その人間は、初めは一人でこの場所に降りて来た。少々騒がしくなったのには閉口したが、それでも彼はこの場所に敬意を払って行動している。それを認めた私は、その人間を許容した。いつものように、彼もやがては此処の一部になるのだろう。それまでは、この憐れな人間が生きる様を見るのも悪くない。深くて暗いこの場所を、彼は銃火で照らし出す。硝煙の匂いも嫌いではなかった。私が仲間に変わり者と呼ばれる所以だ。
木々が葉を落し始めた頃、彼は一人ではなくなっていた。不思議な足音を立てる二人目の男は、既にこの場所と同化しているように見えた。牢獄に繋がれ、空を見上げては絶望する囚人。そんな人間が、此処には何人か存在している。だがその男は、まるで侵入者のように振舞った。硝煙の男と共に降りて来て、彼が扉を開くのを奇妙な目で見ている。花の香りは好きではなかったが、不思議なリズムを刻むその足音は心地好かった。
硝煙の男が、以前は見せなかった躊躇いを見せるようになった。それは決まって、芳香の男が同行している時に見られる。私に人間の言葉は理解できないが、彼等が友人ではない事は理解した。硝煙が芳香を見る目は、そんな穏やかなものではない。そして芳香もまた、硝煙に物騒な目を向けていた。此処で決闘でもするつもりなのだろうか。傍迷惑な。
ある夜、硝煙の男が叫んでいた。言葉はやはり理解できないが、彼が酷く嘆いている事は分かる。いつもは芳香を纏う男が、血の匂いを発していた。大した怪我ではなさそうだが、硝煙はまるで家族を失ったように狼狽している。芳香の血と同じ匂いが、横たわる異形の爪からも感じられた。その異形も、既に動く術を失っている。状況を察した私は、初めて見た硝煙の泣き顔から目を逸らした。こんなに無様な人間だったのか。失望した。もっと気高く、揺るぎない人間だと思っていた。
「うるさい・・・耳元で喚くな」
「お前は存在が煩いんだよ!」
「意味が分からん。とにかく離れろ」
「だいたいお前は鈍いんだよ!色々と!」
「分かったから怪我してるところを掴むな!」
「あ、お、おう、悪い」
硝煙が芳香から身を離す。芳香が肩を押さえて立ち上がった。苛立たしげに煙を吐き出している。彼を傷付けた異形は、数秒前に消えていた。硝煙の男が仕留めた事は疑うべくもない。彼がいつも着ている黒い服は、大きく裂けて傷口を覗かせている。斬られたというよりも、引っ掻かれたのだろう。派手な出血だが傷は浅い。それを硝煙が、実に不愉快そうに見詰めていた。
「うわ、血塗れ」
「嬉しそうに言うな」
「ったく、明日の授業どーすんだよ」
「お前がぼけっとしてるからだ」
「は?何それ俺の所為?」
「・・・何でもない」
どうやら芳香は、硝煙を庇ったらしい。硝煙は、一人だった頃とは戦い方が違っている。前後左右の全てに向けて放っていた銃弾は、今では前にしか撃ち出されない。時々後ろにも向けているが、慌てて照準を変更している。誰かと共にいる事に慣れていないのは明白だ。そうまでして一緒にいる事もないだろうとは思ったが、人間は群れで行動する生き物だから、それも仕様がないのかも知れない。彼等も私も、本能とかいう訳の分からないものに支配されている。意思など幻想だ。そんなものは存在しない。それを嘆いた友人は、もう遠くへ行ってしまった。彼女は、本能に代わる生理を見出せたのだろうか。再び会う日が来たら、是非とも訊ねてみたい。ああそれとも、再会の喜びにそんな事はどうでも良くなってしまうだろうか。思い出してしまった感傷を紛らわす為、私はもう少しだけ彼等を見ている事にした。
「止血ぐらいしろよ」
「もう止まってないか?」
「だばだば出てる」
「マジでか。道理で目が霞む訳だ」
「けっこー余裕だね」
硝煙が慣れた手付きで包帯を巻く。芳香は、煙管に火を移していた。目を逸らす為の行動だと容易に知れたが、どうして目を逸らしたいのかは分からない。礼の一つも言うべき状況ではないか。否、それは庇われた硝煙か。気付かない振りをしたいらしいが、私の目には動揺しているようにしか見えない。巻き終わった包帯に、まるで信仰の対象に触れるように手を当てた。信仰とは良いものだ。大きな何かに生かされているという幻は、生き物を美しいもののように錯覚させる。世界に必要だから存在を許されているという幻を信じて、全てのものは生きている。愚かだが、嫌いではない。
「お前、もう帰れよ」
「ん、そろそろ戻るか」
「じゃなくって、お前が、もう帰れ。俺はまだ潜る」
「・・・優しいな、気持ち悪いぞ」
「邪魔だっつってんだよ!」
「あ、カレー食べたい」
「聞けよ!ほらカレーあげるから!」
「俺はお前のそういうところが好きだ」
硝煙が、唐突に壁に向かって走り出した。勢い良く壁に手を付き、同時に額もぶつける。そのまま額を壁に擦りつけて何事か呟いた。時々拳で壁を叩き、爪を立てる。苦悩しているように見えるが、真相は不明だ。根拠は無いが、喜んでいるのかも知れない。放置された芳香が、少しだけ口の端を上げた。わざとか。
「騙されるな俺。違うぞ俺。落ち着け俺。あれだ。カレーが好きって言ったんだ。いつもどおりだ。うん大丈夫、心配するな。分かってるオッケー俺は冷静だ。そうかそれならいいんだ。心配性だなぁ俺。いやあお前ほどじゃねぇよ」
「・・・楽しいか?」
「すっげぇ悲しい。でももっと悲しい事があったから平気。うん俺は平気。心配してくれてありがとう。その優しさできっと明日も乗り切れるよ。でも俺は平気だから、そんなに気ぃ遣わなくっていいよ。お前はお前の好きなように生きてけばいいよ。それが俺の望みなんだ。知らなかった?」
「・・・知らなかった。じゃあ遠慮しない」
「遠慮はしとけ。人として」
壁と床の狭間にうずくまり、硝煙はまだ何か言っている。その背中に、芳香がゆっくりと近付いた。笑みを堪えようとして失敗している。悪い笑顔だ。接近を察知した硝煙は、しかし逃げ道を発見できないでいる。追い詰められ、恐怖を湛えた瞳で芳香を見上げた。足音が響く度、その肩が小さく震える。そんなに嫌なら、いつも異形にするように弾丸を放てばいいものを。
「どうした?」
「いや、あのね、その表情がすっげぇ怖いんだけど」
「心外だ。俺はお前を傷付けたりしない」
「え、えええっとぉ、気分は満身創痍なんですが」
「そうか、可哀想にな」
「あ、あのぉ・・・何でそんなに楽しそうなんですか?」
「お前の反応が楽しいから」
「・・・きもい」
「その反応は楽しくないな」
「良かったぁ!」
硝煙は触れようとする芳香の手を躱し、振り払い、必死の抵抗を見せていた。素晴らしい動体視力だ。私と同等か、悔しいがそれ以上だ。人間にしておくのは勿体無い。触れる事は諦めた芳香が、視線を落として甘い溜息を吐く。その隙を逃さず、硝煙が弾かれたように動いた。腰に挿していたナイフを抜き、芳香の首に当てる。一瞬だけ目を見開いた芳香は、しかしすぐに表情を和らげた。
「出来るのか?お前に」
「でっでででで出来るよ!」
「泣きそうになってるぞ」
「おうよ!もう泣きたいよ!」
「泣いてもいいんだぜ?」
「お前が泣け!」
「俺はもう泣いた」
硝煙が黙った。ナイフを握る手が震えている。分かり易い葛藤を見せる硝煙に、芳香が目を細めた。満足気な表情で、本当に泣き出す寸前の硝煙を見下ろした。刃は未だ急所に当てられている。それでなくとも血を流した芳香が首を斬られれば、間違いなく致命傷を負うだろう。彼は死を恐れないのか。本能などという正体不明のものには支配されていないのか。それとも、知っているのだろうか。硝煙が一人で此処にいる時、膝を抱えて泣いている事を。闇に浮かぶ幻覚に、心底から恐怖している事を。そしてその幻が自分と同じ姿をしている事を、恐らく知っているのだ。それならば、震える刃を恐れる理由は無い。
「・・・泣いたんだぁ」
「おう、お前の所為でな」
「うっわあ・・・ごめん責任は取るよ」
「どうするつもりだ」
「二度とお前には顔見せない」
「言うと思ったぜ」
芳香が靴底を床に擦り付ける。硝煙の体が、瞬時に戦闘態勢に移行した。ナイフを投げ捨て、床を転がりながら背負っていたアサルトライフルを構える。滑らかな動作で正確に照準を合わせ、何故かピタリと動きを止めた。銃口を見詰める芳香は、先程の微笑が嘘のように冷たい目をしている。今度は硝煙が笑った。
「出来ない、なんて、《宝探し屋》は言わないよ」
「そうか、俺を殺すのか」
「殺すよ。そんで、そのあと泣く。泣き喚いて後悔して、死にたくなる。でもきっと生きる」
「辛そうだな」
「辛いよ。死ぬほど辛いと思うよ。でも死なない。だって俺は」
「《宝探し屋》だから?」
「そう、《宝探し屋》だから。秘宝をゲットするまで死なない」
「俺がお前の秘宝でした的な落ちは?」
「無い」
硝煙が指を絞る。銃弾が轟音と共に吐き出された。この音は嫌いだが、そのあとの静寂は悪くないと思っている。価値を確かめるには、それを壊すのが手っ取り早い。不義を知らぬ者に、義を説いても理解できないのと同じ事だ。失って、嘆いて、そうして知った価値こそが本物だ。世界という幻を生み出す脳は、対比でしか物事を捉えられないのだ。唯一絶対など、夢想以外の何物でもない。
銃声がやんだ。しかし、私の好む静寂は訪れなかった。床を踏む音が連続して響き、同時に不快な鉄音。全く、うんざりだ。最近の人間は、銃弾すら避けられるらしい。こうなっては、当分の間この喧しい状態が続く。銃声と火花が飛び交うのを尻目に、私はその場を離れた。
毎夜飽きもせず、よくもまあ同じ事を繰り返せるものだ。そろそろ新しい寝床を探さなければ。困ったものだが仕方ない。終の棲家など私には必要ないのが、せめてもの救いだ。安心しろ、奪われたなどとは思わないから。流れ行くのが世の摂理だ。私もまた、やがて消え行く存在だ。彼等も、いつか死ぬのだろう。それは明日かも知れない。精々喧しく足掻くがいいさ。それが生きるという事なのだから。
ところで素朴な疑問なのだが、彼等は何がしたいのだろう。
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