如何様は、露見なければ良い。村雨はそう考えていた。如何様をして勝利を得るには、相応の知識と技術を必要とする。そもそも如何様は、現行を押さえなければ指摘は難しい。終わったあとで「如何様だ」と吠えるのは、負け犬の常套句でもある。勝負師が勝負に誇りを賭けるように、如何様師は如何様に己を賭けているのだ。
だから村雨は、その男の指にナイフが落とされるのを黙って見ていた。
彼は勝負に負けた。相手に勝利を奪われるという意味ではなく、己の腕が未熟だったから如何様を見破られた。そして制裁を受けた。それだけの事だ。この街では珍しくもない。
がたがたと音を立てる据わりの悪いテーブルに、どす黒い血の塊が貼り付く。村雨は手の中の札をもてあそびながら、窓の外に視線を投げた。特に意味はないが、一枚だけ札を抜いてみる。暇な時の手慰み、癖のようなものだ。視線を動かすのが億劫だったので、目の高さまで持ち上げて確認する。
桜。
そういえば、今年の桜は見事だった。薄ら寒くなるほどに。
桜の樹の下には、と語る有名な一説が何故に有名なのか。あのおぞましくも閃くような言葉が、どうしてこうも人の心に残るのか。そんなものを引証とするまでもなく、美しいものはそれだけで信じられない。
熱帯夜の空気を嗅ぎながら幻想の春を思うが、すぐにそれも霧散した。
血の匂いと怒号と煙が充満する部屋を出て、村雨は一つ息をつく。ほぼ同時に、通りから罵声が聞こえてきた。今まさに足を踏み出そうとしていた方向だ。しかし進路を変える気にもなれず、声のする方へと歩を進める。
角を曲がると、予想どおりの光景が眼前に広がっていた。一人の男を、複数の男たちが取り囲んでいる。そのまま通過しようとしていた足を止めたのは、その男があまりに静かだったからだ。
その男を見た瞬間、村雨は奇妙な感覚に襲われた。夜桜が一斉にざわめくような、途方もないものに抱く根源的な恐怖。嵐の予感にも似た昂揚感。背筋がぞわりと総毛だった。喧騒の絶えないこの街で、その佇まいはあまりにも場違いだった。異相にすら見えた。
よく見れば平凡な顔立ちをしているのだが、まず立ち姿が違う。拡散すべき静寂が凝固されている。感じた違和は不快とよく似ていたが、冷水を頭から被ったような心地にもなった。本能は危険だと判断する温度の水なのだが、村雨はあの心臓を絞られるような感覚が嫌いではない。
立ち止まった村雨を見て、複数の男たちが口々に何事か言葉を発する。どうやら顔見知りだったらしいが、村雨に彼らを判別する能力は残されていなかった。自分に向けて発せられる声にも反応せず、意識の全てで男を見詰める。
何故か不意に、今も眠っている友人の事を思い出した。彼の妹の事を思い出した。皮肉屋の相棒と、それに侍る式神を思い出した。つまり、村雨は自分が戦士だった事を思い出した。
無意識に札を捌き、視線は立ち去ろうとする男の背中に固定したまま五枚を抜き取る。目視の必要はない。ためらわず、氣を送る。過たず解放された狂幻の霊力を、ただ一点に集中させた。
一閃。光が狂幻を斬り裂く。
男が振り向き、その黒い瞳が見えた。その瞳は、ただ純粋なる闇の色をしていた。人工の光りに彩られた街を棲処とする村雨は、純粋な闇など知らない。夜とは闇ではなく、ただ陰が多くなるだけの時間だった。知らないはずのその闇に、奇妙な高揚感が押し寄せる。
散らされた札の呪を、即座に結びなおす。しかし次手は引かず、攻撃する意思のみを有して男を視線で貫いた。闇色の瞳にゆらりと影が落ちるのを、どこか懐かしいような気持ちでじっと見据える。
闇色の男は、押し黙ったまま立ち尽くしている。言葉を発するべきか否か、村雨は迷っていた。
物陰からこちらを窺っているのは、隙あらば村雨をこの街から追放しようと画策しているような連中だ。縄張りを荒らされて、その男と対峙していながら何事も為さずに見送ったなどと、吹聴されれば奴らは間違いなく嵩にかかるだろう。少年たちのごっこ遊びのような勢力争いに興味はないが、優位に立ったと勘違いされるのも癪に障る。
自分に言い訳するようにそう考えて、音もなく踵を返した男の背中に、村雨はせめて軽く聞こえるよう留意して声を投げた。
「兄さん、ここいらじゃ見ねぇ顔だな」
肩越しに振り向いた顔は、どう好意的に表現しても殺意を含んでいた。まさに射るが如き炯眼。虫の居所が悪くとも、ここまで攻撃的な顔をする人間も少ないのではないか。
ぞくりと腹の辺りが冷たくなったのはどうにか押し隠して、札を仕舞って歩み寄る。最大限の警戒をしつつも表面には出さず、気安い仕草に見えているよう願いながら男の傍まで来た、その瞬間。
黄金の氣が炸裂した。
ほぼ同時に、背後で足音が聞こえた。こちらを窺っていた少年たちが、身の危険を察して走り去った音だろう。これほどの危機を察知できないような愚鈍な人間ならば、この街では生きられない。脳の片隅でそんな事を考えながら、村雨は眼前の男を見詰めた。正確には、目を離せなかったので見詰める事しかできなかった。
視線を逸らしたその瞬間に、彼は自分を殺すだろう。そんな莫迦なと思いつつ、背中を冷たい汗が伝う。その想像が真実でないという確証は、どこにもない。
動けない村雨を一瞥し、男は再び踵を返した。その時の感情を、どう呼ぶべきか村雨は判じ得なかった。本能は声高に危険を叫び、全身がこの場から逃げ出したいと主張している。それなのに、村雨はそれが罪悪であると感じていた。
この男を見捨てるのか。そんな問いが、どこからともなく浮かんでは意識の浜に漂着する。意味が分からない。むしろ助けて欲しいのはこちらの方だ。自嘲ぎみに唇を歪めようとしたら、頬が引き攣った。心臓が圧迫される。
男が闇に紛れるより早く、村雨はその背中に走り寄った。追いついた肩を掴もうとして、寸前で思いとどまる。触れていたら、おそらく死んでいただろう。そんな予感にも、もう冷笑する気持ちは起こらなかった。この男は異質なのだと過たず理解し、またそれは孤独であるという事実にまで思い至り、悲哀すら覚えた。
複雑な瞳で自分を追う村雨に、男はさも不愉快そうな顔で視線を流す。黒い瞳は、雪原のように静かだった。その静寂を破るのが、まるで禁忌のように思える。禁忌を犯すのは、どうしてこうも愉悦を伴うのか。
「あんた、女に振られたみてぇな顔してるぜ?」
「・・・」
「ああ、違うな。そうか分かった、死んだのか」
言い終える前に、凄絶な氣をまとって刃のような手が空を斬る。それは予想していた動作だったが、その速度は予想外だった。つまり、速すぎて軌道を追えなかった。米神をかすめて背後のアスファルトを抉った氣を、少し遅れて認識する。つうと頬を伝う血液が、汗と混じって地に落ちた。
自分が生きているのは、眼前のこの男が自制したからだ。ゆっくりと、現実が心に染み入ってくる。村雨の酷く悪辣な言い様に激昂しつつも、彼は殺傷を本意とせず、冷静に自分を律したのだ。
悪かったよと、村雨は本心から言った。怒らせて隙を突くなどと、本気で通用するとは思っていなかった。ただ、その傷口に触れてみたかっただけだ。下賎な好奇心だ。村雨はそれを悔い、正直に詫びた。自分らしからぬと脳裡でちらりと思わないでもなかったが、今まで意識と無意識で形作ってきた自分の殻を破るより、この男に軽蔑される方が何故か怖かった。
見ず知らずの通りすがりに、どうしてこんなにも。村雨はそんな疑問を転がしながら、絶えず発せられる氣に同調してゆく自分に気付く。
ふと思い出したのは、昨日の夕立だった。一天にわかに掻き曇り、やがて落ちてきた自棄のような雨粒と轟音は、もしかしたらこの男がむせび泣く声だったのかも知れない。
立ち去ろうとする男を引き留め、触れなば斬らんとでも言いたげな双眸に微笑みかける。安い同情などこの男は欲していないと分かってはいるが、どうにも気になった。放っておけないとでもいおうか、なんとも表現しがたく心が引かれるのだ。断崖に危うく立つ人を見るように、手を伸ばしたくなる。突き落としたいのか、助けたいのか、それすらも判ぜられないのだが。
言葉を逸して、しかし自分を見据える瞳から逃れられず、村雨は一枚の札を抜き取った。確認はせず、それを男の眼前に突き出す。
その札がどのような意味を有するのか、決めるのはこの男だ。それを運否天賦というのなら、この男は天なのだろうか。莫迦げていると思いはしたが、なんだか今夜はそんな気分だった。あるいは、ただどうしていいか分からなかっただけなのかも知れない。
男がすっと目を細めた。酷薄な瞳が、冷たく研ぎ澄まされる。熱帯夜に冷風が吹いたような心地がして、ようやく村雨はその男が微笑んだのだと認識した。どうやら賭けには勝ったらしい。安堵して、緊張していた頬が緩む。そうすると、さも不愉快そうに男が眉をしかめた。
男に向けた札を確認する。
目に入ったのは、赤々と咲き誇る牡丹だった。氷のようにこごった男が、炎のように燃え上がる花を見て微笑んだ。桜の美しさは信じられないが、これは信じてもいい。そんな気分になった。
清冽と炎熱の対比、あるいはそれが生み出した小さな微笑に満足して、村雨は札を仕舞って男を見た。尖った視線が睨み返してきたが、先程のような恐怖は感じない。恐怖を一種の快楽とする村雨としては、少々物足りないところだ。だからといって、再び彼を怒らせるほど命知らずではない。
このまま男に背を向けて、当初の予定どおりこの場所を通過するのが、もっとも無難な行動だろう。そう思ったが、それを為すには少しばかり厄介な事があった。離れがたいのである。立ち去るのが惜しいと、そんな感情が空気中の水分とあいまって踏み出そうとする足を絡め取るのだ。
しかし村雨の逡巡など察した素振りもなく、男はふいと視線を移動させて歩き出した。すれ違いざま、男の動作で起こった風が、湿った首筋をさらりと撫でる。
この男がこんなにも心を撲つのは、惨劇を内包しているからだ。得心し、村雨は手の中の桜を中指ではじいた。
それならば、信じられる。彼が汚泥をに身を浸し、酸鼻を糧に立つのなら、美しくても信じられる。
花は美しいのだと、村雨はこの夜に初めて知った。
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