早朝と表現するには少々遅い時刻に、拳ではなく手の平が肩に触れた。硬い手が勢いよく緋勇の肩を叩いたのだ。同時に「よお緋勇!起きてるかー?」という声が聞こえたのだが、衝撃に気を取られていた緋勇の耳は、咄嗟にそれを言語として認識できなかった。呆然とした表情で打たれた部位に手をあてながら、緋勇はその暴力のような触れ方が彼の挨拶なのだと、だいぶ遅れて気が付いた。
「どーした?遅刻するぞ?」
振り返った蓬莱寺が、肩越しに緋勇を見る。一つ頷いて歩き出した緋勇に、怪訝そうに眉を寄せた。
近付く足音は察していた。それがよく知っている気配だという事も、その彼が自分に害意を持っていない事も知っていた緋勇は、特に警戒するでもなく、いつものように軽やかに言葉を落とされるのを待っていた。蓬莱寺の覇気に満ちた声は、いつだって緋勇に心地好く染み込む。
「おい、緋勇?」
「なんだ」
「ん?普通か?」
「俺は至って普通の人間だが」
「それはさておき、いつもどおりだよな?」
「何か違うように見えるのか」
逆に問われ、蓬莱寺が首を傾げる。しかし明確な言葉は見付からなかったようで、すぐに首をもとに戻して「まあいいか」と口中で呟いた。
始業時間が近付いているのだが、隣を歩く蓬莱寺が足を速める気配はない。転校してきたばかりの緋勇が素行不良のレッテルを貼られるのも、特に気にならないようだ。点滅を始めた歩行者用信号を見て、蓬莱寺が律儀に足を止めた。それに倣い、緋勇も立ち止まる。走れば余裕で渡りきれる距離だったのと、蓬莱寺はそもそもルールを軽んじる人間だと思っていたので、その生真面目な行動に少しだけ驚いた。どことなく居心地の悪さを感じて、眉間に力を込める。
信号が変わるのを待ちながら凄まじい形相で押し黙っている緋勇に、蓬莱寺が恐る恐る声をかけた。
「・・・あの、緋勇?」
「なんだ」
「なんだっつーか、なんだよその顔」
「この顔は産まれつきだ」
「いや、あの、すげぇ怖い顔なんだけど」
「だから、産まれつきだ」
「いや、顔っつーか表情」
「怖いのか」
「まあ、触ったら刻まれそうな気がするぐらいには」
「そんな事はしない」
「渡った方が良かったか?」
「道路交通法では渡らない方が正しいな」
「あーうん、まあそーだな」
どうにも巧くかみ合わない会話を、青になった信号が遮った。歩き出した蓬莱寺は、チラチラと横目で緋勇を見ている。少し先に見える次の信号も青だ。それを見た蓬莱寺が少しだけ唇を曲げ、ためらうように歩調を緩めた。真面目な学生ならばそろそろ着席すべき時刻なのだが、蓬莱寺は気にした素振りも見せず殊更ゆったりと歩いている。
彼が触れた肩には、まだ熱と衝撃の余韻が残っていた。痛みというほど強くはなく、嫌な予感によく似た感触で、ただ小さく緋勇の神経を刺激している。その腕を、蓬莱寺が唐突に掴んだ。無意識に手を取って間接を極めようとしてから、それが引き留める動作だったのだと理解して視線を上げる。
視界に入ったのは、如何にも柄の悪そうな少年が三人。どうやら蓬莱寺の顔馴染みのようだ。笑みを浮かべてはいるが、それが友好を表すものではないと容易く想像できた。同じ種類の笑みを唇に貼り付け、蓬莱寺が気安い口調で言葉を発する。それに応える少年達が、会話に参加する権利を放棄してぼけっと立っていた緋勇に視線を向けた。話をまったく聞いていなかった事を詫びるべきか否かで一瞬だけ迷い、緋勇は否を選択した。やはりぼんやりと遅刻の言い訳を考えながら、少しの不快を含めて少年達を見返す。ほぼ同時に、肩にまたしても熱が触れた。
「緋勇だ、憶えとけ。気安く触ると刻まれるぞ」
何故か誇らしげに、蓬莱寺が緋勇の肩に腕を回して言い放った。紹介してくれたらしい。挨拶の一つもしておくべきか否かで数秒だけ迷ったのだが、決断する前に少年達が悪態をつきながら立ち去ってしまった。取り残されたような気分で、間近にある顔を見遣る。蓬莱寺は唇の端で笑っていた。肩にはまだ、熱すぎる体温が密着している。離せと言う代わりに回された手を軽く叩くと、熱い体が名残惜しげに離れていった。
完全に遅刻だな、などと言いながら微塵も気にした様子もなく、蓬莱寺が校舎への道を踏む作業に戻る。それに続くのも忘れ、緋勇は自分の心臓が異常に仕事熱心な理由を考えていた。妙に速い鼓動と、正体不明の破壊衝動。こんな体調では、一時間近くも椅子に座っている事など不可能だ。蓬莱寺が振り向く前に、決断した緋勇が踵を返す。自分を呼ぶ声を背中で聞きながら、逃げるように走った。
龍星脚と見せかけて踵落しを叩き込み、憐れな異形の断末魔を聞く。背後に迫った鳥(仮)に八雲の速さでラッシュを打ち込み、とどめの肘に体重を乗せてもろとも床に突っ伏した。
熱が消えない。
現れた異形の全てを八つ当たり気味に蹴散らし、それでも払拭されない幻の熱に、途方に暮れて目を閉じる。
硬い手の平だった。お調子者の顔をして、どれほどの鍛錬を積んできたのだろう。あの力強くもしなやかな腕は、一朝一夕で得られるものではない。そして、あの目だ。寄る辺など不要とでも言い放つように、真っ直ぐに己を貫く眼差し。自身の意思で形作った矜持を掲げ、得物を誇示するように担ぐ仕草。垣間見える彼の本性は、いつだって緋勇の焦燥にも似た気持ちを駆り立てた。まだ足りない。もっと強く。恐れるように、焦がれるように、緋勇は彼の背を見詰めていた。
この肩に、あの手が、触れたのだ。
浮かんだ言葉にまたしても熱が上がり、虚空に向けて散らすように炎を発した。
害する意思もなく、ただ手の平で触れるという行為に、緋勇は馴染みがなかった。思い出せないほどに遠い記憶ならば存在しているのかも知れないが、形而下に現れる接触の記憶の多くは悪意と慟哭に満ちていた。愛されなかった訳ではない。それは既に確信している。強く優しく温かい手の平も、緋勇は憶えている。だが違う。あの体温は、慈しむ父母の手ではない。もっと挑発的で、暴力的で、攻撃性を刺激するものだ。その感情の名を、緋勇は知らない。
横たえていた身を起こし、服に付着した埃を払う。肩も同じように払おうとして、寸前でその手が止まった。幾分か穏やかになってはいたが、熱は収まらずにくすぶっている。払う事はせず、そっとその肩に触れてみた。心臓が、どうにかなってしまったように騒がしい。
熾き火を吹くように、淀んだ空間に風が起こった。その発信源に視線を走らせ、緋勇は漸く落ち着いてきた心臓が再び弾けたのを自覚した。死にそうだ。
「やっぱり!ここだったか!」
「・・・授業は」
「いきなり消えたと思ったら!こんなとこで遊びやがって!」
「いや、遊んではいない」
「どーせなら俺も誘えよ」
「いや、だから」
「美里が心配してたぞ」
「なんでだ」
「なんでって、それ本気か?」
瞬く間に距離を詰められた。既に彼の得物ならば攻撃が可能な距離だ。そんな緋勇の思考を読んだ訳ではないのだろうが、蓬莱寺が提げていた木刀を肩に担いだ。無意識に緋勇が身構える。それを察し、蓬莱寺が笑った。
「なんだ?やる気かよ」
「それはお前だろう」
「ふーん、そう見えるか?」
「見える」
断言すると、更に笑みが深くなった。嬉しくてたまらないとでも言うように、目を細めて莞爾と微笑む。緋勇の心臓が大きく鳴った。名も知らぬ想いを、彼も抱いている。その確信に、血が沸いた。
蓬莱寺が肩に掛けていた得物を握りなおし、音を立てて空気を斬って見せた。緋勇にはそれで充分だった。鼓動が急かすように音量を上げる。堪えきれず、地を蹴った。受け止めた木刀をへし折るつもりで拳を放つ。その力を無刃の剣で流し、蓬莱寺も激しく地を踏んだ。
「訳分かんねぇ奴だな」
「そうだな、俺もそう思う」
「自覚あるんなら、まあいいか」
「そもそもお前が原因なんだが」
「はあ?」
熱を移した彼のように、ただ触れてみたいと思った。同時に、もしかしたらこの拳を受け止めてくれるのではないか、という期待もあった。それは幼く純粋な欲望だったが、異能にも等しい緋勇の体には、そんな些細な願いすら許されていない。産まれた時から人であった魔人達では到底辿り着けない場所に、緋勇は立っていた。
蓬莱寺が上げた切っ先を誘い、腰を沈める。素直に誘われて下りてきた木刀を左腕で絡め取り、引かれて空いた懐に右拳を叩き込む。その瞬間、緋勇は後悔した。吹き飛んだ蓬莱寺が、起き上がれぬまま喉から奇妙に掠れた声を発する。あんなにも昂揚していた精神が、音を立てるような勢いで冷えきった。名を呼ぼうとしたが、声が出ない。立ち竦んだ緋勇の耳に、喘ぐような声が、それでもはっきりと届いた。
「てめぇ、手加減しただろ」
「・・・いや」
「嘘つけ、ぜってぇした」
「本気だった」
「お前が本気だったら俺は死んでる」
それもそうだな、と思い、その事実に打ちひしがれた。この汚れた手は、彼に触れる事も叶わないのか。彼の手はこんなにも緋勇を昂揚させるのに、緋勇の手は彼に痛みしか与えない。消えない熱が本能に近しい悦びだったのだと、漸く緋勇は気付いた。床でうずくまった蓬莱寺を見下ろす。そうしてから、思い立って踵を返した。その背中に、蓬莱寺が慌てて叫ぶ。
「おい待て緋勇!放置かよ!」
「美里を呼んでくる」
「呼ぶな」
「立てもしない奴が何を言う」
「っ野郎・・・」
低く呻き、蓬莱寺が肘を立てて上体を起こす。その動作を冷静に見詰めながら、人体に重大な損傷はないと確信し、緋勇が胸を撫で下ろした。咄嗟に後方に跳んで衝撃を逃がしたのだろう。大きく吹き飛んだのも、恐らくその動作が一因だ。
ゆっくりと身を起こし、顔を上げた蓬莱寺が「緋勇」と短く呼ぶ。視線を返すと、人差し指を二回ほど折り曲げる仕草を見せた。「こっちへ来い」のジェスチャーだ。やはり立ち上がるには手を借りる必要があるのか、と、彼に触れる事を許された安堵を滲ませて歩み寄る。まだ膝を折っている蓬莱寺に手を差し出すと、熱い手の平が腕を引いた。心臓が締め付けられる。引く力に逆らわず、身を低くした。
顔面に頭突きを食らった。
「俺は参ったなんて言ってねぇぞ」
「・・・どう見ても参ってただろう」
勝ち誇ったような表情で歯を剥いた蓬莱寺に、顔を押さえながらどうにか言葉を返す。
まだ掴まれていた腕が、今度こそ助けを求めて引かれた。たったいま自分を殴り倒した手に、蓬莱寺がためらいもせず身を預ける。冷えきったと思った心臓が、恐ろしいほど大きく脈打った。触れて、壊してしまったら。そんな恐怖が胸を刺す。無遠慮に体重をかけてくる蓬莱寺は、そんな緋勇の懊悩などには一切の関心を払わず、かすれた声で唸ったり「吐きそう」などと呟いてみたり、何やらご機嫌な様子だ。
傾いだ体を支えるべきか否かで迷い、暫く逡巡してからそっと肩に触れてみた。熱い、と、声には出さずに心で思う。肩を掴む蓬莱寺の指が、僅かに力を強めた。硬くしなやかな肢体が、簡単には壊れやしないと告げているようで、或いは熱く鮮烈な氣が、次こそは負けないと叫んでいるようで、それが幻覚である事など理解していたが、緋勇は少しだけ、ほんの少しだけ微笑んだ。
肩にもたれていた蓬莱寺が動きを止め、呼吸までも止めた。訝しんですぐ横にあった瞳を覗きこむと、緋勇を突き飛ばす勢いで身を離した。反動で派手に転倒し、何が起きたのか把握できなかった緋勇を呆然と見上げる。
「・・・どうした?」
「え、あ、いや、ええと」
「やはり美里を」
「違う!美里はいいから!」
反則だちくしょーなどと小さく呟きつつ、紅潮した頬を隠すように右手で顔を覆った。手は借りずにのろのろと立ち上がり、顔を背けたまま地上へと続く階段に足をかける。覚束無い足取りに不安になって、しかし手を差し伸べる事は躊躇して、緋勇はどうする事もできずに、少しだけ前傾した背中を見詰めた。
いつか、彼に負ける時が来るかも知れない。
もう既に完敗している事など、認めはしないが。
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