放課後の校庭で、夷澤は自分の中でバラバラに散っていた欠片が一つに結合するのを感じた。早朝に呼び出されて落とされた、阿門の言葉を思い出す。そういう事か。いや待て、どういう事だ。猫の世話ってなんだ。
夷澤の視線の先には、気だるげに歩く皆守がいた。ゆらゆらと不思議な歩調で歩くその姿に見覚えはあるのだが、その場所には相応しくない物が存在している。あるべき物ではない。そう感じたが、その違和は決して不快ではなかった。皆守の歩調に合わせて揺れる、その物体。
夷澤は叫んだ。
唐突に背後で上げられた叫び声に、皆守がビクっと振り向いた。同時に、尻尾を掴まれて思わず声を上げる。
「なんだいきなり!」
「こっちの科白っすよ!何事っすか!あんた何事っすか!呪いですか?あんたの存在が呪われた何者かの産物ですか!」
尋常でない夷澤の剣幕に、皆守が少し後ずさる。視界に入った伏せられた耳に、夷澤が唇を引き結んで黙った。掴んだままだった尻尾が、握り締めた拳から引き抜かれる。するりと抵抗なく抜けていった柔らかい毛並みの感触に、夷澤が僅かに目を見開いた。その表情の変化に気付いた皆守が、溜息混じりに正論のようにも聞こえる言葉を落とす。
「お前な、出会い頭に尻尾を掴むって、人としてどうなんだ」
「人・・・として、どうなんだは、あんただ」
その場でしゃがみ込んだ夷澤に、皆守が既視感を覚える。よく似た動作で床を叩いていた男がいた。夷澤は、中途半端に握った拳を僅かに開閉している。感触を脳内で再現しているらしい。ナマだった、と呟いた声に、皆守が眉を寄せる。心臓の近くで拳を握り締めていた夷澤が、呼吸を整えて顔を上げた。
「・・・それ、神経とかあります?」
「ある。だから気安く触るな」
「・・・はい、すんませんした」
素直に頷いた夷澤に、皆守がゆらりと尻尾を揺らした。無遠慮にそれを凝視していた夷澤が、自分の視線の不仕付けさに気付いて目を逸らし、しゃがんだまま額を押さえて脱力した。皆守の前に座り込んだ姿勢で、静かに自制心を叱咤する。その光景を、どこか呆然とした表情で級友達が窺っていた。直視する事もできずかといって目を逸らす事もできずに、いつでも逃げられる体勢で、うずくまる夷澤と猫耳尻尾付きの皆守を見ていた。
それに気付いた皆守が、気まずそうに囁く。
「そこでその体勢、俺がひざまずけって言ったみたいじゃないか」
「すんません、あの、俺ちょっと今、突っ込むの無理っす」
覚束無い足取りではあったが、夷澤は自力で立ち上がった。自分を取り巻く周囲に凶悪な視線を走らせた皆守に、観衆達が慌てて目を逸らす。解散し始めた羊達に追い討ちの一瞥をくれて、皆守も歩き出した。
謎の脱力感と戯れつつ帰路をだらだらと歩いていた夷澤が、気配を感じて気を張った。振り向けば、笑っているような表情の神鳳が佇んでいるのが視界に入る。微笑ではない表情のまま、神鳳が口角を上げた。
「理解したようですね」
「いや、さっぱり理解できませんが」
「君は猫係です」
「そ、そーらしいっすね」
「『らしい』じゃありませんよ、与えられた仕事はきちんとしなさい」
「具体的に何すればいいんすか?」
「猫の世話ですよ、決まってるでしょう」
「だからぁ!それが訳分かんねぇって言ってんすよ!」
「ちなみに今、皆守君は《転校生》に絡まれてます」
「っあの野郎!」
理解した訳ではないが、夷澤は瞬時に床を蹴って走り出した。
夷澤が発見した時、皆守は壁際に追い詰められて葉佩に顎を固定されていた。咄嗟にボクサーとしてはあるまじき飛び膝蹴りが出たのは、止むを得ない事だろう。側頭部を強打された葉佩が、音を立てて床に倒れる。着地と同時に、夷澤が中指を立てて叫んだ。
「《生徒会》舐めんな!」
「出会い頭に飛び膝蹴りとは、なかなかやるじゃねぇか糞餓鬼」
「そりゃどーも!消されたくなかったら消えてください!」
「お前も気付いた?」
「知ってますよ!俺は猫係っすから!」
「ねこがかり?」
頭を押さえて立ち上がった葉佩と泣きそうな勢いで叫ぶ夷澤を、皆守はぼんやりとした目付きで眺めている。暫し仲良く罵りあう二人を見ていたが、やがて飽きたのか諦めたのか、くるりと踵を返した。その瞬間、葉佩が眼前の敵(?)から目を逸らして皆守に向かって叫んだ。
「皆守!待ってよく見せて!」
「おい夷澤、その変態の処置は任せたぞ」
「うぃっす!」
元気よく返事をしてから、どうして《生徒会副会長補佐》の自分がこんな怠惰なだけの一般生徒に命令されなければならないのか、という疑問が湧き上がる。しかしそんな根源的な疑問を追求する前に、葉佩が走って皆守に追いついてその肩を掴んだ。皆守の顎を固定して瞳を覗き込み、思いっきり嫌そうに引いた体を空いた左手で素早く制する。動きを制限された皆守が、「鬱陶しい」と「気持ち悪い」と「面倒臭い」をこれ以上ないほど適切に表情に乗せたが、葉佩には通じなかったようだ。
「やっぱり!皆守、瞳孔が長いよ!」
「は?」
「瞳孔!縦長!すげぇ!」
伝える為ではなく、ただ感情の赴くままに葉佩が叫んだ。それでなくとも異常なまでに近かった距離を更に縮め、皆守の瞳に自分の瞳を近付ける。
またしても夷澤の膝が唸った。鼻先で骨同士が衝突する音を聞き、皆守は脳が受けたダメージを想像して眉根を寄せた。その衝撃で、葉佩の脳が正常な思考回路を取り戻せたらいいのに。しかし、よぎった思いはどこにも引っ掛からずに流れ去った。葉佩にとって、正常とは取り戻すものではないのだろう。
夷澤が、震える拳を皆守に突きつけた。
「あんたも!流されてんじゃねぇよ!」
「いや、なんかもう何がなんだか」
「近いんだよ!その時点でおかしいと思えよ!」
「いや、お前もだいぶ近いんだが」
「俺はいいんだよ!」
後輩に詰め寄られて心底うんざりした顔をしている皆守の足元で、葉佩が打たれた部位を撫でながら身を起こした。如何なる感情も表さぬまま、葉佩が小さく呟く。
「舌は?」
「はい?」
「舌だよ」
「下?」
言葉が通じなかった事には一切の関心を寄せず、葉佩がゆらりと立ち上がった。一刻も早くこの場を離れたい皆守が、踏み出していた足を止める。
葉佩が床に接するほど低く構えて走り、皆守の死角に入り込んだ。反応した皆守が跳躍するより早く、どこからかナイフを取り出して振りかざす。刃物の出現に、夷澤の瞳が鋭く研ぎ澄まされた。斜陽を反射して、清らかな刀身が汚れた赤光を放つ。咄嗟にナイフへと引かれた視線の外で、珍しく皆守が大声で怒鳴っていた。
「よけてんじゃねぇ!触るな!」
「うるせぇ!どうせお前なんか!もうやられちゃったくせに!」
「掴むな握るな引っ張るな!」
「今更!清純ぶってんじゃ!ねぇよ!」
床に投げ出されたナイフが視線を誘う為の囮だったのだと、夷澤が漸く察する。そうしてから、皆守の尻尾を守りきれなかったのだと理解した。葉佩の手の中で暴れる尻尾が憐れで、もういいからお前ら見えない所でやれ、と叫びたくなった。しかし叫ぶのにも体力と心の余裕が必要だ。要するに面倒臭くなったので、夷澤は二人まとめて凍らせる事にした。拳を構え、呪われた力を握り締めたまま放つ。
皆守が膝を折って腰を落とした。左足で葉佩の脛を刈り、直後に折り曲げた軸足で床を蹴る。ほぼ同時に、体勢を崩しながらも転倒には至らなかった葉佩が意図的に床に身を投げ出した。結果、夷澤の攻撃は壁に激突した。亀裂の走った壁を見て、皆守が「殺す気か」と呟いて夷澤を睨む。「殺る気だったね」と、葉佩もそれに小さく同意した。
「わりーかよ。俺は猫係だ」
「あのさ、それ、さっきから気になってたんだけど」
「って訳だから、猫はとっとと部屋に戻って自分の姿を恥じてください」
「ねこがかりって何?」
「猫の係っすよ。そんな事も分かんねぇんすか?」
「え、と、ごめんさっぱり分かんない」
「だから、猫の世話しろって言われてんすよ」
「へえ、猫の世話」
まるで理解したかのように頷いて、葉佩が懐に手を入れた。直後に現れた二本目のナイフに、ためらう余裕すらなく夷澤が拳を握った。音を立てて異形の拳と刀身が衝突する。互いの武器の向こう側で、不敵な瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。葉佩が、笑みに似ているが実質的には笑みではない表情で頬を歪める。
「猫の世話?」
「猫の世話っすよ」
「つまり、それは、猫の、その、あの」
「そんな言葉を濁すような事じゃないと思いますけど」
「触ったのか」
「あ?」
「触ったんだろ、皆守のアレに」
「アレとか言うのやめてください」
「どっちの手だ?切り落としてやるから正直に言ってみな」
「・・・羨ましいんすか?」
紛う方なき笑みを浮かべた夷澤に、葉佩が無言でナイフを振り上げた。自分もしっかり触ってたくせに、と夷澤が声にする前に、上がった切っ先が空を裂いて何故か皆守の背中に向いた。尻尾をゆらゆらさせて歩き出していた皆守が、鬱陶しそうに片目を眇める。
「どこ行くんだよ皆守!話はまだ終わってねぇぞ!」
「え、いや、それ俺が参加しなきゃいけない話か?」
「お前がいなきゃ始まんねぇよ!」
「始める必要もなさそうな気がするんだが」
「お前の舌が論争の的なんだよ!」
「いつの間にそんな論争が繰り広げられたんすか!」
「だから!さっさと口ん中に手ぇ突っ込ませろ!」
「断る」
一刀両断とはこの事か。皆守は視線すら向けずに歩き出した。だが、葉佩は両断されたぐらいで信念を折るような男ではない。夷澤を肘で押し退けて、皆守の正面に回り込む。ポケットからレトルトカレーと穀物を取り出し、皆守の眼前に提示した。その行動の意味を悟った皆守の耳が、ピクリと向きを変える。それを確認し、更にポケットを漁って取り出したのは、世界の三大珍味と称されるトリュフ。皆守が、ふ、と息を吐いた。
「葉佩」
「おう!」
「お前は俺を誤解してる」
「そうかな?」
「ああ、全く悲しいほどに理解してない」
「ちょっと待って、すぐ調合するから」
「違う」
「プリンの方が良かった?」
「確かに俺は、カレーの為ならどんな労力も厭わない」
「お、おう」
「あとでカレーを得られると分かっていれば、深夜の強行にも付き合える」
「カレーの為だったんだ。俺はてっきり【愛】ゆえだと思ってたよ」
「だが、限界はあるんだ」
訥々と語る皆守の声に、葉佩が真面目な顔で耳を傾ける。本当に真面目に聞いているかどうかは、本人以外の誰にも分からない。分からないが予想は可能だ。口を挟む機会を逸して傍観していた夷澤は、葉佩の手が不穏に動くのを確かに見た。その手をはたき落とし、皆守がすっと目を細める。
「そんなに触りたいのか」
「触りたい!」
真っ直ぐな目できっぱりと言い放った葉佩に、皆守が嘆息した。自分ではたき落とした手を掴み上げ、口元に運ぶ。夷澤が何事か言葉を発する前に、葉佩の人差し指が皆守の口に入った。葉佩が動きを止め、次に全身を小さく震わせた。ゆっくりと口中から引き抜かれた指が、何かを探し求めるように虚空をさまよう。
「満足か?」
如何にも恩着せがましく、協力してやったんだと言わんばかりに皆守が笑う。だが葉佩は、その言葉に肯定を返せずに黙り込んだ。確かに知的欲求は満たされた。皆守の協力でそれが為された事にも異論はない。一つ頷いて礼の代わりにカレーでも差し出せば、全てはなんとなく落着するのだろう。しかし、葉佩は満たされなかった。横で発せられた「どうでした?」という声にも反応できずに、ただ指先に残る感触に意識の全てを奪われた。
欠伸をしながら立ち去った皆守の後姿をじっと見詰めたまま、葉佩がぽつりと夷澤を呼んだ。
「ねえ夷澤」
「あ、やっぱ聞きたくないんで黙ってください」
「俺はさ、ただ、舌も猫なのかなって、思っただけ、なんだよ」
「良かったじゃないっすか、確かめられて」
「・・・夷澤」
「さて、俺も帰るかな」
「夷澤ぁ!」
「うるせぇな!なんだよ!」
「俺っ!どどどどうしたら!」
「口の中って雑菌が多いんで、手ぇ洗った方がいいっすよ」
「どうしたらいいと思う!?」
「恨むんなら自分を恨んでくださいね」
「どうしよう!死ぬかも俺!」
「ああ、それが本当なら嬉しいんすけどね」
皆守としては、本当にただ純粋に面倒臭かっただけなのだろう。それは理解できる。あの程度の行動で葉佩が黙り、動きすら止めてくれるというのなら安いものだ。あとで口を漱げばいいだけだし。
しかし、更なる面倒事の種を蒔いたなどと、果たしてあの怠惰な男は気付いているのだろうか。
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