何故かいつも薄暗い部屋で、青い目の男がさも憂鬱そうに言った。
「お前は、怖くないのか」
それは柔らかく穏やかな声だったが、皆守は首筋に刃物を当てられたように錯覚した。恐怖のようにも恍惚のようにも感じられる心音をどこか遠くに聞きながら、問いの色を含みながらも実質的には問いではない言葉に肯定を返す。意味はない。ただ、彼の声が過たず耳に届いたという事実を伝えるために、皆守は小さく頷いた。
青い目は光を反射する事もなく、闇と同じ色で皆守を見据えた。底のない水を覗いているような、落下の幻覚を感じる。指先が冷える。喉が圧迫される。心臓が、きりきりと締め付けられる。
「そうだな、少しだけ」
と言ってから続く言葉を探し、しかし適切な言葉は見当たらなかったので放棄した。身を沈めていたソファに寝そべり、目を閉じる。重苦しい溜息が聞こえたが、幻の落下は止まらずに皆守を深奥へと連れ去った。
少しだけ、怖かった。だがそれとは違う場所で、不思議な炎が揺れている。
皆守は、自分が断崖に立っているのだと考えていた。僅かでも風が吹けば、この身は容易く落下するだろう。あの男は風だ。そして、少しだけ不思議な能力を持っている。
屋上で寝ていたら、同じクラスの女生徒が《転校生》と共にやって来た。騒音に堪えかねて片目を開けると、胡散臭い笑顔が見える。ああ、また強欲な愚者が《墓》に捧げられるのか。罪悪感などとっくに見失ってしまったが、自分が彼に死を与えるのだと思うと、やはり少々憂鬱だ。
皆守の前に現れる《転校生》は、その多くが死を厭い、見苦しいほど生命に強く執着する。俺は死なない。死んでたまるか。お前を殺してでも、絶対に生きてやる。無光の闇に在っても、彼らは星を見るような目でそう言った。目の前で笑みのように頬を歪めるこの男も、遠くない未来に憎しみを宿して皆守を見るのだろう。憎悪と絶望と、情熱と感嘆。朝方に、そんな夢を見たような見ないような、さてこの記憶は現実だったかどうだったか。
戯れに、言葉を投げてみる。そうすると、女生徒のやや後方に立っていた《転校生》が、彼女には見えない位置で胡散臭い笑みをやめた。代わりに浮かんだのは、皆守には理解できない表情だった。
記憶が混濁する。あれは夢だったのか、それとも現実にあった過去なのか。幻が見える。朝焼けのような気味の悪い紫色。夕暮れの空に横たわる三日月の白。心臓が音を立てる。警鐘のように胸を叩く。
男が再び頬を笑みの形に戻すと、正体不明の恐慌はあっさりと消え去り、皆守はようやく左手のアロマを思い出す事ができた。名残に震える手に気づかれぬよう、慎重に口に運ぶ。
それが彼の能力なのだと、皆守は少し経ってから察した。その時にはもう、彼が《宝探し屋》だと知らぬ者はこの《學園》に存在しなかった。
皆守が薄暗い部屋で目覚めると、肩に毛布が掛かっていた。阿門が手ずからそんな優しい事をする訳がない。千貫だろうと結論づけて、やけに重厚な机に向かっている男をぼんやりと見詰めた。自分の体温であたたまった毛布は手放しがたく、もういっそ一つになれたらいいのにと寝惚けたまま思う。毛布にくるまったまま、時計を探して視線を巡らせる。
光量の少ない室内に苦労しながらも、どうにか発見した時計は短針で5の文字を指していた。根拠はないが夕方だと断じて、目覚めた時が一日の始まりでなくてよかった、と安堵する。安堵してから、もしかしたら朝方なのではないか、と思い当たった。だとしたら、どうしよう。夜は眠っていても非難されないが、日中に眠っていると怠惰だ不精だと眉をひそめられる。しかしひそめられるだけで取り立てて実害を被る訳でもないから、別にいいかと再び目を閉じた。
そんな脳内での一人遊びなど気にも留めず、阿門が小さな声で呟いた。根拠はないが、もしかしたら彼は静寂が破壊される事を恐れているのかも知れない。
「起きたか」
「いや、まだ寝てる」
「起きろ」
「やだ」
「部屋に戻れ」
「なんで」
クッションに頬を寄せながら、落ちてくる声に声を返す。まるで会話のようだと、胸中で笑った。阿門は皆守を見ていない。皆守も阿門を見ていない。互いの心など推し量る術もなく、そもそもこの空虚な心に推し量るべき何かが存在しているのかも疑わしい。そんな空虚な声が行ったり来たりしただけで、会話のようだと思うなんて滑稽だ。
表面には出していないつもりだったが、阿門は「何を笑っている」と、やはり独り言のように呟いた。
「おかしいから笑ってるんだ」
「何がおかしい」
「さあ、なんだか分からんが、おかしいんだ」
「そうか」
「俺の頭かもな」
「お前は正常だ」
「へえ?」
「お前は狂ってなどいない」
「どうしてそう思う?」
皆守にしては珍しく、答えを欲した問いだった。しかし望んでいた言葉は返らず、もう何度目か絶望する。馴染んでしまった諦観が、ゆっくりと精神に溶け込んでゆく。
不意に閃いたのは、あの《転校生》の顔だった。なんでどうしてと子供のように口にして、禁忌も常識すらも嘲笑う男。明確な解答がなければ納得せず、納得しなければ決して従わない。まるで論理的に生きているような顔をして、本当に必要な疑問は見ないふりで矛盾すら黙殺する。どうして彼に、あのような能力が備わっているのだろう。
「気持ち悪いな」
「どうした?」
「ざわざわするんだ」
「何が」
「落ち着かない」
「ほう」
「死ねばいいのに」
「そうだな」
律儀に返る空虚な相槌も、皆守の欲するものではなかった。思い出したら急に気になるのも、不思議な彼の能力の一端なのだろうか。たぶん関係ないだろうとは思ったが、不快な気分になったのは彼の所為にしてしまおうと、皆守は侵された精神を取り戻す努力をやめた。
「あいつ、やばいな」
「誰だ?」
「あの《転校生》」
「そうか?」
「うん、絶対やばい」
「それほどの強敵にも思えんがな」
「いや、気をつけろ」
漠然とした、忠告にもならない言葉だけを落として、皆守は頭まで毛布を引き上げた。しかしそうすると爪先が毛布からはみ出してしまったので、しばし色んな箇所を引っ張って試行錯誤してみたが、どうやっても体の全てを覆うのは不可能だったので諦めた。あまねく平等に分配されるなんて、きっと有り得ないのだろう。頭が毛布を得れば、爪先がそれを失う。毛布には限りがあるのだから、それも当然だ。嘆くほどの事ではない。
「あいつ、変な能力があるんだ」
「ほう」
「なんか、よく分からないんだが」
青い目がじっと自分を見詰めているのを感じたが、皆守は説明の為ではなく、不定形のざわめきに明確な形を与えようと言葉を探した。
まず、あの目がおかしい。鋭いナイフのように、その視線は皮膚に触れると戦慄をもたらす。
手も、どこか普通ではない。服の上から軽く肩に触れるだけで、灼熱に触れたように錯覚する。しかし驚いて振り払うと、まるで何か重大な物を取り落としてしまったかのような後悔が胸に押し寄せるのだ。感触が長く残るのも不快だった。
声も変だ。彼が誰かの名を呼ぶ度に、心臓が締め付けられる。ひそやかに低く囁く時も、鋭く叫ぶ時も、その声は耳にすべり込んで心に落ちて、消えない染みになる。あの声で呼ばれるだけで気が狂いそうになった。
その背中を見ていると、訳も分からず叫びたくなる。それなのに、彼が振り向いてこちらを見詰めると何も言えなくなってしまう。顔が見えないと不安になる。でもいざ彼を前にすると、正面から顔を見るのも苦しくなる。
時に途切れがちになる小さな声で、皆守は薄闇に言葉を落とす。その声を聞きながら、阿門は肘をついていた机を両手で持ち上げてひっくり返したい衝動に襲われた。だが表面だけは先程と変わらず、冷く静かに音を立てぬよう額に手を当てる。
皆守はまだ語っている。ソファに寝転がったまま、毛布の端をもてあそびながら、止め処なく湧き上がる記憶の映像を見詰めて、それを言葉にしている。その皆守の姿を視界に入れたら間違いなく殴りたくなるだろうと考え、阿門は視線を上げないよう留意しながら手元の書類に意識を集中させた。
それは、奴の能力ではなくお前に問題があるのではないか。思ったが、阿門は口を噤んだ。皆守はまだ語っている。自分がどれほどあの男に惹かれているのかを、つたない言葉で、子供が蟻の行列に見入るように熱心に語っている。
そうして数分後、やっと語り尽くしたのか、顔を上げて阿門を見た。阿門は、ただ純粋に希望を告げた。こんなにも一心に何かを伝えようと思ったのは、もしかしたら初めてかも知れない。それほどまでに真直ぐに、ただ希望だけを簡潔に告げた。
「帰れ」
まるで傷ついたような表情で顔を上げた皆守に、与えられる言葉はもうどこにも見当たらなかった。
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