いつものように弓道場に顔を出し、神鳳は生徒会室に向かった。今日は召集もなく、例の《転校生》も大きな問題は起こしていない。そもそも問題というなら、彼は存在自体が大問題を内包している。苦々しくそれを思い出し、心臓の横の小さな針に気付いた。その針は、危機感ではなく期待を抱いている自分への警告だ。
時計を確認する。恐らく、阿門もまだ来ていないだろう。誰よりも早く来て室内を見渡すのが、神鳳の日課だった。昨日と同じ状態である事を確かめ、不変という幻を必死で形作る。滑稽だ、と、溜息をついた。だが、それを望む人がいるのも事実だ。そしてその人の望みを叶える事が、神鳳にとっての喜びでもある。例えそれがどれほど愚かしいものであっても。自嘲を抑えて顔を上げると、夷澤と目が合った。
「・・・」
「・・・っす」
「何をしてるんですか」
「別に、ちょっと絶望してただけっす」
「朝っぱらから辛気臭い事しないでください」
「俺だってしたくてしてんじゃないっすよ」
そう言って自分の腕に顔を埋めた夷澤は、ソファの上で膝を抱えている。何たる不覚。気配に全く気付けなかった。思わず理不尽な怒りをぶつけそうになり、辛うじてその衝動を押し止める。自分の爪先を見詰め続ける夷澤に、ゆっくりと歩み寄った。
「珍しいですね」
「何がっすか」
「お前が呼ばれてもいないのに此処に来るなんて」
「・・・そんな日もありますよ」
何かが違う。神鳳は自分の中で湧き上がった違和感を、努めて冷静に観察した。視線を落としたままの夷澤に、違和感の正体を見極めようと目を凝らす。気付いたのは些細な相違だった。些細ではあるが、その意味するところは大きい。無視してしまいたいが、目を逸らしたところで事態が改善するとは思えなかった。
「どうしました?それ」
「・・・どれっすか」
「言って欲しいんですか?」
「・・・神鳳先輩」
「何でしょう」
「・・・」
呼びかけておきながら、夷澤は何も言わずに顔を伏せた。自分の袖を握り締め、分かり易く絶望している。その袖がいつもより余っている事にも気付き、口に出してみた。
「少し見ない間に、随分と可愛いらしい姿になりましたね」
夷澤が顔を上げて神鳳を見た。同時に、無言のまま少しだけ神鳳から距離を取る。その表情に浮かんでいるのは、疑心と僅かな恐怖。神鳳の嗜虐性が静かに目覚めた。無表情のまま、一歩踏み出す。夷澤がソファから足を下ろした。構わず距離を詰める。夷澤が弾けたように跳んだ。壁際まで一気に跳び退り、警戒も露に神鳳を見上げる。全身で接近を拒絶する夷澤に微笑みかけてやりながら、拳で戦う者の間合いの一歩前で立ち止まった。意識して笑みを深くする。
「興味深い現象ですね」
「そ、そっすか?」
「取り敢えず、身体検査でもしましょうか」
「・・・」
「冗談ですよ。そんな顔しないでください」
「あ、ああ、なんだ、冗談か・・・」
夷澤が、笑おうとして失敗した。引き攣った頬に一筋の汗が流れる。忙しなく移動する視線は、退路を探しているのだろう。敵に背を向ける事を厭う夷澤が、逃げ道を探している。神鳳が、堪えきれずに破顔した。夷澤が、今度こそはっきりと恐怖を表現する為に目を見開く。
神鳳が踏み出した。夷澤が一息で詰められるギリギリの間合いに入ったところで足を止め、笑みを消した。
「全く、今度は何をやらかしたんですか」
「俺が何したってんすか!」
「どうせまた《転校生》の恨みでも買ったんでしょう」
「は?」
「こんな悪趣味なイタズラ、あの男以外の誰が実行できると思ってるんですか」
「あああ!あの野郎!」
「心当たりがあるんですか?」
「ありすぎて分かりません!」
「それは困りましたね」
「分かんないけど、取り敢えず殴ってきます!」
「まあ落ち着きなさい」
走り去ろうとした夷澤の腕を掴み、引き寄せた。容易くバランスを崩した背中に、追い討ちの平手を打ちつける。非力な体は、それだけで床に転倒した。しかし滑らかな動作でその衝撃を逃がし、呆然とした表情で神鳳を見上げる。その顔の前に手を差し出したが、鋭く払われた。自力で立ち上がった体は、見慣れているものより細く、小さい。
「だいたい分かりました。お前が殴り込んだところで、返り討ちに遭うのが落ちです」
「んな事ねぇっすよ!」
「下手をすれば、敵に塩を送る事にもなりかねない」
「しお?」
「お前が手篭めにされる可能性です」
「てごめ・・・」
「分かってないんですか?」
「あ、え、てごめっすよね、ええと、あれでしょ?」
「今のお前は、弱い」
夷澤が黙った。何事か言おうと口を開いたが、声を発する事なくまた閉じる。一目瞭然とも思えるその事実に、漸く気付いたらしい。唇を引き結び、固く拳を握った。
夷澤の攻撃手段は、純粋に腕力に頼る方法だ。勿論それだけではないが、戦闘力そのものが大幅に減少している事は否めない。そんな状態で敵に向かわせるなど、愚の骨頂だ。静かな口調でそう語る神鳳に、夷澤が叫んだ。
「じゃあどーすりゃいいんすか!」
「取り敢えず、襟を閉めなさい。見えてますよ」
「見たけりゃ見ろ!」
「では遠慮なく」
売り言葉をあっさり買われてしまった夷澤が、僅かに顔を歪めた。神鳳は言葉どおり、無表情で夷澤を凝視している。大きく開いた胸元に、温度の無い視線を注ぐ。夷澤が少しだけ後退った。だが、それも一瞬だ。直後に踏み止まり、その視線を真正面から受け止めた。顎を引き、強い瞳で神鳳を見上げる。その目を無視して、神鳳は眉一つ動かさずに白い肌を見詰め続けた。
しかしというか、やはりというか、先に折れたのは夷澤だった。先程からずっと握り締めていた拳を、神鳳の顔面に向けて放つ。それを最小限の動作で躱し、漸く表情を元の状態に戻した。つまり、笑みの形に作り直した。躱された拳を震わせながら、夷澤が大袈裟な動作で襟を直す。それを見届け、神鳳は溜息を吐き出した。目に楽しい状況であるのは認めるが、遊んでいる場合でもないような気がする。
「では状況が飲み込めたところで、解決策を探しましょうか」
「あの阿呆を死ぬまで殴ればいいんじゃないっすか?」
「彼が死んでしまったら、同時に戻る手段も失われる可能性があります」
「じゃあ、死ぬ寸前まで殴る」
「お前にそれが可能とも思えませんね」
夷澤が口を噤んだ。歯を食い縛って顔を逸らす。まだ認められないのか。神鳳が僅かに苛立った。
夷澤が毎日欠かさず走り込みを続けている事を、神鳳は知っていた。一つ一つ積み上げ、一段づつ上がってゆく事だけが、目指す高みに近付く最良の方法だと信じているのだろう。そんな小さな努力など一瞬にして消し飛んでしまうほどの恐怖を、彼はまだ知らない。夷澤は、未だ誰にも挫かれた事が無かった。彼を打ち砕く最初の人間が、自分だったら。意識の表層に浮かび上がった思いを、静かに深奥に沈める。まだ、悟られてはいけない。
「もういっそ、そのままでもいいのでは?」
「・・・あぁ?」
「その姿なら、きっとあの方にも可愛がってもらえますよ」
夷澤が目を見開き、全身を怒りと屈辱に震わせた。そのままの表情で神鳳の襟を強く掴む。威圧したかったのだろうが、涙目で下から襟を掴まれても、縋られているような気分になるだけだ。その事を言うべきか否かで迷ったが、神鳳は口を閉じた。あの負けん気の強い生意気な後輩が自分に縋って泣くなんて、愉快な事この上ない。思わず愉悦が表情に出そうになり、神鳳は慌てて気を引き締めた。睨み付けてくる瞳を、努めて冷厳と見下ろす。夷澤が怯んだ。まだ襟を掴んでいた手を、強く握り返す。引こうとする腕を引き寄せ、慣れた手付きで捻り上げた。完全に極まった肘を取り戻そうと、夷澤が無駄な抵抗を繰り返す。
「差し当たって必要なのは、代わりの人材ですね」
「・・・代わり?」
「動かない方がいい。折れますよ」
「・・・てめぇ・・・」
「こんな細腕で何が出来るっていうんですか」
「・・・」
「今のお前は、この場所に立つ資格が無い。分かりますね?」
肘の痛みと落とされた言葉に、夷澤が奥歯を噛み締めた。そのどちらも、神鳳が与えたものだ。瞳に含まれた憎悪が、心地好い微風のように神鳳をさざめかせた。腕は拘束したまま、片手で乱れた襟を直してやる。ビクリと大袈裟なほど震えた体に、堪えようもなく口元が緩む。
「お前があの男に何をされたかは分かりませんが、手段は必ずあります」
「・・・」
「後輩が世話になったんです。落とし前は、僕が付けましょう」
「いらねぇっすよ。手前ぇのケツは手前ぇで拭きます」
「・・・その容姿であまり下品な発言はしないように」
腕を解放すると、夷澤は予想よりも静かに身を離した。視線を逸らせたまま、激痛を発する腕を擦る。それを視界の端に入れつつ、神鳳は茶器の用意を始めた。阿門がこの部屋に来るまでに、昨日と同じ状態を作らなければならない。しかし、時間は確かに流れている。不変など、本当は存在しない。その事実を体現するものが、じっと神鳳を見ていた。
「まだ何か?」
「・・・俺、どーしたらいいんすか?」
「あと五分ほどで阿門様が来ます」
「え、あ!やべぇ!隠れなきゃ!」
「その程度の状況認識力は残ってましたか」
「言うなよ?」
「おや、今のは命令ですか?それともお願いですか?」
「・・・黙っといて、ください!」
「分かりました」
頷いた神鳳を一睨みして、夷澤が辺りを見回す。やがて窓に歩み寄り、枠に足を掛けた。夷澤の意図を過たず察した神鳳が、その背中に涼やかな声を投げる。
「間違っても一人で殴り込みなどしないでくださいね」
「分かってますよ」
「あと、あまり出歩かないように」
「・・・っす」
「可能なら、自分の部屋に居なさい」
「・・・心配しすぎじゃないっすか?」
「お前に自覚があれば、ここまで心配はしません」
「さっきは楽しいとか言ってた癖に」
「・・・楽しませてくれるんですか?」
「あ、じゃ、しつれーします」
神鳳の声色が変化した事に気付き、夷澤が窓から飛び降りた。軽やかな着地音と、数秒後には走り去る音が耳に届き、神鳳が溜めていた息を吐き出す。
滞ったこの場所で、彼は変化を信じている。昨日よりも強い自分。今日よりも心地好い明日。そんなものを、疑いもせずに生きている。少々突き抜けた変化を遂げたようだが、それでも彼の目は曇らない。絶望すら糧にするその浅ましいまでの貪欲な精神を、どうやって自分に落とそうか。
無音の室内で神鳳が浮かべた微笑の意味を、知る者はいない。
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