花の在り処は

 さわがしい。そう思った。
 まず、3人が来た。それより前は、もう死んでいたので人ではなかった。でも誰が何人いても、クマには関係ない。
 ここは名前など必要としない。名付けて区別する必要はない。「あっち」と「こっち」、「クマ」と「シャドウ」。世界は単純で、だからこそ安定していた。
 飛び込んできたのは、不安定と不確定と、途方もない疑問だった。

 さわがしい。












 センセイたちが帰っていった。彼らがここに来るのは何度目だろう。クマは数など憶えていなかったが、なんとなく数えるふりをしてみる。最初は、センセイとヨースケとチエチャンだった。次はセンセイとヨースケで、その次は…
 思い出しながら、クマは気付いた。クマは数えたかったのではなく、思い出したかったのだ。センセイたちがここにいたという事実を、何度も思い出して、何度も何度も思い出して、クマはふと視線を上げる。
 霧に覆われた世界が、ただ深閑とそこにあった。クマも、以前となんら変わらずここにいる。それなのに、どうして違うと感じるのか。

 シャドウは静かだ。なんの音もしない。剣戟の音も、足音も、ペルソナを呼ぶ声も、「相棒!」も「どんなもんよ!」も「任せといて!」も「そっとしておこう」も「ちょっと待てそれスルーって事か!?」も「またツボってるよ…」も「だ、だって…ぷ、くくく…!」も、何もない。そんな世界をぼんやりと眺めていると、クマは自分の空洞を強く意識する。クマは怪我をしても、センセイたちのように血は流れない。

 何度も何度もセンセイたちを思い出しながら、クマは自分の事も思い出す。メガネを作ったのは、きっとまた会えると思っていたからだ。センセイたちは受け取ってくれて、約束までしてくれた。クマは嬉しかったのだ。
 嬉しかった自分を思い出すと、なんだか空っぽの体が縮むような気がする。寒いような、締め付けられるような、とにかくぎゅっとなる。これをどう呼べばいいのか、クマはまだ知らない。
 センセイなら知っているだろうかと、クマは考えた。次に会ったら訊いてみよう。早く次が来ればいいのに。どうして今が次ではないのだろう。以前の次を思い出す。何度も、何度も思い出す。

 クマはこっちにいる。センセイたちは、あっちにいる。それは、どうしてだろう。センセイたちがまた来てくれるまで、クマは何度も何度も同じ事を思い出して、何度も何度も同じ事を考える。
 どうしてクマは、ここにいるのだろう。













耳にナイフ

 里中は、常々疑問だった。花村のヘッドホンだ。いつもは肩にかけていて、戦闘が始まるとそれを耳に当てるのだ。戦闘が終われば、するりとそれは定位置に戻される。里中はずっとそれが不思議でならなかった。
 なので、本人に訊いてみた。

「ねえ花村、なんで聞こえなくするの?」
「は?」
「聞こえないと危なくない?」
「え、ああ、これか?」

 花村は、肩にかけていたヘッドホンを指先で少しだけ持ち上げた。里中が頷くと、だってテンション上がるだろ、と言って、なんでもない事のように笑った。そうしてから、ゆったりと両腕を胸の前で組み合わせて、ほんのわずかに顎を上げる。
 人によっては高慢にも見える仕草だったが、彼からは不快な感じがしない。ごく自然に、花村は人と距離をとるのだ。里中が乗り出せば、その分だけさり気なく引く。それがあまりにさり気なくて、里中はつい先程まで気付かなかったほどだ。
 胸をよぎったのは、痛みと呼ぶには小さすぎる刺激だった。

 優しげな目元が、やわらかく微笑む。拾えると思って手を伸ばして、しかし届かなかった時のような心地がした。たしか今日の午前中の事だ。消しゴムは、床に転がってしまった。手を伸ばしても届かない。立ち上がって、そこまで歩いてゆかねば拾えない。それとよく似ているような気がした。何が、と具体的に言葉にはならなかったが。
 花村が続ける。

「聞こえなくもねーよ」
「そうなの?」
「なんか言われたら、ちゃんと反応してるだろ?」
「そういや、そうかも」
「そうかもっつーか、してるだろ」
「でもさぁ」
「しつこいな」
「だって、五感の一部を封じるとか」
「その言い方、なんかかっこいいな」
「危ないよ、やっぱり」
「なんだよ、やけに絡むな」

 やわらかかった目元が、少しだけ険しくなった。でも、少しだけだ。まだ拒絶ではない。確認するように心に浮かべた言葉に、里中はぎょっとした。
 花村に、拒絶される?

 口を閉じた里中を見て、花村が表情を戻した。ナイフのような眉の曲線が、いつもどおりの、少しばかり情けない形になる。それはやはり実にさり気ない動作で、里中も普段ならば気付かなかっただろう。
 しかし里中は気付いてしまった。この男が、表情を作っている事に。あるいは、作っているというほど明確な意思ではないのかも知れない。それはほとんど無意識のようなもので、いわば癖のようなものなのかも知れない。

「まあ、心配してくれてんだよな」

 ありがとな、と、花村はまた微笑む。里中は、彼に見えないように拳を握る。
 発した言葉の何ひとつ通じていないのに、彼は微笑んでいる。両腕を組んで、少しだけ顎を上げて、優しく微笑んで、心配する友人に礼を言って、それでも花村はこれからもヘッドホンを耳に当てるのだろう。近付いたらさりげなく遠ざかって、戦闘になれば誰よりも速く走り出して、頼りにされて、でも時々いじられて泣き真似をして、気を取りなおして微笑んで、またヘッドホンを耳に当てるのだろう。
 彼には何も、誰も届かないのだろうか。胸の前で交差した腕で、耳に当てたヘッドホンで、遮断してしまうのだろうか。

「心配とか、してねっつの!」
「あいて!」
「ちょーしこくな!」
「って、えええ、ひどくねぇ?」

 せめてこの空間を埋めようと、里中は握り締めた拳を突き出す。空いた距離はあっけなくゼロになり、拳は花村の眉間にぶつかった。でもやっぱりそれは一瞬で、熱と衝撃はすぐに霧散して消え失せる。
 殴り返せばいいのにと、里中はふて腐れた横顔を見ながら思う。失う怖さも、得られないもどかしさも、忘れて手を伸ばせばいいのに。たとえそれが拳でも、誰かに触れたいという事はそういう事なのだと、里中は友人を憐れむように思う。

 里中が、顔を腫らした男二人を目撃するのは、もう少しだけ先の話だ。