自分がどうしてここにいるのか、九角は憶えていなかった。産まれた瞬間を記憶している人がいないように、九角もまた自分がどこから来たのかを知らない。ただ、九角には力があり、欲望があり、手足となる鬼がいた。

 最初は、水だった。もう思い出せないが、かつて、どこまでも共にと真直ぐな瞳で誓った女だった。
 風が失われ、炎が落ちて、岩と雷も打ち砕かれて、しかし九角に孤独は訪れなかった。
 手足を失っても、止まる訳にはいかない。その望みは妄執じみていて、郷愁にも似ていた。












 戸板一枚を隔てて、風がむせび泣く。涼やかな、あるいは物悲しげな音を立て、風はさも恨めしげに灯火を揺さぶる。何度となく耳に触れたその音が、どうして自分を責める怨嗟に聞こえないのか、九角はずっと不思議だった。あの鬼たちは、どうしてこんなにも優しいのか。哀しいのか。

 顔を上げると、自分を責める瞳が見えた。訳も分からず安堵する。その名を口中で呟き、湧き上がる感情を押しとどめて薄く笑う。美里は、唇を引き結んで真直ぐに九角を見詰めていた。
 みさと、あおい。
 その名を口にするのはやめて、九角は目を伏せたまま微笑む。産まれ落ちた不運を嘆き、そんな自分を嘲る微笑。伝わるはずはないと思っていたのに、美里はさも悲しげに、同じように微笑んで目を伏せた。錯覚してしまう。彼女と自分が同じ心であると、愚かしい幻にすがってしまうそうになる。












 遠い昔に、死んだ男がいる、らしい。
 年老いた風が語るのは、いかにも鬼に相応しい憎悪と悲哀と慟哭。まるで見てきたかのように、風は九角にものがたりを聞かせた。狂ったように繰り返し、風は九角に悔恨を教えた。風が語った悔恨が、いつしか九角自身のものになるまで、何度も、何度も繰り返し。
 植えつけられた悔恨は、根付いて芽吹き、憎悪になった。憎悪の所以も知らぬまま、九角は鬼と成り果てた。

 水が切り裂かれた時、風が奇妙な仮面の下で微笑んだのが、九角には察せられた。
 黄泉路はさぞかし賑わっておろうな。小さな呟きに、九角は自分が何も理解していないのだと知った。鬼がどこから来たのか、どこへ向かうのか、昏い瞳が何を見詰めているのか、何も。黄泉路で待つは、風の旧知か宿敵か。どちらにしろ、九角には与り知らぬ者たちだ。
 鬼たちが自分にかしずいているのではないと、九角は知っていた。本当は、ずっと前から知っていた。自分が空虚である事実を知らずにいられるほどには、九角は愚かではなかった。












 清らかに澄んだ瞳が、九角を見詰めていた。清らかなまま、汚濁を知らずにいて欲しい。願い、九角は自嘲する。底に何が沈んでいるのか、水面を見ただけで分かる道理もない。
 美里が、少しだけ柳眉をひそめた。それは不快を表すものではなく、ただ純粋に疑問を含んだ顔だった。目の前の男を理解できずに、戸惑っている。
 なんたる傲慢。この世には、本当に理解できるものなど存在しないのに、それを知らないのか。自分の好むように世界を歪めて見て、それを理解と呼ぶ傲慢。思い、九角は嘲笑する。
 美里が切なげに目を細めた。危うく手を伸ばしそうになって、寸前で気付いて自制する。

 俺が死んだら。
 不意に零れた言葉に、美里が目を丸くした。九角は構わず、溢れるままに声を落とす。滑稽だと脳裡でちらりと思わないでもなかったが、取り繕うには醜態をさらしすぎていた。今更、というやつだ。

 誰がお前を守るんだ。
 羽虫が蝋燭の火に焼かれて、ジッと音を立てて燃え尽きた。それがまるで自分のようだと無心に思い、すぐに忘れる。美里は何も言わなかった。何を言えばいいのか分からないのだろう。正解ではない言葉を口にするのを恐れているのだ。それすら嘲ろうとして、それも当然かと思いなおす。人の命に価値を見出せない男の前で、気丈に振舞える女などいない。
 しかし美里は少しの間をおいて、毅然と応えた。

 守っていただく必要は、ありません。
 膝の上で固く握られた美里の手は、わずかに震えている。気付きはしたが気付かぬふりで、九角は小さくかぶりを振った。美里が堰を切ったように語りだす。声を発した事で、押しとどめていたものが溢れ出したのだろう。

 確かにわたしは弱いけど、何もできないけど、むしろ迷惑をかけてばかりいるけど、守られる立場に甘んじているのではない。それが悔しくて、守られずとも立ち向かえるようになりたいと、こんなにも思っている。それなのに、貴方までわたしを守られる存在だと言う。守らなければ立ってもいられない、弱い女だと言う。それが、とても、はがゆい。

 言葉と同時に溢れた涙は、冷たい床に落ちてぱたりと小さく鳴った。濡れた頬で、それでも顔を上げる女が、とても綺麗だと九角は思った。口には出さなかったが、己の非力を憎むこの女を、守りたいと強く思った。
 それが彼女を侮辱する行為だと理解しても、この細くたおやかな花のような人を、いつまでもは無理だとしても、せめて彼女が安らかに満足して逝くまでは守り抜きたいと、声ではなく心で叫んだ。

 ふと、夢を思い出す。その夢を見たのは、ゆうべだったか、朝方だったか、遠い昔の午睡だったか、それすらも判然とせず、それでいて妙にはっきりと思い出せた。

 水が清流のように眼差しを上げ、風が傍らで何事か(どうせ小言に違いない)言っている。炎は誇らしげに右腕を掲げ、岩がおおらかに声を立てて笑い、雷が穏やかな顔でそれを眺めている。
 どこまでも。
 少年が意気込んで拳を上げた。女が柔らかく弦を撫でた。僧装の男が長槍の柄で地を叩いた。振り向くと、黄金の龍が微笑んで頷いた。恐れるものなど何もない。
 誰も口にしなかったが、誰もが信じていた。世界が闇に包まれても、この黄金がある限り、我らはどこまでも。

 夢の話だ。












 外で声がする。剣士が得物を肩に乗せ、闘士が固く拳を握り、射手が矢をつがえる。夢の中では微笑んでくれた男が、冷たくこごった瞳で黄金の氣を滾らせる。振り向くと、美しい女が凛呼とした瞳で首を横に振った。薄闇に揺れる黒髪が、灯火を受けて黄金のように見えた。
 この女が妹ならよかった。この女を守る正当な理由があればよかった。負けず嫌いで傲慢なこの女を、この手で守る事ができたらよかったのに。

 鬼には過ぎた望みだと酷薄に笑い、九角は太刀を佩く。
 手首に絡んだ黒い数珠が、小さく震えてかちりと鳴った。