今夜もどうにか逃げ切った。夢から覚め、皆守は安堵の溜息をついた。
カーテンの向こうでは、夜が世界を覆っているようだ。室内に射し込む月光をぼんやりと見詰めながら、皆守は夢の残骸が脳の奥の方で揺れるのを見ていた。
もう何度も見た夢だ。薄暗い地下道、硝煙の匂い、調子外れな歌声。何事も為さず、ただ息をしているだけの自分。その隣で笑う、闇に病んだ《宝探し屋》。靴底が硬い石を踏んだ感触さえも、まだ半分ほど夢の中にいる皆守には容易に再生できた。鉄を抱いて幸福そうに微笑む男の、その表情すらも。
無為な追憶をやめて、冷たい床に足を下ろす。その直後、皆守は思わずビクリと肩を震わせた。腰の辺りでわだかまっている存在に、漸く気付いたのだ。どうして今まで気付かなかったのかと自分を責めたくなったが、それよりも皆守は行動を起こす事を選択した。あらゆる物事に消極的だった自分を思って一瞬だけ不思議な気持ちになったが、深くは考えず踵を振り下ろす。
予想どおり無様な声が上がった。皆守のセーターを握り締めたまま口中で何事か呟き、開こうとしない目蓋をこすり、不機嫌そうな表情で皆守を見上げ、如何にも不本意そうな仕草で掴んだセーターを自分の胸に引き寄せる。引かれて伸びた愛用の部屋着とそれに懐く男の顔を見下ろし、皆守は再び踵を振り上げた。ほぼ同時に、死んだように突っ伏していた体が跳ね起きる。死後硬直のように握り締められていた手もほどけた。
落下してきた踵を交差させた腕で受け止め、葉佩が呆然と、やけに常識的な言葉を吐き出す。
「・・・おはよう」
「おはよう、そしておやすみ。永遠にな」
子守唄でも歌うような声でそう告げて、皆守は殺意を行動に移した。
今の本気だったよな、と確認する葉佩を床に蹴り落とし、皆守はアロマに火を点けた。ああ本気だったさ、と無言で答える。
死んで欲しいと心から思うのに、この体は何故その意思に背くのだ。頚椎をへし折り、頭蓋を砕き、背骨を破壊する、たったそれだけの事を為し得ぬのだ。社会的な良識など、《墓》で生まれたこの心は持っていないのに。
「皆守ってさぁ、もうちょっとためらった方がいいと思う」
「心配するな、阿門が揉み消してくれる」
「何が心配って、お前の適応能力が心配だ」
「気にするな、俺は卒業する前に死ぬから」
「だから!適応しすぎだろ!」
うるさいと声に出す代わりに爪先で葉佩の頭を小突くと、無造作に足首を取られた。反射的に引こうとしたが、それを上回る力で固定される。離せと言う代わりに軽く抵抗してみても、完全に抱き込まれた足は簡単には取り戻せない。面倒になったので、皆守は足を葉佩に預けたままベッドに横たわった。
預けられた素足を観察するように眺めながら、葉佩が独り言のように呟く。
「お前、死ぬの?」
「誰だっていつか死ぬ」
「いや、そんな一般論じゃなくってさ」
「お前だってそのうち死ぬだろ」
「俺は死なないよ」
「《宝探し屋》だから?」
「それもあるね」
「他にもあるのか」
「あるよ、教えないけど」
どうせ聞いても理解はできないだろう。そう考えて、皆守は追求をやめた。《宝探し屋》だから、という言葉も、皆守は理解していない。或いは、葉佩自身も理解していないのかも知れない。そうだといい。意味など存在しなければいい。無意味な行為、無意味な言葉、無意味な生、無意味な死。そう思えば、やがて来る朝にも耐えられるような気がする。意味などないから生きてゆけるのだ。本当は意味があったなんて、そんなの酷すぎる。だから、無意味な方がいい。
唯一にして最強の武器を掌握されたまま、皆守は目を閉じた。足首に触れていたぬくもりが離れてゆく。
不意に抽斗を開く音が聞こえた。皆守はその中に何が入っていたのか思い出そうとして、思い出せなかったので諦めた。部屋で勉強するような趣味は持ち合わせてないので、基本的に教科書は鞄に入れっぱなしにしてある。使用頻度の高い教科書は、教室の机に常備している。そうしておけば忘れ物の心配もない。案の定、あからさまに落胆したような溜息が聞こえてきた。
「お前ってさぁ、学生失格じゃね?」
「いや、一応まだ辛うじて在学中だが」
「電池あったんだけど、これ使える?」
「さあ」
「あ、使える。貰っとくね」
「おう」
「ほんっと、探索し甲斐のない部屋だな」
「学生寮に何を期待してるんだ」
「いやまあ、縄文土器とか出てきてもリアクションに困るけど」
「分かった。今度どこかで仕入れておく」
「お前ほんとに18歳男子かよ」
「縄文土器と18歳となんの関係が」
「土偶ってエロいよね」
「・・・分からん」
「マジで?それ可哀想だな」
「いや、明らかにお前の方が可哀想だ」
「あとで持ってきてやるよ。お前も早く目覚めろ」
「むしろそれに関しては永眠したい」
「永眠とか言うなよ」
唐突に真顔になった葉佩が振り向いた。枕に頭を乗せたまま喋っていた皆守に、音を立てずに歩み寄る。そのまま毛布を引っ張ろうとしたので、近付いた額に拳をぶつけ、怯んだ隙に腹にも爪先を入れておいた。それは攻撃ではなく、単なる意思表示でしかない。フル装備の相手に素足で本気の蹴りを入れても、こちらが痛い目を見るのはもう分かっている。それなのに何故か葉佩は動きを止め、押す力に逆らわず距離を取った。困ったように笑い、床に座ってベッドに寄りかかる。その重みで、ベッドが少しだけ軋んだ。予想以上に大きな音がして、ぎくりと皆守の心臓が跳ねる。
無意識にひそめた声で会話を交わしていたのだと、今更になって気付いた。大半の人間が眠る時間に、正体不明の《宝探し屋》と言葉を交わしている。何故だか禁忌を犯しているような気分になった。
葉佩の頬から耳の下にかけて、小さな擦過傷が見える。米神には暗視ゴーグルの跡が付いていた。手を伸ばそうとして、寸でのところで思い止まる。何をするつもりだったんだ、俺の左手。
封じ込めるように手を毛布の中に入れ、睡魔が降りてくるのを待つ。しかしその希望は叶わず、降りてきたのは傷だらけの手だった。頬を滑り落ちて首筋を撫で、その場でためらうように動きを止め、頚動脈の上を軽く押す。息苦しいほどの力ではなかったのでそれにも反応せずにいると、密やかな声が耳元で「みなかみ」と呼んだ。それがくすぐったくて、少しだけ唇が緩む。やめろと言う代わりに葉佩の名を囁くと、手がビクリと震えて離れていった。
何かを恐れるような声音で、起きてる?と問われる。答えずにいたら、また手が触れた。
寝言?ほんとに寝てる?実は起きてんだろ?手が頬を撫でて、目蓋を通り、米神の辺りをさまよい、耳をなぞる。髪先をもてあそび、頬に戻ってきた指先が、唇に到達した。何をする気なんだこの手は。疑問がゆらりと浮上したが、浅い眠りの入り口でたゆたう意識を引き戻す理由にはならなかった。
唐突に、口の中に指が侵入した。奥まで差し入れられ、えづきかけた喉が反射的に罵倒を吐き出す。
「おいこら変態!何してやがる!」
「やっぱ起きてんじゃねぇか!」
「口ん中に指突っ込まれりゃ寝てても起きる!」
「そんなエロい事してねぇよ!」
「人が寝てると思って好き放題しやがって」
「してねぇってば!言い回しがエロいよお前!」
「って言いながらシーツで拭くな!」
「だって涎ついた」
「うるせぇ寝かせろ俺は眠いんだ!」
「起きてただろ!ちくしょー期待させやがって!」
「何を期待してやがったんだ」
「寝言で『はばき』って言わないかなーって」
面倒臭くなったので、皆守は葉佩の襟を掴んで窓から蹴り出した。見事に着地したのを確認し、窓を閉めてカーテンも閉めてベッドに突っ伏して、鍵は閉め忘れた事にして目を閉じる。
毛布から微かに硝煙の匂いがする。まだ違和感の残る喉で唾液を飲むと、まるであの無遠慮な男が体内にまで這入り込んだような錯覚に陥った。
眠りたいのだが、いつあの男が戻ってくるか分からないので眠れない。もしも寝入ってる時に侵入されて寝言を聞かれてしまったら、と考えると、遠くなった眠りが更に遥か彼方にいってしまった。
夜毎あいつの夢を見ているなんて、しかもそれが悪夢ではないなんて、知られたらきっともう逃げられない。
まだ逃げられるつもりでいる皆守にとって、それは最大の恐怖だった。
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