足立の目の前には、少年が横たわっていた。その少年は、真直ぐな目と、清らかな意思と、たくさんの仲間を持っていた。足立は彼が嫌いだった。

 実にあっけない。つまらない。もう少し楽しませてくれるかと思っていたのだが、とんだ期待はずれだ。声になったかどうかは分からないが、足立はそう呟き、空を見上げた。
 あるいは、それは空ではないのかも知れない。ただ、上にあるものが空だと、足立は今まで疑いもしなかった。でもここが地の底だとしたら、上に見えるのは地面の裏側だ。
 地球が球体なのだと、聞いてはいたが足立は確認していない。でもその情報を信じるのなら、足元から下に向かって線を引いて、地球も突き抜けてずっとその線を引っ張ってゆくと、裏側の人の頭上の、そのまた上にまで到達する。絶対だと思い込んでいた上下という空間認識すら、知識の中であやふやになってゆく。向きが変われば逆になってしまう左右と同じように。

 きっと人は知っているのだ。空には何もない事を。からっぽと記せば、それが即ち証拠となる。無限の比喩にも用いられる空という存在は、同じ文字が虚無をも表している。空虚、空洞、空漠、真空、挙げればきりがない。それとも、見上げるものの負け惜しみだろうか。どうせそんな所には何もないのだと冷笑して、届かなくても嘆かずに済むよう。

 首が疲れたので俯いた。そうすると、横たわった少年が見える。
 足立は、彼の叔父と従兄妹も知っている。愚直を美徳だと信じる男と、忍耐を善行と信じる少女は、足立にとって憐憫を誘う存在でしかなかった。可哀相にと、何度か思ったような、そうでもないような。詳しくは忘れた。

 動かなくなった少年を爪先で小突くと小さな呻き声が聞こえて、思わずびくりと肩を揺らした。さすがに若者はタフだな、などと、聞こえているかも分からないが嘲笑する口調で言ってみる。
 無防備に投げ出されていた少年の手の平が、かすかに震えて、ゆっくりと拳の形になった。もう武器はないのに、まるで戦う形のようだ。足立は笑みを浮かべた。

 地獄のようではないか。諦める事すらできず、傷付いても立ち上がり、屈辱を受けても顔を上げて、仲間が死んでひとり残されても戦わなければいけないなんて。
 嘆く心はもうないが、憐れむふりならできなくはない。可哀相にと、できるだけ優しく言ってみたが、拳はほどかれず、少年は痛みに耐えながら呻いている。可哀相に。薄っぺらい声だと、自分でも思った。

 あだちさん、と声がした。この期に及んで律儀に「さん」付けする少年が、少し気持ち悪い。ただの惰性だろうか。少年の友人は、吐き捨てるように足立の名を呼び捨てていた。そちらの方が理解できる。
 どうしたのと、白々しく訊いてやる。笑みを浮かべて、さえない刑事のような顔で。

「俺は負けたんですか」
「そうだね」
「足立さんは、勝ったんですか?」
「まあ、君が負けたんなら、そうなんだろうね」

 いっそ一息に首を落とされて負けた方が、よほど幸せなのではないか。上に視線を投げたまま、ぼんやりと考える。勝利というには、ここは深すぎる。でも少年は負けたのだから、対峙した足立が勝利したというのが事実だろう。嬉しくないけど。

「悔しいかい?」
「そりゃあもう、殺してやりたいほど」

 勝者が敗者にインタビュー、うわあ残酷、と胸中で言葉にしてみた。自分で思っているよりも、自分は昂揚しているらしい。どこかで冷めた自分が、そう判断した。なんて無意味な考察だ。心の底からどうでもいい。途方に暮れて見上げた空も、本当に空なのかと足立は疑っている。
 少年が無様に身じろぐのをしばらく眺めてから、立ち上がろうとしているのだと察した。

「痛くないの?」
「痛いですよ」
「動かない方がいいんじゃない?」
「どうして?」

 残されたほんのわずかな命なら、せめて苦しまないように使えばいいのに。それが少しだけ慈悲に似ていると自覚して、足立は口を閉じる。そうしてから、本当の慈悲ではないのだから、まがい物の慈悲ぐらい投げてやってもよかったと後悔した。
 唐突に、今も手にあった銃の存在を思い出す。

「楽になりたい?」
「うーん、まあ、なりたいと言えば、なりたくない訳でもなきにしもあらず、のような」
「君ってさぁ、意外と、その、なんてゆ−か」
「そんな仲間になりたそうにこちらを見ないでください」
「負けたくせに人をスライム扱いしやがったよこの子!」

 笑いながら引き金を絞る。上にあるというだけで空だと誤解してしまう、理不尽な虚無に銃弾が消えていった。夕焼けには似ていない赤が、黒と混じって足立を見下ろす。好きでも嫌いでもなかったこの色を、今は厭う気分になっていた。
 少年は地面に倒れて起き上がれない。きっと物凄く痛いだろうに、叫びもせず、泣きもしない。小さく呻いて、まるでまだ終わっていないとでも主張するように、手が掴むべきものを探している。共に走ってここまで来た仲間は、離れた場所で動かなくなっている。それなのに。

「足立さん」
「もういいよ」
「イザナギって知ってますか?」
「嫁が死んで、八つ当たりで産まれたばっかの子供を殺して、泣きわめいて嫁を蘇生しようとしたけど蛆が気持ち悪いからって逃げてきて、汚い嫁はもういいやってんで新しく子供作って隠居したカミサマだろ?」
「へえ、意外と知ってるんですね」
「わあ殴りたい。殴っていい?」
「殴り返しますよ」
「その体で?」

 嘲笑しながら少年を見下ろして、ふと気付いた。風が吹いている。

 風が、吹いている?

 少年が立ち上がった。刃物が回転しながら飛んできて、少年の足元に突き刺さる。
 その柄に手をかけて、少年が「遅いぞ」と囁いた。「間に合ったんだからいいだろ」と、軽い声が背後から聞こえる。
 こんな場所には相応しくない澄んだ声が、「先輩」と言った。少年を呼ぶ声だと、数秒の間をおいて認識する。
 暴力的な衝動を含んだ声が、アマテラスと叫んだ。振り向く間もなく熱風が皮膚に触れる。
 灼熱に焼かれて苦悶の声を上げた足立を、少年が見下ろしていた。

 この少年は自分よりも歪んでいるのだと、足立は薄れてゆく意識の中で確信する。
 彼が選んだ未来ならば、もしかしたら。
 そこで足立の意識は途切れた。

 途切れたが、それは終焉ではなかった。
 足立はまた絶望して空を見上げる。