灯りを消し、布団に入る。目を閉じると、いつものように過去の記憶が浮かび上がった。全てを振り切るように、今夜も過たず眠りに落ちる為に歯を食い縛る。
強くなりたいと、緋勇は今でも思っていた。
漸く眠りの入り口が見えた頃、玄関のドアが小さく鳴った。ほぼ無意識に気配を探り、それがよく知っている人物のものだと察する。ノックは三回だけだったが、音が鳴りやんでもその人物はまだドアの前に立っていた。逡巡するように靴底を地面に擦り付ける動作が、静まり返った空間を微かに動揺させる。鋭敏な感覚を持つ緋勇の耳には、その音が確かに聞こえていた。
コツン、と、もう一度だけドアが鳴る。修行が足りない、と自身を罵りながらも、緋勇は布団を跳ね除けて立ち上がった。未熟な自身への苛立ちと、睡眠を阻害された本能的な不快感。もともと威圧的な緋勇の表情は、ドアを開けた時には刃の鋭さをはらんでいた。開いたドアに安堵の表情を浮かべた蓬莱寺が、一瞬後には頬を引き攣らせて一歩だけ後ずさる。だがすぐに気を取り直し、真昼の教室で見せるのと同じ笑顔を作ってみせた。
「わりぃな緋勇、こんな時間に」
「何か用か」
最低音で問われ、蓬莱寺の視線がついと泳ぐ。その胸元で、何かが奇妙な音を立てた。訝しんで目を凝らせば、蓬莱寺は腕に薄汚れた物体を抱えている。眉根を寄せた緋勇に、「さっき其処で拾ったんだけどさ」と、口ごもりながらその物体を両手で持ち上げた。壊れ物を扱うように、どこか恐れを含んだ動作だった。
肉刺だらけの手の平の上では、片目の子猫が震えていた。
「どうして俺の所に」
「いや、なんとなく」
「美里の方が良かったんじゃないのか」
「ん、でもこいつ怪我じゃないみたいだし」
「そうなのか?」
「うん、猫って栄養足りないと目が潰れるんだってさ」
「・・・」
「美里でもこれは治せないだろ」
淡々と語る蓬莱寺を、ただ呆然と見詰めた。彼は、猫を救おうとしているのではない。その死を見届ける為に手を差し伸べたのだ。気付き、緋勇が唇を噛んだ。それは慈悲なのか、それとも他の何かなのか。判じかねて、為す術も見失って責めるように蓬莱寺を見下ろす。その視線を見返す事もせず、蓬莱寺は持参したタオルで小さな体を包み、胡坐を掻いた膝の上に乗せた。僅かに息づく、醜悪ともいえる形相の猫を、まるで慈しむように撫でている。
「あ、そーだ緋勇」
「なんだ」
「そこの袋、中のもん出してくれ」
一瞬だけそれを拒否する理由を探したが、見付からなかったので承諾した。指定されたビニール袋に入っていたのは、缶ビール4本と酎ハイ2本、スナック菓子と柿の種とわらび餅。そして500mlの牛乳パック1本。組み合わせがおかしい、と思ったが口には出さず、緋勇が無言のまま牛乳を蓬莱寺に手渡す。礼と共に、わらび餅が緋勇への手土産である事を告げられた。取り立てて好物という訳ではなかったが、素直に頷いて貰っておく事にする。
「なんとなく緋勇って和菓子な感じだったから」
「どんな感じだか分からん」
「チョコとかより、なんつーかこう、渋い系」
「ビールのツマミに和菓子を食うと?」
「え、お前も飲むのかよ」
「この量を一人で飲む気だったのか」
「いや、買い置きしとこうと思って」
着実に巣食う計画だ。それを阻止する手段を脳裡で思い描きながらも、それを実践する日は来ないだろうという予感がした。蓬莱寺を拒む理由は、今のところ存在していない。きっと、未来にも存在しないだろう。予感など信じる気は無いが、いつかそれが確信になればいい。
蓬莱寺が牛乳パックを開き、暫し動きを止めてから助けを求めるように緋勇を見上げた。蓬莱寺の膝の上には瀕死の猫。手には牛乳パック。そしてどこか縋るような目。何かを求められているような気もするが、具体的にどうすればいいのか分からない。無表情のまま戸惑っていると、蓬莱寺が「どうしよう」と言った。そんなこと言われても。
「飲ませるんじゃないのか」
「どーやって」
「・・・口に近付けて傾ける」
「ぶっかけちまいそうで怖い」
「・・・」
お前がやれ、などと言われる前に何か方法を見付けなければ。緋勇の提案を実行し、予想どおり白い液体を猫と股間にぶちまけた蓬莱寺が、立ち上がる事も出来ずにまたしても緋勇を見上げた。乾いたタオルを投げてやる。途方に暮れたように、もう一度「どうしよう」と言われた。
「どうしたいんだ」
「取り敢えず牛乳飲ませたい」
「どうせすぐに死ぬ」
「うん、でも」
「傲慢だとは思わないのか」
「そんなん思わねぇよ」
蓬莱寺は、思慮の浅い同情や憐憫を冷笑する人間なのだろうと、短い付き合いだが容易に想像できる。非力な生命の死に際して優越感を抱くなど、彼はそんな人間ではない。だが、緋勇はそれ以外の動機を見出せずにいた。憐れがましい存在を憐れみ、施しを美徳とする。そんな思想を持っているようには見えないが、ならば如何なる理由で死に瀕した猫を抱き上げたというのだろう。
「別に、ただの気紛れだよ」
床にぶちまけた牛乳を拭き取りながら、視線も合わせず独り言のように呟いた。気紛れで、お前はそんな恐怖を拾い上げたのか。無意識に握り締めていた拳を解き、緋勇は無言のまま蓬莱寺に歩み寄った。その膝で震える生命には、まだ触れない。壊してしまいそうで。
猫が、タオルに鼻先を近付けた。蓬莱寺が、ぱっと顔を上げて緋勇を見上げる。大声を出しては猫が怯えると思ったらしい。囁くような音量で、飲んでる、と言って嬉しそうに笑った。そのままの表情で、膝の上でしゃがれた声を上げる猫を指先でそっと撫でる。どうしてそんなに気安く、壊れかけた命に触れられるのだろう。腰が引けた体勢で緋勇が覗き込むと、蓬莱寺は微笑みを皮肉な笑みに塗り替えて言った。
「気になるか?」
「・・・それは、まあ」
「悪かったな、寝るとこだったんだろ?」
「いや・・・」
「醍醐んとこなんて連れてったら、あいつ徹夜で見てそうだったからさ」
「俺なら、そうはしないと?」
少しだけ目を見開き、蓬莱寺が緋勇を見上げた。
優しく出来る人間というのは、基本的に余裕があるという事だ。少なくとも蓬莱寺は、500mlの牛乳パックを購入する、金銭的な余裕があった。もしも緋勇が既に寝入っていたとしても、路上で夜通しその猫を抱いていただろう。それは、たとえ体を壊しても生活に困窮する事が無いからだ。一夜の無茶では死なない肉体を持っているからだ。もしも心身ともに疲れ果てていたならば、きっとそのか細い鳴き声すら耳に届かなかっただろう。
「お前はしねぇだろ、そういう事は」
「・・・」
「だから来た」
蓬莱寺が就寝の邪魔をした事を詫び、それを受けて緋勇は布団に戻った。眠れないだろうとは思ったが、布団を被って目を閉じる。予想どおり眠りは降りてこなかったが、祈るように目を閉じた。自分はあの小さな命から逃げたのだと思い至り、悔しさに唇を噛み締める。蓬莱寺は、その弱さを見透かしたのだ。
強くなりたいと、千切れるほど思った。
朝方近くなって、玄関のドアが閉じる音に気付いた。浅く落ちていたらしい。布団を抜け出して立ち上がり、蓬莱寺が座っていた場所を見る。テーブルにはスナック菓子とわらび餅、それに缶ビールと酎ハイ、そして紫色の袱紗が立てかけられている。忘れていったのだろうか。それとも、すぐに戻って来るつもりなのかも知れない。牛乳を零した床は綺麗に拭き取られていた。流しには、ゆすいで絞ったタオル。意外と律儀な男だ。
夜中ずっと起きていたのだが、物音はほとんど聞こえなかった。猫は死んだのだろうか。無感情にそう考え、もしも自分が手を差し伸べていたら、と同時に考えた。震える体を抱き上げて、薄汚れた毛並みを優しく撫でて、眠りに落ちるまで見届けて、朝を待たずに終えた命を手の平に乗せて、何も言わずにドアを開ける。想像しただけで体が竦んだ。
テーブルに立てかけられていた袱紗を引っ掴み、緋勇は部屋を飛び出した。
訳も分からず、緋勇は走っていた。蓬莱寺が部屋を出たのは、ほんの数分前の事だ。まだ遠くへは行っていないだろう。予想違わず、程なくして憶えのある背中を発見した。名を呼ぼうとして、ふと我に返る。何を言えばいいの分からない。そもそも、自分がどうして蓬莱寺を追ったのかすら理解していないのだ。
振り返った蓬莱寺は、何も持っていなかった。ただ、腹の辺りが土で汚れていた。その意味に気付き、緋勇の心が凍える。
「あれ?起こしちまったか」
「いや、起きてた」
「ああ、煩かったか」
「いや、静かだった」
「あ、それ、忘れたんじゃなくって」
「あとで取りに来るつもりだったんだろう」
「うん」
頷く蓬莱寺の表情は、平静に見えた。たったいま死に触れたとは思えぬほど、穏やかに見える。それは、強さなのだろうか。恐怖を感じず、痛みにも悼みにも怯まず、ただ優しく在る事が。だがそれは、本当に求めるべきものなのか。痛みに泣き叫ぶ彼の姿が見たいと、唐突に緋勇は思った。
「なんでお前がそんな面してんだよ」
「・・・」
「心配だったのか?」
「・・・」
「でも怖かったんだろ?」
「・・・」
「だいじょぶ、元気に走ってったぜ」
何も言えずに俯いていた緋勇が、その言葉に顔を上げた。にやりと口の端を上げて、蓬莱寺が笑う。「してやったり」の表情に見えるのは何故だろう。やはり言葉を見付けられずにいる緋勇に、もう一度「大丈夫」と言ってまた笑った。死ななかった、と言って、晴れやかに。それならば、きっと大丈夫だろう。
手をすり抜けて落ちていった命を思い、潰れるほどの恐怖を思う。悔恨を思い、慟哭を思う。二度とあんな思いはしたくないと、踏み出そうとした足が竦む。信じ続ける事は、緋勇の精神を少しづつ磨り減らしていた。
蓬莱寺が、空を見ながら「腹減った」と呟いた。わらび餅を食え、と緋勇が言い、嫌いなのか?と蓬莱寺が問う。嫌いではないが、好物でもない。そう言うと、じゃあ今度は好きなもん買ってきてやるよ、と返る。何が好きなんだ?と続けられ、何も思い付かなかったので彼の好物を挙げてみた。
こんな風に気紛れに落とされた言葉が、きっと死ぬまでこの心を温めるのだろうと、白み始めた空の下でぼんやりと思った。
いつか傷付いた猫に出会ったら、その時は手を差し伸べてやろう。
だってこの心は、まだこんなにも信じている。
非力なこの手が、いつか誰かを救うなどと夢見ている。
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