薄暗い下り坂を、だらだらと歩いている。そんなまどろみだった。やがて眠りに続く道を、葉佩は疲れた体で歩いていた。
 急激に道が上り坂になった。と思ったら、窓を叩く音が聞こえて、夜空を背にした皆守が見えた。葉佩は泥濘のようなまどろみから脱出しようと一瞬だけ試みたが、体はその心を裏切った。つまり、目を閉じた。

「おい葉佩」
「うん、明日ね」
「いいから起きろ」
「俺、やっと分かったよ」
「そうか、やっと分かってくれたか」
「うん、ごめんな皆守」
「許さない」
「お前はいつもこんな気持ちだったんだね」
「そうかもな」
「お願いだからどっか行け」
「断る」
「俺から眠りを奪わないでください」
「散々人から奪っておいて何を言う」
「これが因果応報ってやつかぁ」
「やられた事は、いつかやり返される」
「それがいい事でも、悪い事でも」
「起きろよ葉佩」
「なんで?」

 皆守は答えず、窓を開けろと命令するような口調で言った。それが本当に命令だったら、葉佩はそのまま無言で眠りへと続く道に下りていっただろう。彼の命令に従う理由はない。
 だが葉佩は多大なる努力をして目蓋を上げて、窓を開けた。皆守の言葉が命令ではなく、真実は願いだったからだ。冷たい風と共に部屋へと入ってきた皆守を見上げて、葉佩は確信した。
 窓を、あるいはドアを、彼はいつだって開けてくれた。あからさまに億劫そうな動作で、時には舌打ちをしながらも、いかにも嫌々ながらと主張するように、それでもいつだって、彼は開けてくれた。または、葉佩が開ける事を許してくれた。それが葉佩の願いだと、知っていたからだ。

 ベッドに座って皆守を見上げていると、不思議な気分になった。重たそうなブーツが窓枠を踏み、あやういバランスで安定している。暗視ゴーグルを首に引っかけて、防弾ベストの上には皮製のジャケット。右胸のポケットにはラークとジッポが入っている事を、葉佩は知っている。
 もう何度も、今では飽きるほどによく目にする皆守の姿だ。それなのに、葉佩は今でも我が目を疑う。彼が《宝探し屋》であるという事実を、今でも葉佩は疑う。これは夢なのでは、と。
 星空のような目で、皆守がせかす。

「早く着替えろ」
「フォーマルでいい?」
「持ってんのか」
「買ってくる」
「無駄遣いするな」
「でも、シャツがまだ乾いてない」
「いいから着ろ」
「よくないよ風邪引いちゃうよ!」
「大丈夫だ、バカは風邪引かないから」
「それ迷信だから」
「そうなのか?」
「だって皆守もこないだ風邪引いてたよ」
「殴るぞ」

 と言いつつ、皆守はブーツのまま床に下りて、コート掛けにぶら下がっていた葉佩のベストと上着を手に取り、ベッドに放り投げた。それは無造作な動きのようにも見えたが、細心の注意を払った動きであると、葉佩はもう知っていた。皆守が放り投げた上着のポケットには、刃物や弾薬やその他の危険物がそれこそ無造作に入っている事を、彼は知っているからだ。
 特に意識をしなくとも、相手の仕草を理解できる。それが葉佩には信じられない。

 椅子の背に引っ掛かっていたまだ乾いていないシャツは、皆守がハンガーにかけて吊ってくれた。そうした方が早く乾くと、葉佩も知ってはいるのだ。やらないだけで。
 寝着と決めていた訳ではないがいつの間にか寝着になっていたシャツの上にベストを着て、上着を羽織り、ブーツを履く。皆守に向きなおると、満足そうな笑みが見えた。葉佩は困惑する。

「着替えたよ」
「ちょっと待て」
「お前が早くっつったのに!」
「火、点けちまった」
「早く吸い終われよ!」
「お前が待たせるからだ」

 皆守は、煙草に火を点けると動かなくなるタイプの人間だった。歩きながら吸えばいいじゃないかと、葉佩は以前も何度か言ってみたが、どうやらそのような行為は嫌いらしい。何故かは分からない。
 ゆっくりと時間をかけて、まるで人生の味を楽しむかのように煙を吐き出して、皆守はようやく立ち上がった。せかされた方が待たされているというのが、実に腑に落ちない。

「どこ行くんだよ」
「ああ、どうするか」
「せめて行き先ぐらい決めてから連れ出せよ!」
「いや、目的は決まってるんだ」
「じゃあ目的を明確にしろ」
「それはまだ言えない」

 もしも彼が害意を有していたら、などと考えもしない自分が、葉佩は不思議でならない。皆守がまだ高校生だった頃、葉佩は彼に殺されかけた。今では遠い昔のように感じられるあの夜でさえも、葉佩は彼が自分を殺すなどと考えなかった。
 信頼ではないと、葉佩は思っている。ただ、やがて朝が来るのだと疑わぬように、彼は自分を殺さないのだと、そう思っている。今のところ葉佩は死んでいないので、それは裏切られていない。他の事では、多少なりとも裏切られたが。

 駐車場に停められた車に乗り込む。皆守が運転席で、葉佩が助手席だ。言葉もなく、目線すら合わせず、まるで決められていたかのように、ふたりはその席に座った。
 皆守がギアを入れる。葉佩がラジオのスイッチを入れるついでにヒーターも入れる。なめらかに、最も振動の少ないタイミングでクラッチを繋ぐ皆守の走り方が、葉佩はこっそり好きだった。穏やかな彼に、とても似合っている。激しい一面も持ち合わせているのは、この際さておく。

 しばらく無言で走っていたが、葉佩は眠くならなかった。移動中は、特に彼の運転中は、いつも眠くなるのに。あたたまった車内に、控えめなラジオの音が満ちている。眠るには最適の環境だ。それなのに。

「眠くない」
「そうか?」
「なんでだ」
「目が冴えたんだろ」
「なんで?」
「外的刺激が交感神経を」
「あ、煙草」
「忘れたのか?」
「一本ちょうだい」

 何も言わずに、皆守は右胸のポケットからラークを取り出して葉佩に向けた。赤いパッケージを支える指が、やけに白くて気味が悪い。本当に血がかよっているのかと疑って、煙草よりも先に指を触ってみた。冷たい。
 もしかして、この手は生きていないのでは、と急に不安になってきた。「皆守」と呼ぶと、ちょっと戸惑いぎみの声が返ってくる。白くて冷たい指先を握り締めたまま、葉佩がもう一度「皆守」と発音した。

「ええと、どうした」
「皆守、死んでないよね?」
「足がなかったらアクセルが踏めない」
「幽霊に足がないなんて迷信だよ」
「そうなのか?」
「それに、皆守には足がある」
「いや、ええと」
「でも皆守は幽霊じゃない」
「おう」
「幽霊じゃなかったら、なんだ?」
「え、いや、生身の人間」
「生きてる?」

 自分でもちょっと不気味なほどに不安だった。たぶん皆守は、こんな自分を気味が悪いと感じているのだろうと認識できる。が、不安なのだ。本当にこれは現実なのかと、夢ではないのかと、葉佩は今でも疑っている。
 銀色の夜明けが来ても、屋上から夕焼けを眺めても、葉佩はずっと不安だった。
 だってこれは、あの頃の夢にとても似ている。

「ねえ皆守」

 皆守が微笑んだ。憐れむような、いとおしむような、葉佩の知らない表情で。葉佩は表情を失った。
 気付かないうちに、騙されていたのか。隣で微笑む彼は、やはり幻だったのか。彼は本当は死んでいて、これは夢で、目覚めたらあの忌まわしい玄室で、ひしゃげた彼の体を見下ろしているのか。
 あの美しい左脚を撃ったのは、この手だ。それが真実だ。それだけが、揺るぎない真実だ。

「俺が撃ったから」
「ああ、まあ、撃たれたけどな」
「皆守は死んで」
「死んでない」
「え、ほんとに?」
「ほんとに」
「撃たれたのに?」
「俺が撃たれたぐらいで死ぬと思うのか」
「普通は死ぬよね」
「撃たれた場所にもよるだろ」
「ああ、末端なら死なないね」
「顔面でも死ななかった奴がいるのは、さておき」
「あれだ、墓守だったからだ」
「それもあるな」
「あるのかよ、墓守すげぇな」
「おう、すげぇだろ」
「皆守が墓守でよかった」
「阿門に感謝しろ」
「ふざけんな、あいつが諸悪の根源じゃねぇか!」
「根源は、あいつじゃない」

 心を込めた言い方が気に食わなくて、葉佩は不安も忘れてあからさまに顔をしかめた。皆守は、いつも阿門をかばう。葉佩はそれが気に食わない。葉佩には理解できないものが、彼らには理解できる。その事実が、とても不愉快だ。面白くない。

 葉佩には気付かれぬよう安堵の息をついた皆守が、ブレーキを踏んだ。走り出しはなめらかなのに、停まり方は雑なのが惜しいところだ、などと考える葉佩は、先程の不安をすっかり忘れている。
 いつの間にか皆守が煙草をポケットに仕舞ったのも、いつの間にか目的地に着いていた事にも、葉佩は気付いていない。皆守が、そんな葉佩を憐れむと同時にとても好ましく感じているのも、葉佩は知らない。葉佩の傷は自分だけが癒せるのだと確信して、皆守はいつも微笑んでいる。それを、葉佩は知らない。

「ここどこ?」
「さあ?」
「それすら曖昧って!」
「場所は重要じゃない」
「何が重要なんだよ」
「空が見えるだろう」
「そんなん地下じゃなければどこだって見えるよ」
「地上でも屋内だったら見えない」
「そうだけどさぁ」
「来たぞ」
「何が?」

 皆守は答えず、微笑んで空を見上げた。つられて葉佩も顔を上げる。
 ひとつ、星が流れた。
 あ、と声を発すると同時に、もうひとつ。
 またひとつ。












「ああ、これが見たかったの?」
「いや、お前が見たいかと思って」
「それはどうもありがとう」
「目が覚めたら、ちゃんと俺を見ろよ」
「は?」
「俺はお前を恨んでないから」
「許さないって言ったくせに」
「あれは嘘だ」
「なんで嘘ついたんだよ」
「まだ間に合う」
「何に?」
「まだ、俺は死んでない」
「あのさ、皆守」
「だから早く起きろ」
「みなかみ」
「起きろよ、葉佩」

 目が覚めたら、ちゃんと俺の死に顔を見ろよ。













「で、起きたんだけどさ」
「ほお」
「お前、死んでねぇし」
「あの一瞬で随分と長い夢見たんだな」
「なんか喋り始めるし」
「まあ、俺も見たけど」
「何を?」
「夢」
「あ、また流れた」
「思ったより少ないな」
「そんなもんだよ」
「そんなもんか」
「あーさみー、早く帰ろうぜー」
「もうちょっと」
「皆守が人肌であっためてくれたら」
「よし分かった」
「すんません調子に乗りました」
「遠慮するな」
「やめろお前の手ほんとに冷たい!」
「今なら凍拳できる気がする」
「それはちょっと見てみたい!」