天城の一閃でシャドウが消滅するや否や、クマがぴこぴこと月森に駆け寄った。
「センセイ、おもくそ食らってたクマ、だいじょぶクマ?」
「だいじょうぶ」
「でも血が出てるクマよ」
「気にするな」
「回復するクマ」
「温存しとけ」
「じゃあ、友情のばんそこ!」
「なんでお前が持ってんだ」
「ヨースケの貰ったクマ」
「俺だけじゃなかったのか…」
なんだか複雑な表情でクマから”友情のばんそこ”を受け取った月森は、礼のつもりかクマの毛をひと撫でして、ついでにちょっと耳を引っ張ってクマに悲鳴を上げさせて、気を取りなおして顔を上げた。
それをやや離れた位置から見ていた白鐘が、「クマくんは健気ですね」と、誰にともなく呟く。独り言なのか、あるいは話しかけられたのか、判断しかねて花村と里中は曖昧に頷いた。
「うん、ケナゲだよね」
「つーかあいつ、月森だけ特別扱いしすぎじゃね?」
「花村先輩、やきもちですか?」
「お前に真顔で言われるとそんな気分になってくるからやめろ」
「流されやすいなー」
「花村先輩も、はたから見ててちょっと引くぐらい大好きですよね、あの人のこと」
「まあ、否定はしない」
「あ、自覚あったんだ」
「お前だって餌付けされてんじゃねーか」
「え、餌付けだったのあれ!」
なにやら話が逸れてゆくのを流れるままに見送って、白鐘はもう一度クマに視線を戻した。
クマの事は、何も分からないというのが現状だ。本人も憶えていないと言うので、追求もできない。だが白鐘はぼんやりと、空想のような曖昧さで、この不思議な存在を定義しつつあった。
クマが「センセイ」を慕っているのは、誰の目にも明らかだ。そして、その級友や後輩、またはそのようなカテゴリーではなく、戦友と呼ぶのが相応しい関係である自分をも含めた人間たちを、クマは慕っている。最近では、月森の従妹とも友好的な関係を築いているらしい。
大雑把に表現すると、クマは人間が好きなのだろう。誰かの役に立つのが嬉しいのだろう。
「クマくんは、ずっとここにいたんですよね?」
「そーみたいだね」
「集合的無意識なんですかね、ここは」
「しゅうごう…なんだって?」
「ユングですよ、知らないんですか?」
「知らない」
「知らない」
やっぱりバカ軍団だと声には出さず(顔には出たかも知れない)胸中で呟きながらも、白鐘は思考に意識を向けた。
白鐘にとって思考とは、自動的に組み上がってゆくものだった。もちろんそれが自分の記憶と意識で為される作業であると知ってはいるが、始まってしまうとなかなか自分の意思では止められないのだ。面白い小説のようなものだ。もうちょっと、あと少し、と思いながら、最後まで夢中で読んでしまう。
「ねえ花村、ゆんぐって?」
「ああ、そーいやそんなバンドがいた、かも」
「月森くーん、ゆんぐって知ってるー?」
「なんで俺に訊いたんだよ今!」
「俺はピンク・フロイドを、最近までピンク・フロイトだと思ってた」
「月森くんでもそんな事あるんだねー」
思考が興に乗ってくると、外部からの刺激にも鈍くなる。だからこんな場所でこの悪癖が出てくるのは、少しばかり困るのだ。視界にシャドウも見えないので、一行は不気味な道をだらだらと歩いている。その最後尾につきながら、白鐘は脳内で踊る言葉や映像や音声や、それ以外の膨大な量の情報を眺めていた。
ここには、シャドウしかいない。例外である人間たちは、抑圧されたシャドウをペルソナとして支配する。こちらにはシャドウ、あちらには人間。クマはずっとこちらにいた。
もやもやとした霧の向こうに、何かが閃いた。
「あぶない!」
「直斗くん!」
「ぼけっとしてんじゃねぇ!」
「ナオチャン、だいじょぶクマー?」
大声で呼ばれて、白鐘はやっと自分のすぐ後ろのシャドウに気付いた。里中に突き飛ばされて、クマにナイスキャッチされながら、巽と花村がシャドウを蹴散らすのを呆然と見る。
失態だ。悪癖と知りつつ止められない自分の不甲斐ない姿を認識して、白鐘は頬が熱くなるのを感じた。何度か来たからといって、油断できるような場所ではないと知っていたはずなのに。
「すみません、ぼーっとしてました」
「考え事なら帰ってからにしろ」
「…はい」
「あ、すりむいてるよ」
「平気ですよ、このくらい」
「友情のばんそこ使うクマ!」
クマに礼を言ってから、難しい顔でこちらをじっと見ている月森に、もう一度だけ頭を下げる。彼の役に立ちたいのはクマだけではないのだ。きっとここにいる誰もが、彼に頼られたいと思っている。なのに現実は、彼の手を借りて立っている。情けない。
白鐘は立ち上がって、霧の向こうで閃いたものに目を凝らす。
ここはユングのいうところの集合的無意識で、クマは人間の無意識から生まれたシャドウ。
そんな想像をする自分がなんだか面映くて、白鐘はまるで陽だまりの猫を見るように頬を緩ませた。気に入った仮説は、たとえそれが間違っていても、そっと心に仕舞っておくのが白鐘の習慣だった。
寂しがりやで優しくて、誰かの役に立ちたくて、愛されたくて仕方ない。そんなクマを生んだのが、人間の心の奥深くにある海だとしたら。
「なんか、こそばゆいな」
「?」
「クマくんは優しいなぁって思ったんだよ」
「…照れるクマー」
結論だけを口にすると、クマは白鐘を不思議そうに見て、そうしてからくねくねと体を揺らした。
優しくなりたい。強くなりたい。クマはきっと、そんな願いから生まれたのだろう。
白鐘は、今日からそう信じる事にした。
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