長瀬と一条は、花村にとって友人だった。上辺だけの知り合いではなく、損得を抜きにして会話のできる、花村にとって数少ない友人だった。
どれだけ仲が良くても、踏み込んではいけない領域が、誰にだってある。それは幼い頃からの付き合いである長瀬と一条の間にもあるし、どんな人間にも例外なくあるものだ。それでも、ほんの些細な言葉の端々に、彼ら二人だけが有する許容や不言の了解のようなものが垣間見えて、花村はそれを口には出さなかったが羨ましく感じていた。
二人はそれを腐れ縁などと言って笑ったが、花村の目にはそれがとてもまぶしく映った。きっと完全なる理解など二人の間には存在しないし、また望んでもいないのだろう。それでも、さりげなくて、しかし深い親愛のようなものを感じて、花村はただ純粋に彼らを好ましく感じていた。親友というものは、こういうものなのだろうと。
二人のどちらかがうつむく時は、もう一人が顔を上げて、その不安や悩みを取り除こうと奔走するのだろうと、容易に想像できた。理解するのではなく、寄り添うでもなく、自分が真直ぐに立つのに必要な、それが誇りと呼ばれるものなのだろうと、花村は夢を見るようにそう思った。
自分には有り得ないだろうが、そんな関係を持っている彼らに、こっそり憧憬を抱いていた。
根のない植物など存在しないが、根なし草という言葉は存在する。花村は、自分をそんな言葉で表せるのだと考えていた。父親の転勤が多いから、という意味ではなく、自分が誰かと深く関わり、根を張るようにその土地や人と離れがたくなるという事がないのだろうと、そんな風に考えていた。種を生むでもなく、花だけを咲かせて枯れてゆく観葉植物のように。
小西早紀という名の少女は、それと同じような人間なのだと感じた。「親は親、君は君」そんな言葉は、根を張った人からは出ないだろうと、思考ではなく花村は感じていた。
柔らかい髪と、穏やかな声と、少しばかりの皮肉。そんなもので、彼女はできている。それが彼女の全てではないと知ってはいたが、その人は花村にしばし憂鬱を忘れさせた。恋と呼ぶにはあまりにも淡く、その多くは自己肯定の作業でしかなかったのだろうが、それでも花村はその人が微笑むだけで嬉しかった。その微笑が自分に向けば、もっと嬉しかった。
もう二度と会えないのだと、ぼんやり思う。それは花村にとって新鮮な感覚ではなく、もう何度も、嫌になるほど何度も味わった感覚だった。
あの人は、もうどこにもいない。
言葉を心に浮かべても、感慨は湧かない。ああ、そうだった、と思い、ただぼんやりと、寂しいような味気ないような、どこか投げやりな心持ちになって、漠然と空を見上げる。空は青く高くどこまでも広く、遠くない所にくっきりと山並みが見えて、ここは異郷なのだと、心のどこか片隅で考えた。
早朝と表現するにはやや遅い時刻の通学路で、花村は隣を歩く男を見た。我らがリーダーは、まだ寝惚けたような目であくびをしながら、「あー」とか「うー」とか不明瞭な声でうめいている。気を張っている時は驚くほど鋭いのに、ひとたび弛緩するとあれは幻だったのではと疑いたくなるほど柔らかくなるのだ。今も、ふにゃふにゃだ。
「ねみーの?」
「いや」
「涙目んなってる」
「感動したから」
「何に」
「今、肉丼食ってたんだけど」
「それ夢だから!」
「ああ、どーりで、食っても食っても減らない訳だ」
「…お疲れさん」
「まあね、お前もね」
「うん、俺も、まあね」
疲労は、どこか心地好かった。限界まで気を張って、走って跳びはねてペルソナを呼んで、疲れ果ててベッドに突っ伏す。そうして夢も見ないで眠りこけて、翌日になれば頼れるリーダーがどこからともなく依頼を持ってきてくれる。考える暇もないので、考えなくて済む。やる事があるのは嬉しい。しかも人を救えたなんて、至れり尽くせりとはまさにこの事だ。
疲れた身体は、まるでこの日々が充実しているように錯覚させてくれる。
大きく伸びをしながら、相棒が花村を見た。気付いていたが目は合わせず、花村は視界の端で空を見る。
花村が目を合わせないのは、彼を拒絶したいからではない。自分よりも、彼の方がより疲れているような気がしたからだ。つまりそれは、花村より彼の方が多くのものを背負っているという事だ。
花村は、目の前で何かしている人を見ると、手を出さずにはいられない人間だった。自分の手が空いていると、なんだか悪いような気がしてしまう。要するに、花村はお節介焼きなのだ。だから疲れている彼を見ていると、なんともなしに居心地が悪い。何もできない自分がもどかしい。
「はなむらー」
「うん?」
「あれ、なに?」
「どれ?」
「ほら、あの白いやつ」
「うん相棒、それは雲ってゆーんだよ」
「ちげーよハゲ」
「ハゲてねぇよフサフサだよ!」
「ずっとヘッドホンしてると、そこだけハゲそう」
「え、ま、マジで?」
「毛根お大事に」
「え、ちょ、マジっすか!」
「安心しろ、お前がハゲたって俺らは友達だ」
「いい笑顔やめてぇ!」
そうこうしているうちに校舎に着いてしまい、彼の言う「白いやつ」がなんだったのか、判明する機会は失われた。授業中にその事に気付き、しかし授業が終わる頃にはそれも忘れていた。街路樹のハナミズキが白い花弁を空に向けていた事を思い出していれば、彼に教えてあげられたのに。
放課後、いつものフードコートに集まって、腹の虫を黙らせてからテレビに飛び込んだ。家電売り場は今日も閑散としていて、人目を気にする必要もない。長物を武器としている我らがリーダーが、一番ばれたらやばそうだ。
センセイセンセイと連呼しながら、クマがぴこぴこ寄ってきた。クマへと視線を移動させた相棒の、少しだけ疲れた横顔を見る。最近は連日連夜のクエスト祭りだ。頼れるリーダーだからといって、否、頼れるリーダーだからこそ、疲弊しない訳がない。
クマもそれを察しているらしく、しきりにその体調を気遣っている。今も、怪我はないか、クマにできる事はないか、などと健気な発言をして、じゃあ撫でたいと真顔で言われてなんだか嬉しそうにしている。なんだこいつら。
クマ毛を無表情でもふもふしている相棒は、本当にそれで癒されているのか、それともクマを安心させる為に当たり障りのない(そうか?)頼み事をしてみただけなのか、花村には分からない。
「くすぐったいクマー」
「我慢しろ」
「センセイのキチクー」
「失敬な、俺のこの寛容さに満ち溢れた瞳を見ろ」
「ひっぱっちゃダメクマー!」
「動くなむしるぞ」
「も、もしかしてクマピンチ?」
毛どころか首ごと抜けそうな勢いでクマの毛を引っ張っている相棒は、時々見せる悪い顔になっている。花村はこの顔を見るたびに、ちょっとだけ不安になる。彼の抑圧された影は、どんな形をしているのだろう。
それより何より、今はクマの首が心配だ。ちらりとクマを見やり、花村はふと思う。毛よりも首が抜ける心配をするなんて、やはり自分は優しいのだと。普通しないよな、首が抜ける心配なんて。胸中で呟きつつ、相棒の気が済むのを待つ。
クマが本気で泣きそうになると、彼はあっさりクマを解放して花村の方に戻ってきた。心なしか気のせいか、リラックスした表情でしみじみと言う。
「クマは俺が好きなんだな」
「まあ、それは否定しねーけど」
「クマは使える子だな」
「まあ、な」
「そういえば、クマはシャドウらしいぞ」
「は?」
「クマは俺のシャドウだ」
「…ええと?」
「という夢を見たんだ」
「俺がツッコめる範囲でのボケをお願いします」
「なんでやねん」
「ツッコミ舐めてんじゃねぇぞてめぇ」
「…『てめぇ』?」
「すんません調子に乗りました」
「気にするな、俺も気にしてない」
「じゃあ目からビーム出そうとするのやめてください怖いです」
「バカだな花村、人間の目からビームは出ないぞ」
「お前なら出せそうな気がする」
「いや、さすがの俺でも、ビームはちょっとしか」
「ちょっとは出んの!?」
「そんな無邪気な期待に満ちた目で俺を見るな、背後から前衛アートで殴るぞ」
「相棒、名称を工夫してもそれが刃物だって事実は変わんないんだぜ」
冗談なのか本気なのか判断しがたい無表情で得物を構えた相棒に、本気だったらという可能性を考慮して花村も得物を構えてみる。しばし無言で互いの動きに集中していたが、先に花村が我に返って視線を逸らした。
とはいえ、「隙あり!」という声と攻撃が発せられる事も警戒していたので、意外とあっさり武器を下ろした相棒に、ほんの少しだけ肩透かしを食らったような気持ちになったのも事実だ。
天城と里中が、少し離れた場所から二人を見て笑っている。彼女たちが今でも並んで立っているという事が、花村にはとても価値のある事だと思えた。卑怯でも臆病でも独善でも、彼女たちには受け入れてくれる人がいたのだから。
「なーに遊んでんの、お二人さん」
「遊んでるように見えたか?」
「遊んでる以外の何に見えると思ってたの」
「お前もまだまだ修行が足りないな」
「そ、そお?」
「遊んでたんじゃない、癒されてたんだ」
「…へー」
「花村の怯えてる顔って癒されるよな」
「そんな衝撃の告白、あたしにされても困る」
「あと、なんかこう、花村の嫌がってる顔とか見ると癒される」
「それは本人に面と向かって言ってあげて」
「喜ぶかな?」
「知るか」
花村は分かっている。ここで、この発言で喜ぶ自分が間違っているのだと、ちゃんと理解している。クマ毛と同等の扱いしか受けていないという事実も、過たず理解している。それでも、花村は心が沸き立つのを自覚した。
彼を癒せるというのが、とんでもなく誇らしい。だれかれ構わず言いふらしたいほど嬉しい。言わないけど。
そんな事は、たとえ感じたとしても心の奥底にしまって、ずっと口に出さなかったに違いない。だって、そんな事を言えば相手は反応に困るだろう。重たいと感じるだろう。お前に支えられて立っているなどと、言われれば少なくとも花村は引く。
でも、伝えたいと思った。分かって欲しいと思った。ただ一方的に支えられるのではなく、支えたいと、頼られたいと、そう思っているのだと。彼がうつむく時は、自分が顔を上げたいと、そして彼にもそれを望んで欲しいと。
言わずに、そもそも思わずに、花村はずっと生きてきた。今はいないあの人には、もしかしたら、今になって思い返せば伝えるべき言葉はたしかにあったはずなのに、言えなかった。言えずに、ついに伝える術はなくなってしまった。
この男には、もしかしたら、いつか言ってしまうかも知れない。その時の自分はさぞや無様だろうと、花村は予感というにはあまりに楽観的なその空想を追い払って苦無を握りなおす。
走り出した相棒に遅れないよう、霧の向こうに目を凝らした。
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