緋勇が目覚めると、足の下に蓬莱寺がいた。頭の下には劉がいる。なんて寝心地の悪いベッドだ。胸中で理不尽な独り言を呟いて身を起こすと、足元の蓬莱寺が小さく呻いて目を開けた。覚醒しきっていない目で緋勇を見て、自分の腹の上に乗っている緋勇の足を見て、少しだけ夢の名残を追うような遠い目をして溜息をついた。劉はまだ眠っている。

「ひーちゃんに踏まれる夢見た」
「それは現実だ」
「しかもすっげぇイイ笑顔でじりじり体重かけてきた」
「俺はそんな事しない」
「一瞬もうちょっと下!って思った」
「ここか?」
「ごふっ」

鳩尾から少し下の丹田に踵を落とされ、蓬莱寺が腹を抱えて床を転がった(爆笑ではない)。
 空はまだ暗い。時計を確認すると、午前3時を少し過ぎたところ。早朝というにも早すぎる。水道水を喉に流し込みながら、緋勇は朝が来るまで一人で過ごす事のなかった現実に密やかな謝意を投げた。そんな密やかな思いには気づかず、蓬莱寺は勝手知ったる様子で冷蔵庫を開けている。「なんもねーな」と言いながら牛乳パックを取り出し、賞味期限を確認してからしばし黙考し、匂いを嗅いでから口に運んだ。それを購入した日を、緋勇はもう憶えていない。
 食事をしたのがもう随分と前の事だと思い出して、緋勇は急に空腹を覚えた。蓬莱寺が指摘したとおり、冷蔵庫には飲食に耐える物が存在しない。眠れない夜は煩わしくさえ感じる不夜の街を、こんな時だけは有り難く思う。

 いざ買い物に出ようとして、まだ眠りこける劉にも希望を聞こうかと思い立った。体を丸めて床で寝ている劉に、名を呼びながら歩み寄る。そうしてから、彼の体が小さく震えている事に気付いた。額に手を当ててみると、恐ろしいほど熱い。熱はすべからく冷やすべし。そう判断し、緋勇は氣を手の平に集めた。早くも玄関で靴を履いていた蓬莱寺が、片方は土足のまま走ってきて緋勇にすがり付いた。

「とどめか!とどめなのかひーちゃん!寝込み襲うなんてらしくねぇぞ!」
「いや、熱があるから雪蓮掌で冷やそうかと」
「買ってくる物にひ○ピタとおかゆ追加な!あと薬も!」
「成る程、その手があったか」
「他にどんな手があるってんだ!」
「京一はん、今回ばっかりはおおきに」

嗄れた声でそう言って、劉が力なく笑う。それがいつものように笑おうとして失敗した結果だと、蓬莱寺は瞬時に察してしまった。緋勇も同じく察したのだが、同じ現象を見て、二人の行動はあまりにかけ離れていた。その主な原因として、緋勇が常人からかけ離れていた事が挙げられる。
 蓬莱寺は、部屋に存在はしていたが使用されていなかった布団を引きずり出してその上に劉を転がし、更にその上から無造作に掛け布を落とした。「もっと優しく」などと上がった声は無視して、ぼんやりとそれを見ていた緋勇に向きなおる。

「じゃ、とっとと行こーぜ」
「一人で行ってこい。俺は劉についてる」
「二人っきりとかぜってぇ駄目!行くんならお前が行け!俺がついてる!」
「嫉妬か?可愛いな京一」
「どうしても伝わらないのか常識的なこの思い!」
「京一はん、だいじょぶやから行ってきて」
「ばか言うな。死にてぇのか」
「簡単には死なへんで」
「弱ってんだろ、無理すんな」
「・・・謝謝」

緋勇は、目の前で交わされる眼差しを不思議な気持ちで眺めていた。まさか自分が死神と同等の扱いを受けているなどと、想像もしていない。蓬莱寺に腕を引かれ、寝たまま手を振る劉を残して部屋を出た。

 買い物を済ませた蓬莱寺は、いつもより足早に歩いている。今は一人残された部屋で寝ている劉を心配しているのだろう。彼が独りではないのだと今更ながらに実感して、緋勇は暁闇に紛れてこっそり微笑んだ。
 きっと今頃、深閑とした空間を見詰めて世界で一人きりのような気分になっているに違いない。歩調を緩めない蓬莱寺に遅れないよう、緋勇は音を立てずに足を速めた。












 部屋に戻ると、劉が嬉しそうに「おかえり」と言って笑った。緋勇が声を発するより早く、蓬莱寺が「ただいま」とそれに返す。知識にはあるが使った記憶のない言葉が当然のように眼前を行き交い、たった二言で完結してしまった会話に立ち入る隙も見出せず、緋勇は無言のまま部屋に上がった。
 友人に訪れた寂寥など気にも留めず、蓬莱寺が手早く食事の用意に取りかかる。

「ひーちゃん、鍋どこだよ」
「そこにあるだろう」
「いや、これフライパンだから」
「それじゃ駄目なのか?」
「・・・駄目でもねぇか?」

首を傾げてから軽く頷き、蓬莱寺はフライパンに水を張って火にかけた。湯が沸くまでの間に、買ってきたネギとショウガを取り出して慣れた手付きで刻み始めた。寝ているのに飽きた劉が、その後ろをうろちょろしながら包丁捌きを褒め称えている。

「さっすが京一はん、刃物持たしたら右に曲がります?」
「刃物持ってどこ行くんだよ。『右に出る者はいない』だろ」
「それや、っつーかよく分かったなー」
「あーうぜー!うろちょろすんな!」
「だって暇やねん」
「ひーちゃんと遊んでろ」
「なんか媽みたいやね」
「媽?」
「あー、お母さん?」
「殴るぞ」

と言った直後に本当に殴り、しょんぼりした劉が今度は緋勇の所に来た。特にすべき事も思いつかなかったので、蓬莱寺に殴られた部位をさすってやる。そうすると劉が嬉しそうに目を細めるので、殴る→撫でるのコンボで無限ループの可愛い義弟、というそれはちょっと自分でもどうかと思うような事を咄嗟に考えてしまった。
 義兄が無表情で妙な思考をもてあそんでいるなどと知らぬ劉は、いつもより気だるげな動作で緋勇の肩にもたれかかっている。触れる体温が熱すぎて落ち着かないのだが、さりとて緋勇にはどうする事もできない。身を離すという選択肢はそもそも存在していない。
 戯れる二人を、横から伸びた足が引き剥がした。蓬莱寺は右手に粥、左手に二人分の親子丼を乗せて、そのまま器用に足先で劉を布団まで転がし、口の端を少しだけ上げて見せた。

「ほら、できたぜ」
「えええ、わいだけ白いんか」
「ワガママ言うんじゃねぇ病人が」
「あ、赤いのも乗っとる」
「柴漬けな」
「緑のは?」
「ネギ」
「それは知っとるよ」
「じゃあ聞くな」
「うわ、なんでかちょっと泣けてきた!」
「なんでだよ」
「嬉しくて」
「は?」

 レトルトの粥に薬味と漬物を添えるだけで、なんとなく価値が上がったような気になるのは何故だろう。出来合いの親子丼に箸をつけながら、緋勇はその綾なす白粥を羨ましく思った。同時に、味気も色気もない粥をこんなにも鮮やかに彩る蓬莱寺の手に嫉妬した。それを敏感に察知したのか、劉がどこか誇らしげに笑う。

「アニキ、一口いる?」
「・・・いや」
「おいこら劉、てめぇ俺の作った飯が食えねぇってのか?」
「作ったって、あっためただけやろ」
「ネギ切ってやっただろ」
「うん、おおきに」
「食ったら薬飲めよ」
「いらんよ、そんなに上がってへん」
「そーか?」

と言って、蓬莱寺が箸を銜えて右手を劉の額に当てた。ばちっと音がして劉が小さく声を上げたのはさておき、蓬莱寺が手をさり気なくシャツで拭きながら眉間にしわを寄せる。視線を尖らせて劉を睨み、更に眦をきつくした。睨まれた劉は、わざとらしいほどの素知らぬふりで顔を逸らしている。その表情が含む意味を、緋勇は理解できなかった。

 滞りなく空になった食器を流しに移動させるついでに、蓬莱寺が水と薬を持ってきた。頑なにそれを拒む劉に「ぐだぐだ言ってっと口移しで飲ませるぞこの野郎」などと凄み、緋勇に助けを求めた彼の襟を掴んで布団に押し倒す。このまま傍観していたら、本調子ではない劉は抵抗を諦めるだろうか。そうしたら、目の前で彼らの唇が重なるのだろうか。
 状況に押し流されるように、思考はまとまらず溢れては消えてゆく。追うでもなく逃げるでもなく脳裡で揺れる思考を眺めながら、緋勇は助けを求めて伸ばされた手を取った。劉が泣きそうな勢いで緋勇にすがりつく。

「アニキ!なんでそんな眠たい目ぇしとんのや!」
「薬は飲んでおけ」
「アニキがやってくれたら飲む」
「何を」
「口移し」
「ほざいてんじゃねぇぞエセ関西人!」
「いややー!アニキ!助けて!」
「ひーちゃん!甘やかすなよ!」
「・・・ええと」

彼らの遣り取りは目まぐるしくて、それでなくとも日常会話の処理速度が遅い緋勇にはついていけない事が多々ある。この時がまさにそれで、緋勇は二方向から呼ばれて戸惑いつつ、すがりつく劉の背中を撫でるくらいしかできなかった。触れた体の熱が、残りわずかとなった冷静な判断力を奪ってゆく。
 何はさておき冷やさなければ。単純化された緋勇の思考回路が、間違った解答を導き出した。

「だから雪蓮掌はやめろ!マジで死ぬから!」
「アニキに殺されるんなら」
「本望とか言ったら鼻から流し込むぞ」
「京一はんはわいを心配しとんのか追い詰めたいのかどっちや」
「るせぇ!とっとと飲め!」
「人は恐怖を感じると寒くなるというな」
「・・・ひーちゃん?」
「劉、喜べ。俺の秘拳を見せてやる」
「・・・わ、わあい、アニキの秘拳やぁ」
「劉!諦めんな!そこは抵抗するとこだ!」
「泣くほど嬉しいのか。もう少し怖がれ」
「や、もう泣きそうなぐらい怖いんやけど」
「そうか、熱は下がったか?」
「ひーちゃん、そろそろやめてやれ。本気で死ぬぞこいつ」

 緋勇にすがりついていた手が力を失い、ずるりと落ちた。緋勇がはっと息を呑む。なんでびっくりしてんだよ、と呟いた声は、緋勇の耳には届かなかった。続けて深い溜息が落とされ、緋勇の膝に突っ伏した劉が布団へと引きずられてゆく。掛け布を投げ捨てるような動作で被せ、蓬莱寺は隅に避難させておいた水と薬を手に取った。抗う気力も体力も失った劉が、それでも目だけで不満を訴える。

「そんなに飲みたくねぇのか」
「アニキが口移ししてくれたら」
「まだ言うか」
「よし、分かった」
「ぜってー分かってねぇ」
「うん、分かってへんね」
「劉が薬を飲めばいいんだろう」
「なんかもうそんなに飲みたくねぇんならいーやって気分になってきた」
「そうなのか?」
「別にほっとけば治るだろ」
「・・・そういうものか」
「ひーちゃんだって風邪ぐらい引いた事あるだろ」
「ない」
「ああ、ば・・・いや、なんでもない」
「京一はん、あの諺は『風邪だって気づかんほど』っちゅー意味やで」
「へえ、そーなんだ。まさにそれじゃねぇか」

どこか空々しい表情で交わされる会話を聞きながら、脱力した劉の髪に触れてみる。皮膚は恐ろしいほど熱かったが、髪はいつもどおりだった。髪を撫でる指に、劉がくすぐったそうに目を細めて「そんな心配せんといて」と囁く。それに返す言葉を見つけられなかったので、緋勇は何も言わずに手の平で劉の目を覆った。皮膚はやはり熱かったが、恐ろしいとは思わなかった。

 蓬莱寺は台所で洗い物を片付けている。彼がいてくれて良かったと、汗ばんだ額に触れながら思う。この手は色鮮やかな粥など作れないし、苦しい時はうずくまってじっと耐える以外に為す術を知らない。彼が不在の為に起こったであろう悲劇に思い至った訳ではないが、緋勇は自分が独りではない事に感謝した。

「京一」
「あ?」
「嫁に来い」
「はあ?ふざけんなお前が来い」
「病人の枕元でプロポーズ合戦せんといて」

だからどうか、と口にした言葉は、やはり大きく外れていたらしい。
 嫁はねーだろ、と呟いて顔をしかめた蓬莱寺に、じゃあ俺が嫁でも構わないと告げると、そんならいーぜ、とあっさり返ってきた。じゃあアニキの嫁はわいやね、などと劉が言うので、お前は弟だからと黒髪をもてあそびながら拒んでやる。そうすると、嫁は離婚するかもやけど弟はずっと弟やね、と嬉しそうに劉が笑う。蓬莱寺が、じゃあひーちゃん俺の子供になれよ、と、まるで名案のように言った。
 ふざけた口調で、その場の誰もが心だけは本気だった。
 理由も約束も必要ないと、分かってはいるのだが。