時刻は午前5時30分。メールの音で目を覚ました夷澤は、その内容を確認して舌を打った。《生徒会長》直々の呼び出しだった。こんな時間にわざわざ呼び出すとは、どれほど急ぎの用事なのか。手早く着替えを済ませ、夷澤は未だ薄暗い通学路に足を向けた。朝は暖かいミルクで目を覚ますのが日課だったのに。口内で呟くが、聞く者はいない。
不機嫌も露に用向きを問う夷澤に、阿門はいつも通り静かな声で言い放った。
「現時刻を以って、お前の役職を変更する」
その言葉の意味は、二通りある。降格か昇進のどちらかだろう。夷澤は咄嗟に、生徒会長の机に麦茶を零してしまった事を思い出した。次に、ソファの背もたれを壊してしまった事。同級生の頬骨を陥没させた事。あ、これがバレたのか。流石に拙いとは思ったんだ。あの野郎、密告しやがったのか。夷澤が同級生に胸中で毒づいていると、それに気付いた風も無く阿門が続けた。
「夷澤、今日からお前は猫係りだ」
「・・・は?」
「主な活動内容は猫の世話だ。質問はあるか?」
真顔でそう言われ、夷澤は途方に暮れた。質問ならば、溢れるほどに湧き上がった。だがそれは巧く言葉にならずに、胸中で出口を求めて渦を巻く。取り敢えず当たり障りの無い言葉を探し出し、恐る恐る提示してみた。
「ええと・・・どうしたんすか?」
「どうもしない。質問はそれだけか」
「いや、あの、あんたの脳みそが」
「どうもしない」
そうか、どうもしていないのならば、どうかしてしまったのは自分の頭か。夷澤が全ての動きを止めている隙に、早朝の面談は終了した。後に残された夷澤は、阿門の言葉の意味を理解できずにいた。そしてそれが当たり前の事のように自分を通過して行った事に、正体不明の虚脱感を覚えた。
てゆーか何で猫。呟いた声は、答える者が存在しない今、独り言でしかなかった。
昼休み近くなってから教室に現れた皆守を見て、葉佩は驚愕し、八千穂は狂喜した。
「かわいい!どうしたのそれ!」
「・・・むしろ俺が訊きたい」
「うわあ動いた!」
八千穂は興味津々だったが、葉佩は未だに固まったまま動かない。目を見開き、呆然と皆守を凝視している。指先が僅かに震えていた。不思議に思った皆守と、目が合った。その直後、葉佩が俯いて「くっ」とか何とか奇妙な声を発した。上体を屈めて、不自然な体勢のまま肩を震わせている。それを見た皆守が、「どうした」と声を掛けようとした時、八千穂がそれを遮った。
「ねえ!さわっていい?」
「嫌だ」
「やまだっ!」
声も出せずに立ち尽くしていた葉佩が、唐突に大声で叫んだ。ちなみに、このクラスに『やまだ』という人物は居ない。
「山田?」
「誰?」
「やっちー!
まって!
だめだよ!」
正確な言葉を発する事すら不可能なほど、葉佩は動揺していた。どうにかして意味の通じる言葉に言い直し、音がするほど大きな動作で八千穂に詰め寄った。
「駄目だよやっちー!耳と尻尾は・・・あの、その、アレだから!」
「アレって何?」
「あの、だから、ほら・・・」
言葉が出てこないのか、出てきた言葉を躊躇っているのか、葉佩は大袈裟な身振りで何事か伝えようとしている。指先で空中に円を描きながら、チラリと助けを求めるように皆守を見る。見た瞬間に目を逸らした。葉佩が何を言いたいのかは分からなかったが、皆守はその動作から「直視できない」というメッセージを受け取った。
好きでこんな格好をしている訳ではない。皆守は思ったが、同時に仕方がないとも思った。自分でも、あまりじっくりとは見たくない。此処はやはり、笑われるぐらいで済んで良かった、と思っておくのが無難な選択だろう。
「とっとにかく!皆守!ちょっとこっち来なさい!」
「なんでオカン口調だ」
「いいから!早く!あ、やっちーは駄目!そこで待ってて!」
腕を掴まれ、皆守はそのまま葉佩に連れ去られた。
引っ張られて辿り着いたのは、屋上だった。階段に続くドアを閉め、葉佩は漸く皆守の腕を解放した。不機嫌そうに、皆守の尻尾がゆらりと揺れる。
「何だってんだ」
「尻尾を揺らすな!」
「あ、揺れてたか」
「耳も!動かすな!俺を誘惑するな!」
「は?」
「触りたくなんかない!俺はそんなもん触りたくないんだからな!」
葉佩が猫好きだとは知っていたが、まさかこれほどとは。必死で皆守から目を逸らし、葉佩は頭を抱えている。「違うんだそうじゃないんだ俺はそんなんじゃないんだ」と、小さな声で繰り返している。皆守が、溜息と共に尻尾を揺らした。
「やめろってばぁ!」
「分かったから、少し落ち着け」
「分かってない!お前は1oたりとも理解してない!」
渾身の力でそう訴える葉佩は、先程からずっと手を握り締めている。皆守の耳がピクリと動く度に、その拳が痙攣するように僅かに上下する。無表情にそれを観察していた皆守は、意識して尻尾を大きく揺らしてみた。
「・・・愛撫されてぇのか手前ぇ・・・」
「あいぶ!?」
「全身、くまなく、優しく撫で回されたいか?」
「・・・悪かった」
漸く葉佩の苦悩の一端を垣間見た皆守は、素直に自分の行動を反省した。その瞬間、葉佩が吠えた。
「耳ペタってすんなぁっ!」
「これはしょうがない」
「・・・ううう」
遺跡内でも、葉佩のこれほど追い詰められた表情は見た事がない。拳を震わせ必死で自制する姿は、痛々しいほどだった。そんなに触りたいのなら、少しくらいなら構わない。そう思った皆守は、特に含みも無くそれを口にした。
葉佩から表情が消えた。
「・・・ちょっと冷静になろう。ちょっとでいいんだ。今よりほんのちょっとだけ、冷静になってみようよ皆守」
「・・・うん」
これ以上刺激しない方が良いと思った皆守は、言葉を返す事もなく頷いた。冷静になるべきだ、という発想そのものに異論は無い。聞き取れないぐらい小さな声で何事かを呟く葉佩の、続く言葉を待った。
ポケットの中のナイフの柄を撫でながら、葉佩は自分の冷静さを取り戻そうと理性を総動員していた。猫を見たら思わず手を伸ばしてしまうほど、自分は猫が好きだ。おやつを分け与えるのだって、今では趣味の一環だ。だが、その柔らかい毛並みに触る事を許されるのは、信頼を勝ち取った者だけだ。恭順とは違う、仲間意識とでも呼ばれるであろうそれは、限られた者にのみ許された誇らしい特権だ。うん、そうだ。そんなに軽々しく許しちゃ駄目だ。皆守は間違ってる。
「皆守は飼い猫だから知らないだろうけど」
「猫じゃない」
「えええ!違うの!?」
複雑な心境をどうにか言葉に転換し、伝える為に口を開いた。それとほぼ同時に、前提が覆された。もうどうしたら良いのか分からない。猫じゃないというのなら、その耳と尻尾は何だ。猫だろう。それは間違いなく猫の物だろう。あれ?待てよ、猫に付いているから猫の耳。という事は、皆守に付いているそれは即ち、皆守の耳だ!
唐突に顔を上げて目を見開いた葉佩を、皆守はぼんやりと見ていた。今日は風も穏やかで、陽射しは適度に暖かい。太陽は真上に近い場所で燦然と輝いている。この時間を昼寝以外に使うのは、罪悪といっても過言ではない。皆守以外の人間だったら、口を揃えて「過言だ」というだろう。だが皆守は、皆守以外の何者でもなかった。欲求を意識すると同時に、皆守は皆守であるが故に行動を起こした。
だがその思慮深く怠惰な精神に基づいた行動は、葉佩に阻害された。
「皆守、お前は猫じゃない」
「分かってくれたか」
「うん、俺が間違ってた」
「分かってくれればいいんだ」
「だから触らせて!」
「嫌だ」
葉佩はしゃがみ込んだ。床に手を付き、暫し目を閉じる。数秒の沈黙は、失われた何かを取り戻す為に必要だったのだろう。葉佩が再び顔を上げた時には、全ては元通りになっていた。或いは、流れ去る時間という存在に押され、全てが復元する事など有り得なかったのかも知れない。不変など、想像力が作り出した幻だ。
「さっきはいいって言ったのに!」
「時間切れだ」
「ちょっとでいいから!」
「嫌だ」
尻尾を左右に振りながら、皆守はお気に入りの場所に腰を下ろした。皆守の行動の意味を理解した葉佩が、慌ててそれを遮った。ピクリと向きを変えた耳から視線を引き剥がし、硬い肩を掴んで揺さ振る。
「寝るな!襲われたいのか!」
「・・・黙るのが、お互いのためだと思うんだがな」
「・・・ん?」
「俺はお前を殺したくない」
「えーと?」
「死にたくなければ、その手を離せ」
葉佩は手を離した。それを確認し、皆守が目を閉じる。瞬く間に眠りに落ちた皆守の傍らで、葉佩の自制心が試されている。だが、葉佩の自制心はそもそも別の次元に存在していた。相手が寝ているのなら、何をしても構わないだろう。あっさりと決断を下し、手を伸ばした。そしてその直後、後方に吹き飛んだ。柵に衝突し、一瞬息を止めてから激しく咳き込む。ぶつけた背中以上に胸が痛む。比喩ではない。物理的に、壇中が痛かった。呼吸が出来ない。胸を押さえてうずくまった葉佩に、皆守が言った。
「寝込みを襲う、か・・・つくづく、救えない奴だな」
「げっは・・・猫耳とかいうな!俺はそんなのじゃ燃えない!」
「・・・」
『ねこみ』と『ねこみみ』は確かに似ている。だが、勘違いするほどこいつの頭はそれで一杯なのか。絆され易い自分の性格を、皆守は自覚していた。何だか可哀想だと思った時点で、自分を救おうとするのは諦めた。体を支えていた給水塔の壁から身を離し、皆守が立ち上がった。葉佩はまだ胸を押さえている。苦しそうに、慎重に呼吸を繰り返している。壇中に爪先はちょっと酷かったかも知れない。まあ良いか、葉佩だし。
ゆっくりとした足取りで近付く皆守に、葉佩が少しだけ後退る。しかし、背後は頑丈な柵だ。そしてその先には何も無い。葉佩が恐怖に頬を引き攣らせた。視界の端で、皆守の尻尾がゆらりと揺れる。
せめて、とどめは猫キックで。思ったが、葉佩はそれが叶わない事を知っていた。願いが叶った記憶など無い。体の痛みと、思い出した心の痛みに、葉佩は俯いた。その様子を、皆守が少し離れた場所でぼんやりと見ている。
「・・・そんなに触りたいか」
「いいの!?」
顔を跳ね上げた葉佩に、皆守が二歩ほど後退った。耳を伏せ、警戒した動作で距離を測る。皆守が最も強く感じていたのは、身の危険だった。撃たれるより刺されるより、もっと危険な予感がした。
「やっぱやだ」
「くっ・・・男の純情もてあそびやがって・・・!」
「触りたくないって言ってただろ」
「いつだよ!何月何日何曜日?地球が何回まわった時!?」
「うるさい黙れ」
床に拳を叩き付け、葉佩は激しく訴えている。皆守は急速に面倒臭くなった。主に葉佩との会話が。仕方ない、保健室にするか。そう呟き、ドアに向かう。背後で葉佩が泣き崩れていたが、せめてもの情けでその姿を視認するのはやめておいた。這い蹲って涙を流す様など、いくら葉佩でも見られたくないだろう。
尻尾を揺らしながらダラダラと歩いていた皆守は、保健室に向かう廊下で八千穂に捕獲された。そのまま教室に強制連行され、やむなく授業を受ける嵌めに陥った。雛川と級友達の視線を流す為に机に突っ伏し、それでも深く寝入る事が出来ずに耳をそばだてる。
この日、葉佩は新しい扉を開いた。それは開けてはいけない扉だった。
知ってしまった自分の嗜好に、深く打ち拉がれる。
葉佩は行き場を失った感情を、せめて弾丸に込めて空に撃ち出した。
鋭敏な皆守の耳は、屋上で上げられた嘆きの発砲音を確かに捉えた。捉えたが、為す術は見当たらない。
葉佩は扉を開いてしまった。
もう戻れない。
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