近付いても反応しなかったので、死んでいるのかと思った。あいつは悲しむだろうかと、甘い煙を吐き出しながら夢想する。覗き込むと息をしているのが分かったので、残念ながら眠っているだけらしい。これほどに接近しても目を開けないとは、よほど疲れているのだろうか。
日差しの降り注ぐ屋上で、寝そべる葉佩の横に立ち、皆守は冷たく目を細めた。今、この無防備にさらされた首に足を乗せれば、彼は絶命する。欲望も責務も喜びも悲しみも、もう二度と彼を煩わせはしない。
そう考えると、なんだかそれはそれで癪に障る。残された自分は変わらずつまらない事で煩わされるのに、こいつだけ悠々と本物の永眠に横たわるなんて許しがたい。
眠る葉佩を見下ろして、皆守は散漫になってきた思考を煙に溶かして空に放った。
平和だ。
この男が眠っているだけで、世界が平和であるかのように錯覚する。風はゆるく髪を撫で、空はどこまでも高く青く広く、それを横切る鳥の影は耿然と鋭くも気高い。まるで満ち足りているかのような気分になって、皆守はしばし憂鬱を忘れた。
足元に転がる死体のような葉佩が、小さく呻いた。珍しく清々しい気分に浸っていたのに、と憮然としつつも諦観の境地で溜息をつく。しかし葉佩は目を閉じたまま、不明瞭な声で何事か呟いた。寝言と判断し、なんとなく耳を澄ます。
悪趣味だとちらりと思わないでもなかったが、葉佩の見る夢には少なからず興味があった。この狂気と冷徹と愚劣とその他の雑多なものが混在する男は、どのような夢を見るのだろう。
聞き取りづらい声を拾おうと、しゃがみ込んで耳を近付ける。と、葉佩が息を呑んだ。どうやら目覚めてしまったようだ。
「あ、くそ」
「え、いや、え、あの、え?」
「起きたか」
「お、起きたよ?」
疑心と不安をその瞳に含ませ、葉佩が大きく後退する。昼寝から目覚めたら、鼻先に級友の顔があった。葉佩といえども、ちょっと反応に困るだろう。しかも目が合った瞬間に舌打ちなんかされたら、混乱するのも無理はない。体ごと遠のいた葉佩を追うのはやめて、皆守は思い出した憂鬱に身を預けた。
気だるげに紫煙をくゆらせる皆守に、葉佩がまどろみから脱して問う。
「え、ええと、なんか用?」
「いや、ちょっと寝言を聞こうかと思って」
「俺、なんか言ってた?」
「言ってた」
「なんて?」
「さあ、よく聞こえなかった」
そう言うと、葉佩はあからさまに安堵して肩から力を抜いた。どうやら知られたくない夢でも見ていたらしい。
だがどうせ隠すなら、もっと他の、たとえば職業だとか趣味だとか思想だとか性癖だとか、そんなものを隠すべきではないか。あるいは、皆守を辟易とさせたそんな情報さえも些細だと感じるほどの、もっと物凄いものを隠しているのかも知れない。
そんな事を考えていたら、ささやかな意趣返しを思い付いた。さも意味ありげに唇の端を上げて見せる。
「俺は言いふらさないから、安心しろ」
葉佩から表情が消えた。探るように、用心深く、葉佩の目が冴えてゆく。温度のないその光は皓月のようで、打たれると心まで冷たくなるような気がした。知らず歪んだ口元を、アロマに手をやるふりで隠す。
葉佩が、冷たくこごった目を揺らがせた。果かない花が風に吹かれるのを見るように、どこか破滅的な快感が皆守の胸中をゆるりと泳ぐ。
「ちっ違うからな!」
「そうか?」
「あの、別に、そんなんじゃねぇからな!」
「そうか」
「ああそうだよ!」
心臓の辺りを強く握り締めて、葉佩がきっぱりと言い放った。
予想をはるかに上回る反応だ。もっとよく聞いておけばよかったと、皆守はこっそり悔やんだ。そうすれば今頃は、この男の秘密を握っていたかも知れない。この男の弱みを、心の奥に秘めたものを、この手に。
「俺は気にしないぜ」
「・・・しねぇの?」
「ああ、どうでもいい」
「ほんとに?」
「しつこいな」
「気持ち悪くねぇ?」
「気持ちは悪いが、気分は悪くない」
変な顔をして黙り込んだ葉佩は、釈然とはしないまでも抵抗を諦めたように唇を噛んだ。
いったいこの男は、どんな夢を見ていたというのだ。ぼんやりと嫌な予感が湧き上がったような気がしたが、唐突に転がり落ちてきた優越感はそれを黙殺した。つまり皆守は、深く考えず通常運営に戻った。
「それはさておき」
「さておくんだ」
「腹が減った」
「あ、俺、カレー持ってるよ」
「さすがは《宝探し屋》だな」
「まあね!」
「地上最強か」
「ごめん、カツカレー」
「お前は俺を裏切った!」
「じゃあ食うなよ!」
「うるせぇ黙ってとっとと俺にカレーを食わせろ」
殊更に高圧的な言い方をしても、葉佩はどこか嬉しそうに口中で悪態をつきながらポケットを探っている。
基本的に朝はあまり食べない皆守は、この時間(昼休み前ぐらい)に空腹を覚える事が多い。葉佩もそれは心得たもので、大抵なんらかのカレーを携帯している。以前の葉佩のポケットは、これほど高確率でカレーではなかった。いつの間にか上昇したカレー率も、所望すれば即座に出てくる熱々のできたてカレーも、皆守は疑問に思っていない。
差し出されたカツカレーを受け取れば、綺麗に磨かれたスプーンが出てくる。「カツは俺が食べるから残しといて」と言われて、特に疑問もなく頷く。
皆守は怠惰な男だった。
「ええとさ、それでね、皆守」
「やっぱカツ一切れもらうぞ」
「駄目だよ、カツは俺が食うって言っただろ!」
「ライスちょっと残してやるから」
「俺が炊いた米が食えないってのか!」
「そんなお前だから、俺は」
「そこで切るな」
「続きは考えてない」
「たまには未来の事も考えてください」
「めんどくさい」
「あ、スプーンも返せよ」
「おう」
残ったカツとライスに取りかかる葉佩を見るともなしに見ていると、前触れもなく目が合った。直後に慌てて伏せられた視線が、なんだか見憶えのない色をしていたのだが、どういう意味だろう。なんとなく居心地の悪いような、胸騒ぎがするような、奇妙な緊張感が皆守の精神を圧迫する。
皿が空になってもスプーンを口に銜えたまま、葉佩が意を決するように顔を上げた。
「あのさ、皆守」
「眠くなってきた」
「ほんとに聞いてた?」
「何を」
「俺が、だから、俺の、あの、あれを」
「どれを」
「お前、ほんとは聞いてねーだろ」
「だから何を」
「お前なんかカレーうどん食べて服に染みつけてろ!」
「なんだとてめぇ、俺が好きなのはカレーライスだ間違えるな!」
「カレーうどんうまいよ!」
「ああ、否定はしない。だが俺は、カレーライスが好きなんだ!」
「皆守のばかぁ!」
「ばかはお前だ」
スプーンをナイフのように床に突き立てようとして失敗した葉佩が、スプーンを持っていない方の手で床を叩く。皆守は意味が分からなかったので、気にせず食後の一服に火を点けた。
ひとしきり嘆き喚いて皆守を罵り、やがてそれにも飽きたのか疲れたのか、葉佩が身を起こして深く息をついた。ゆるく頭を振って、自嘲の笑みを浮かべる。
「ってゆーか、ほんとは聞いてたんだろ?」
「まあ、だいたい」
「やっぱり!」
「だがカレーうどんは食べない」
「あああ記憶を失え!」
「記憶喪失か、それも悪くないな」
「ど、どうやったら消せんの!」
「阿門に頼んでみろ」
「皆守の記憶を消してくださいって?」
「あいつ、そういうの得意らしいぞ」
「分かったちょっと行ってくる!」
名案を得たかのように喜色を浮かべて頷いて、葉佩は颯爽とではないが走り去った。あとに残された皆守は、今日の昼寝はどこでするかと思案しながら立ち上がる。
最近どうもおかしな夢を見るので、迂闊な所で眠れなくなってしまったのだ。
あの男、本当に早く死んでくれないかな。欠伸をしながらぼんやりと思う。
そうすればきっと、あんな夢も見なくなるに違いない。
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