雨が低く囁いた。

「・・・おい雨紋、どーしてくれんだこの空気」
「今回ばかりはオレ様が全面的に悪かったよ」

二人の間に立ち込める空気が険悪ならば、こんな気持ちにはならなかった。目を逸らして缶のプルトップを開けた雨紋も、自分の発言がもたらした結果に苦い顔をしている。まるで、見てはいけない現場を目撃してしまったような気持ちになる。だから嫌だったんだ。村雨が心で呟くが、もう遅い。
 不穏な熱に水を差したのは、冷厳なる如月の冴声だった。

「壊したら弁償してもらうからね」
「・・・」
「・・・」

熱い眼差しで睨み合っていた二人が同時に顔を逸らし、場を満たしていた空気がかすかな残り香を含んだまま散ってゆく。洋煙のような苦い甘さが鼻腔に残っているような気がして、村雨は小さく鼻を鳴らした。あてられて、腹の底が妙に疼く。それが快なのか不快なのかはまだ分からない。きっと一生、分からぬまま終えるのだろう。そうだといい。
 まだ新しい頬の傷を撫でながら舌を打つ蓬莱寺を眺め、村雨はこの心が憧憬に似ていると気付いて眉をしかめた。

 気付けば一升瓶が3本ほど空いていた。ビールやチューハイなども含めれば、相当な量の酒類が消費された事になる。
 雨紋は既に畳と仲良くなっていた。緋勇は、アランの銃に興味津々のようだ。緋勇に銃器という取り合わせは、なんとなく世界が終わりそうな気がする。有り体に表現すると、物騒きわまりない。

 座布団に札が落とされ、村雨はその音で我に返った。対面している如月は、難しい顔をして手元の札を睨んでいる。悪いな、と一分たりとも悪いとは思っていない口調で告げて、残った桜に札を置く。
 松、桜、薄、桐、と順に並べて見せると、如月の顔が更に険しくなった。眉間にしわを寄せたまま、雪解け水のような清らかな目で村雨を見上げる。つまりは限りなく氷に近い温度の目で。

「僕は君のそういうところが嫌いじゃないよ」
「そりゃどーも。本心だったらもっと嬉しかったんだがな」
「如月サン!そりゃねぇよ!」

唐突に身を起こして叫んだ雨紋に、呼ばれた如月がビクリと振り向いた。だが続く言葉もなく、雨紋はよろよろと覚束無い足取りで立ち上がって襖を開け、どこかにぶつかりながら店の方に消えていった。酔っ払いの言動には慣れてしまっている如月と村雨は、何事もなかったように勝負を再開した。
 その隣では、やはり少々の奇行では動じない蓬莱寺と壬生が何やらくだを巻いている。

「おめーは知らねぇだろーけどなぁ」
「ボクだってキミの知らない龍麻を知ってるよ」
「あいつ、ベッドの上じゃ可愛いんだぜ」

壬生が表情を失った。といっても、もともと無表情だったので変化は見られなかったのだが。
 聞くともなしに聞いていた村雨も、思わず緋勇に視線を固定した。その緋勇はといえば、銃を格好良くホルスターに納める方法についてアランと共に試行錯誤を繰り返していた。情景を想像してしまってから、慌てて吹き飛びかけた冷静さを引き寄せる。どうせ眠っていれば悪戯しても反撃されないとか、寝顔が意外とあどけないとか、目を閉じているときつい眼差しが隠れるから幼く見えるとか、そんな意味だろう。

 ふと視線を転じると、如月はいつの間にやら横になって目を閉じていた。ほっと胸を撫で下ろす。緋勇に尋常ならざる想いを抱いている彼が聞いていたら、そんな些細な戯言にも過剰に反応していたに違いない。酒の席での刃傷沙汰は御免こうむる。
 散った札を拾い集めていると、視界の端で黒が流れた。訝しんで顔を上げれば、壬生が物凄い勢いで緋勇に詰め寄っているのが見えた。お前もか。

「龍麻!キミって人は!」
「心配するな。弾は込めてない」
「ボクは、たとえキミがどんな体だろうと、キミを守るよ」
「ああ、分かってる」
「ボクも!アミーゴまもーるよ!」
「それは知らなかったな」
「それはヒドいよアミーゴ!ボクらもう固めの杯を交わした仲なのに!」

どこで憶えたんだ、と言いたくなるような言葉で大袈裟に嘆くアランと、真顔で壬生の頭を撫でている緋勇をから目を背け、村雨はこんな事ならもっと飲んでおけば良かったと後悔した。中途半端に理性が残っているので、泣き叫ぶ事も笑い転げる事もできない。
 湯飲みに満たされた酒を呷ろうと伸ばした手が、強い力で拘束された。手の主に疑問を含んで眼を飛ばすと、蓬莱寺の冷たく燃える瞳と正面からかち合った。なんだその目は、と村雨が口にする前に、蓬莱寺が囁くような音量で低く凄む。

「おめーもだ村雨」
「あ?」
「あいつに気安く触るんじゃねぇ」
「おい待て、俺がいつ」
「自慢の札も二度と捌けなくなるぞ」

 常から筋者を相手にしている村雨は、そんな脅しならばどこ吹くそよ風なのだが、その時に限っては正直いって肝が冷えた。言葉にではなく、眼光にだ。いつの間にこの男は、こんなにも恐ろしい目をするようになっていたのだろう。身ぐるみ剥がされて泣いて帰ったあの頃の可愛いお前はどこに消えたんだ。それともあれは幻だったのか。ずっと隠していたのか。
 村雨が息を呑んで黙ると、蓬莱寺は気が済んだのか、相好を崩して緋勇に駆け寄った。ひーちゃんひーちゃんと子供のように繰り返す蓬莱寺を横目で見ながら、なあ先生、あんたの隣にいるそいつは猫なんかじゃないんだぞ、と声には出さずに呟く。老婆心とはまさにこの事だ。きっと緋勇は、もう嫌というほどその事実を知っているのだろう。

 突如、襖が大音量で開いた。眠っているとばかり思っていた如月が鋭く上体を起こし、「襖は静かに開けろ!」と叫んでまた突っ伏した。襖を開けた雨紋が、素直に詫びを落とす。

「・・・あ、すんません」
「雨紋、どこ行ってたんだ?」
「いや、ちょっと気になったから」
「何が」
「村雨サン!これ持ってみて!」
「ああ?なんだこれ」
「やっぱり!村雨サン!あんた長ドス似合うな!」

と嬉しそうに言って、雨紋は弾けるように笑い出した。手渡されたというか押し付けられたのは、鍔のない黒鞘の直刀。これは、如月が使っているのを見た記憶がある。たしか一般的には忍者刀と呼ばれる物だ。いや待て、そもそも忍者刀が一般的な物ではないのだから、その呼称を一般的というのは語弊があるか。
 無為に流れ去るばかりの思考を留める術もなく、手にした刀を抜いてみる。刃物の扱いにはあまり慣れていないので、鯉口を切る際に余計な力が入った。無粋な音を立てて現れた刀身に、蓬莱寺が「なってねぇな」と笑う。俺には刃物なんざ必要ねぇんだよ、と笑い返し、月のような刃を鞘に納めた。
 ところで、これは売り物ではないか。店主に無断で持ってきて、あまつさえ遊んでいた事がばれたら拙い。怒られる前に戻してこい、と雨紋に言おうとして、安らかに涅槃へと旅立った無邪気な顔と出会った。柄で小突いても反応はない。まあいいかと結論付けて、せめて傷付けぬよう丁寧に畳の上に置く。すると蓬莱寺が横から手を伸ばし、涼やかな音を立てて残光も鮮やかに抜いて見せた。さすがに様になっているのがちょっと悔しい。アランが大喜びで手を叩いた。

「Wonderful!キョーチはサムライか!」
「殴るぞエセ外人」
「ノーノー、外人なんて人種いないヨー」
「だいたいなぁ、侍いってのは下っ端なんだぞ?」
「そーなんデスカ!」
「なんの影響か知らねぇけど、人を侍いもん扱いして笑ってんじゃねぇ」
「でもサムライはカッコイイね!キョーチもカタナ持つとカッコイイよ!」
「持ってなくてもカッコイイだろ俺は」

滑らかな動作で刀身を鞘に納め、チラリと緋勇を見遣る。目が合った瞬間、蓬莱寺がかすかに笑い、緋勇が奥歯を噛み締めたのが分かった。だからその目だけで会話するのやめてくれ。先程から緋勇の視線が一点に固定されていたなんて、その一点に慣れた手付きで刀をもてあそぶ蓬莱寺があったなんて、そんな恐ろしい事実についてなど考えたくもない。
 足元に転がった雨紋の髪を引っ張りながら溜息をついていると、背中に壬生が覆いかぶさった。

「慰めてください」
「まあ飲めよ」
「そうじゃなくて」
「違ったか」
「慰めてください」
「明日はきっといい事あるさ」
「無責任な慰めならいりません」
「慰めて責任とらなきゃなんねぇのか」
「優しくしてください」
「マンションでも買ってやろうか」
「東京湾に沈めますよ」
「なんでだよ」

どうやら本当に気落ちしているらしい壬生を片手であしらい、何故か蓬莱寺ともつれ合って庭に飛び出したアランの行方を案じる。結界を張っておいた事を思い出し、如月の判断力に舌を巻いた。いや、これはもはや慣れの問題か。青年になっても不良から卒業できない者達に懐かれている、一人暮らしの世話焼き男。ああ、想像しただけで眩暈がする。
 村雨にすげなくされて、壬生が眠る人へとにじり寄った。畳に突っ伏している如月の髪に手を伸ばし、逡巡するように引っ込めて、思いなおしてまた伸ばす。そんな動作を何度か繰り返し、如月が完全に意識を手放している事を確信すると、両腕でその肩を抱き締めた。孤独な暗殺者は、人肌が恋しいのかも知れない。
 いつの間にか現実世界に帰ってきていた雨紋が、目を閉じて抱き合ったままの二人を無言で写メっていた。これをネタにゆするつもりだろうか。それとも別の使用方法を考えているのだろうか。雨紋の指が『保存』を指定する前に、村雨はその携帯を取り上げて撮ったばかりのデータを消去した。

「あああ!何しやがる!」
「てめぇこそ何に使う気だ」
「そりゃ、だって、如月サン忍者だし」
「?」
「忍者の寝顔とか、壁紙にするとご利益ありそーだろ」
「さっぱり分からん」
「しかもアサシンと一緒とか、超レアだろ」
「いろいろ不安になるほど分からん」

どうも彼は忍者という存在を誤解しているような気がしたが、敢えて追求はせずに携帯を投げ返してやる。夢を見るだけなら罪悪ではない。
 抱き合って眠る二人を見下ろしてから、騒がしくなった庭に視線を流した。笑い声と銃声が響き、剣戟の音がこだましている。真夜中の運動会が開催されているようだ。数年前はこれが日常だったなどと、自分でも信じられない。というか信じたくない。
 心沸き立つ音を聞いて、雨紋が嬉しそうに庭へと飛び出した。縁側に腰掛けた緋勇の手には、月を含んだ切子硝子の猪口。狂乱も嫌いではないが、今はどちらかというと緋勇に付き合いたい気分だ。酒瓶を片手に隣に座れば、無言の許容がさらりと返る。背後では戦い続ける商売人と暗殺者が抱き合って眠っていて、正面では今まさに闘っている戦友がいた。

 村雨は、自分の行動の根拠を他人に求めるような人間ではないと自負している。それでも過去の自分が、彼に多くを背負わせていたのだという事実は認めざるを得ない。彼が現れなければ、きっと今ここにはいなかった。浮かんだ心を口に出そうかと一瞬だけ迷ったが、恨み言に聞こえてしまっては面白くないのでやめておいた。代わりに浮かんだのは、少々悪趣味な言葉。

「先生、あんたベッドじゃ可愛いんだってな」
「・・・」
「蓬莱寺が言ってたぜ」

視線は合わせずにからかっても、緋勇が顔色を変える気配はない。やはり戯言かと苦笑して、手酌で空になった杯を満たした。緋勇はいっそ酷薄にも見える目つきで、楽しそうに木刀を振り回す蓬莱寺を見ている。
 ふと、奇妙な音が村雨の耳に届いた。発信源に目をやれば、緋勇の手にあった猪口が砕けている。直後、ごとんと音がして緋勇が板の間に突っ伏した。もう酔い潰れたのかと訝しんで覗き込むと、一瞬だけ顔を上げた緋勇に物凄い眼光で睨まれた。視線で人が殺せるならば、村雨はきっと死んでいただろう。そんな目だった。

「おい、先生?」
「・・・」
「いや、ええと、あれ?」
「・・・」
「なあ、嘘だろ?」

 緋勇の握り締めた拳が、接触している床をじりじりと焦がしている。よく見れば黒髪から覗く耳が赤い。顔は伏せられているので確かめる術もないが、まあ恐らくは予想どおりなのだろう。どうでもいいが、床が今にも決壊しそうな音で鳴いているのが少しばかり気に掛かる。いや、それ以前にもっと重大な事が気に掛かる。数秒前までは確かに猪口だった物体が、なんと溶解して変形しているのだ。いや、そこでもなくて。
 ゆっくりと緋勇が顔を上げる。村雨は思わず目を逸らした。正視できない。これは無理だ。勘弁してくれ。心で未だ見ぬ何者かに助けを求めたが、そんな行為は無意味だと誰よりも村雨自身が分かっている。
 表情だけはいつもどおりに戻った緋勇が、頬の紅もそのままにゆらりと立ち上がった。まあ落ち着けと自分も含めて言い聞かせながらどうにか縁側に座らせて、その辺に転がっていた酒器を拾い上げて注ぎなおす。震える手で顔を隠しながらそれを受けた緋勇が、小さな声で「違う」と囁いた。咄嗟に聞き返してしまってから、激しく後悔する。聞きたくない。そんな心の叫びなど知る由もなく、緋勇は素直に同じ言葉を囁いた。

「違う」
「そ、そうか、そうだよな」
「可愛いのは俺じゃない」
「・・・はい?」
「あいつの方が可愛い」
「・・・そーかい」

 どうしよう。俺はどうしたらいいんだ。しかもどういう意味だ。駄目だ考えるな俺。どっちが下なんだとか、そんな事はどうでもいい。間違っても訊いたりしてはいけない。そして先生、その顔を今すぐやめてくれ。

 村雨が虚空を見詰めて苦悩していると、蓬莱寺が息を切らせて走り寄ってきた。緋勇の右手から猪口を奪い、なみなみと注がれていた液体を一気に飲み干し、ついでに緋勇の頬に噛み付いて、そうしてから不敵な表情で村雨を睨み付けた。
 今度こそ緋勇が完全に撃沈された音が聞こえた。噛まれた頬を左手で押さえ、右拳で床を焦がしている。
 なんだか急に人生について考えたくなったので考えていた村雨の目の前に、無骨な木刀が突きつけられた。ああ、この蓬莱寺という男はとても真っ直ぐな人なんだな、と、心のどこかで遠く思う。そのままのお前でいられたら物凄く困るけど、どうかそのままのお前でいてくれ。声には出さず乞い願う。

 ちなみに、村雨がここで両手を上げて降参するような人間ならば、そもそも初めからこんな場所にはいなかっただろう。つまり、村雨は突きつけられた木刀を自慢の札で弾き飛ばし、まだ見えない何かと闘っている緋勇に手を伸ばした。緋勇がどうにか我に返ってその手を払い、蓬莱寺が嬉しそうに何事か吐き捨てる。その後ろでは、雨紋とアランが参戦する機会を窺って目を輝かせていた。
 殊更にうんざりとした表情を作って見せてから、村雨は馴染んだ札を手に夜の庭に飛び出した。

 朝が来て如月が目覚めてどんな顔をするかなど、今は考えない事にする。どうせあいつも、しかつめ顔でもっともらしい言葉を吐きながら最後には笑うに決まっている。二日酔いの暗殺者も、きっと眉間に皺を寄せたまま笑うのだろう。

 もう知っている。この愛すべき莫迦どもは、愚かしい我が身をはらんで回る世界こそを望んでいるのだと。