《幻影》が静寂を切り裂いた。失われた記憶を求めて。或いは、主を貶めた怨敵を求めて。
 飛び散ったガラスの欠片を避けもせずに、阿門はその仮面を見詰めた。鳥を模したと思しきそれを、真正面から見たのは初めてだった。鳥が弔いの儀式を司ったという記事を、阿門は知っていた。鳥葬の比喩だとも、鳥を天空の支配者として崇めた民の隠喩だとも聞いている。真実は分からない。ただ、その鳥面が禍々しい存在である事は瞬時に理解した。理解すると同時に、背後から鋭い矢が放たれた。

「お守りします。どうか下がっていてください」

頼れる射手が、言いながら二撃目を引き絞る。阿門の視界を遮るのは不本意だったが、神鳳は仮面と自分の間に空間を作った。一筋の躊躇も無く、殺傷力を有した矢を放つ。
 《幻影》が哄笑した。攻撃が目的ではないのだろう。彼はただ探している。繋がれた王の、鎖を解く鍵を。狂気すら感じさせる一途さで、失われた空を求めている。漠然とだが、神鳳は察していた。だがそれは、手を緩める理由にはならなかった。続けて的を外した事実を受け止め、心静かに弦を引く。《幻影》が舞う。同時に、耳障りな声が嘲った。

「お前には、安息など有り得ない」
「そんなものは望んでいない」
「微睡む事すら許されぬ」
「許されたいなどとも、思わぬ」

神鳳の背後で、阿門が律儀に返答している。その言葉に《幻影》が高く笑い、割れた窓から身を投じた。仕留めそこなった、と、神鳳が一瞬だけ顔を歪めた。その表情を阿門には見せぬよう、振り返る直前に自制する。

「阿門様、お怪我は」
「ない」

答えた阿門は、未だ《幻影》の消えた窓を見ていた。その視線を追って、神鳳も暗い空に目を向けた。挑発が目的か、或いは揺さ振りを掛けて来たか。こうも容易く侵入を許すとは、何たる失態。表情にはいつもの穏やかな仮面を被せ、神鳳は胸中で自分を責めた。それを感じ取った阿門が、短く労いを落とした。それを拾い上げ、部屋を辞す。
 矢は、返らぬ物だ。敵を討ち、そのまま骸と共に朽ち果てる。労いを貰うなど、矢にとっては屈辱に等しい。それは、役目を果たせなかったという事だ。舌打ちなどという下品な真似はしないが、代わりに神鳳は弦を爪弾いた。












 清浄な夜気に触れる為に立ち寄った屋上で、喪部は黒衣の道化師が舞うのを見た。静謐な孤光に照らされ、《幻影》が優雅に虚空を飛ぶ。重力すら、彼を縛る事は出来ない。それこそが自由と呼ばれるものなのだろうか。
 冷めた瞳に気付き、《幻影》が降りて来る。その手に握られた矢を見留め、喪部は彼が攻撃された事を察した。狂った《幻影》の行動に意味など無いとは思ったが、戯れに言葉を投げてみる。体を提供している(させられている)男子生徒とは違い、この存在は時々美しい詩を弄した。

「撃たれた矢を、わざわざ持ってきたのかい?」
「これは我が友を討った、紛い物の日巫女の矢だ」

喪部は、彼の言葉を理解しようと記憶を探った。「紛い物の日巫女」とは、天照だろうか。彼女の矢で傷付いた者は、喪部が知っている限りでは一人しかいない。そしてその男を「友」と呼んだのも、ただ一人だ。喪部は、その名を口にしてみた。

「・・・その名は、知っているぞ」

《幻影》が切なげに空を見た。黒衣の道化師が渇望するように、絶望したように、天を仰ぐ。

「若日子とは義兄弟だったそうだね。本当かどうかは知らないけど」
「百年の後、お前の名を知る者が居ないように、我が友の名も失われた」

永遠に。そう言って、《幻影》は嘴を喪部に向けた。まるで、人間と会話しているようだ。浮かんだ言葉に、喪部は笑みを浮かべた。悪くない。《幻影》と呼ばれるこの禍々しい存在は、嘆いている。憐れを通り越して、いっそ滑稽だった。そもそも喪部は、憐憫と嘲笑を隔てる垣根が低い。目の前で、喜劇が熱演されているような気分だった。
 喪部は、彼の記憶が真実だとは思わなかった。膨大な時間を経て、記憶は歪められる。恨みが残るのは、その方が都合が良いからだ。愚かな自分よりも、他人を憎む方が容易い。
 憎悪に身を委ね、その安寧に道化師は埋没する。自身の存在が憐憫と嘲笑を以って認識されている事を、《幻影》は知らなかった。まるでそれが本心からの望みであるかのように、鉤爪の付いた手を空に伸ばした。狂った王に仕える狂った従者が、異界の象徴である月に向かって泣いている。
 片方の手で自らを攻撃した矢を握り締め、凶器である鉤爪を伸ばす。天の遣いに例えられる鳥の面を被り、天に呪いを吐き出す姿は、喪部の感傷を誘った。矛盾を体現する《幻影》に、この世の全ての捻れが集約されているように錯覚する。
 狂気に至るほどの渇望を吟ずる道化師に、喪部は心の中で拍手を送った。憐れだ。滑稽だ。同時に呟く。良く出来た喜劇の顛末を見届ける為なら、もう少しだけこの退屈な空間に身を置くのも吝かではない。見上げる者を、喪部は嘲笑う。自分は見下ろす者だと、信じている。信じている、と、言い聞かせる。
 《幻影》の爪が触れた孤光に毒吐き、喪部は目を閉じた。
 再び目蓋を上げた時、《幻影》は舞台を去っているだろう。