きらびやかなイルミネーションに飾られた街を横目に、蓬莱寺は桜ヶ丘中央病院へと急いでいた。
 彼が生きているのだと、まだ実感できない。否、正確に表現すれば、彼が瀕死だったという情報すらも蓬莱寺は飲み込んでいなかった。ただ途方もない喪失感と、それをぼんやり眺めている自分。心にあるのは、そんなものばかりだった。彼が隣にいないだけで、こんなにも自分が希薄になったように感じる。踏み締めている筈の地面さえ、どこか頼りなく現実感が薄い。
 今では見慣れた病院の受付を無断で通過して、階段を上ってその部屋の前に立った。ノックをしようとして、手が震えているのに気づく。僅かに自嘲を浮かべてから、頬を引き締めてドアを開けた。

 緋勇が立っていた。蓬莱寺を見て、無表情だった顔がほんの少しだけ、錯覚かも知れないと思うほど少しだけ柔らかくなる。たったそれだけの事で、蓬莱寺のこごっていた心臓が動き出した。嘲るのではなく、優しい形に唇が歪む。
 軽口のように近況を告げて、今夜が一人で過ごすには向かない夜だと主張してみた。緋勇にも想い人くらいいるだろうと、知った名前をいくつか挙げて探りを入れる。しかし返ったのは、ここに来るまでに吹かれた寒風も斯くやという冷ややかな眼差しだった。緋勇はそのままの目で、部屋の入り口に突っ立っている蓬莱寺の横をすり抜けて廊下へと出た。慌ててそれを追う。
 岩山に無愛想ながらも礼を尽くし、緋勇は上着も羽織らず寒空の下に立った。

「おい、上着ぐらい」
「構うな」
「どうした?」
「別に、どうも」
「痛むのか?」
「いや」

足早に歩く緋勇の背中に声を投げながら、蓬莱寺は彼の横顔を見て慄然とした。不覚を悔いているのだろうか。張り詰めた氣が、刃のように彼を覆っている。喉まで出かかった呼び慣れた愛称も、声にはならず腹に留まった。蓬莱寺が発した何一つ、緋勇には届いていない。幻想のようにきらめく街並みも、すれ違う浮かれた人々も、彼がその心で守ると決めた全てが、今の彼には見えていない。
 ぞくりと、蓬莱寺の体の奥に冷たい炎が灯る。復讐の念に囚らわれた彼は、蓬莱寺がこっそり夢想していた幻に、あまりにも似ていた。蓬莱寺はあの瞳に見詰められる夢を、もう数え切れないほど見ている。憎まれたいのではない。ただ一心に彼が自分を思えばいいと、蓬莱寺は誰にも知られず願っていた。
 不意に、まるで初めて蓬莱寺の存在に気づいたかのように緋勇が振り返った。燃え盛る白刃の氣が抑えられ、冷たい断絶が緋勇の唇から零れ落ちる。

「お前は帰れ」
「やだよ」
「ついて来るな」
「なんで」

緋勇の無表情な声に、苛立ちを隠さず言い返す。見くびるな。お前が悪鬼だったところで、今更どんな感情も湧かない。醜い復讐心に駆られて異形を殺戮したとして、この心はその姿さえ黄金に映す。俺を見くびるなよ、相棒。声には出さず放った言葉は、過たず緋勇に届いたらしい。張り詰めていた眼差しが、更に鋭く研ぎ澄まされる。蓬莱寺の全身の毛が逆立った。首筋に、ちりちりと焼けつくような刺激が走る。

「旧校舎だろ?」
「・・・」
「俺も行く」
「来るな」
「お前に命令される筋合いはねぇよ」

 嵐を内包したまま、緋勇は静かに歩き出した。その背中を見詰めながら、蓬莱寺の心臓は痛いほど脈打っていた。
 理解などいらない。望んでいたのは、これだ。ああ惜しむらくは、彼の心を占めるのが自分ではない事だ。蓬莱寺はその時、緋勇を傷つけた異相の剣士に狂おしいほど嫉妬した。












 沈黙のままに降り立った地の底で、緋勇が抑えていた氣を開放した。肌を打つ突風のような氣に、蓬莱寺が身震いする。
 現れた憐れな獲物は、数秒もかからず消し炭になった。それは理不尽な八つ当たりだ。己の非力を認識して、誇っていた全てを否定され、それを取り戻す術も今はなく、緋勇は子供のように当り散らしているだけだ。

「ひーちゃん」

やっと声が出た。高揚して震える吐息と共に、彼を呼ぶ。息を乱して返り血に塗れた緋勇が、ゆっくりと振り向いて蓬莱寺を見据える。呼ばれるまで、その存在すら忘れていたのだろう。少しだけ目を見張り、次いですっと目を細めた。蓬莱寺も、同じように目を細めた。

「そんなんで満足できるのか?」
「・・・」
「俺が、相手してやろうか?」

 悪夢のようにゆるりと構えをとった緋勇に、暗い欲望が満たされるのを感じた。普段は気高く澄んだ目が、狂気を宿して心を射抜く。ここが地獄だったらいいのに。永久だという無間地獄なら、もっといい。
 澄んだ狂気に射抜かれて、蓬莱寺は一振りの刃と化す。

 先に堪えきれなくなったのは、蓬莱寺だった。誘われたのだと分かってはいたが、見出した間隙に切っ先を突き刺す。水を斬ったような手応えに、冷えすぎた心臓が熱くなったように錯覚した。完全に絡め取られるより早く、体ごと低くして緋勇の掌から危うく逃れる。
 受身をとりながら、その遠心力を利用して緋勇の脛を薙ぐ。それを避ける為に緋勇が跳躍した。その着地を待たず、蓬莱寺が地に仰臥したまま足を振り上げる。腹を狙った爪先は、しかし堅強な膝に受けられた。絡まり合って地面を転がり、互いに間接を極められる前に身を離す。
 今度は緋勇が先に仕掛けた。上体を低くして、蓬莱寺の死角に走り込む。咄嗟に跳びすさった蓬莱寺を追って、速度を上げて更に深く踏み込んだ。ほとんど勘だけで、飛んできた拳を刀背で叩き落す。砕かれぬよう、ただ受けるのではなく流すのだと、蓬莱寺の体は知っている。教えてくれたのは、数え切れないほどの死闘だ。彼と共に、または彼を追って、蓬莱寺はずっと己を研磨し続けた。遥か彼方と思っていた背中が、確かに近づいている。その確信に、蓬莱寺は歓喜の声を張り上げた。
 軌道が見える。流れが見える。複雑な道を通り、緋勇の拳が自分に向かって来るのが見える。奇跡のような軌跡を描く、彼の心が今は見える。

 彼はどうしてそんなに強いのかと、蓬莱寺は拗ねて嘯いた記憶がある。それは才能なのだろうか。そんな風に考えた事も。凡夫が血と汗と涙を流して得るものを、彼は産まれながらにして持っているのではないか、と。なんて莫迦な事を考えたのだろう。蓬莱寺が流した血も汗も涙も、彼より少なかった。ただそれだけなのに。
 無残に折られた彼の矜持が見える。汚された誇りが見える。その痛みを、蓬莱寺はもう知っている。緋勇と出会わなければ知らなかったであろう屈辱と慙悸を、蓬莱寺はその身に刻んでいた。

 ふ、と緋勇の姿が消えた。身構える余裕もなく、真下から突き上がった踵が顎をかすめる。身を引くのがあと僅かでも遅れたら、脳漿を撒き散らしていただろう。認識した事実に、背筋が震えた。そんな刹那の戦慄すら許さず、緋勇が次手を放つ。瞬きの間さえ許さず、彼は蓬莱寺の全てを欲している。五体と五感の全てを寄越せと、我を忘れた緋勇が無心にねだる。
 血が沸いた。

 振り下ろされた拳を刀背で流し、刀先を緋勇の顔面に突っ込む。米神をかすめた切っ先の行方には一切の関心を払わず、緋勇が拳から続く肘を突き出した。左手でそれを払い、殺しきれなかった威力にじんと痺れる音を聞く。瞬きの音さえ聞こえたような気がして、自分が認識している世界とは即ち脳が作り出す幻に過ぎないのだと実感する。彼が綺麗だという蓬莱寺にとっての揺ぎない事実も、世界にとっては真実ではない。彼はただ傲慢で、人を傷つける事しかできない愚かな男だ。大義名分を与えられた暴力に酔って、自分を英雄のように勘違いしている莫迦だ。

 緋勇が放った右肘を払いのける。自分の腕でできた死角から、何がどうなっているのか緋勇の足が落ちてくるのが見えた。防御も間に合わず、辛うじて顔を逸らして急所に直撃は回避する。しかし暗くなった視界を取り戻す時間も与えられず、ましてや揺らいだ体を立て直す時間など与えられる筈もなく、遠心力と体重の乗った回し蹴りを、結果的にはもろに食らった。
 意識が落ちたのは一瞬の事で、体はまだ倒れてもいなかった。だが蓬莱寺は、その一瞬を惜しむ。緋勇が人を殺すのに、一瞬も必要としないのは知っている。気高い心が、そんな自分の力を憎んでいる事も。そして蓬莱寺も、右手の愛刀を突き出すのに一瞬も必要とはしていなかった。あるいは、意識を手放した瞬間すらも、愛刀は向かう先を見定めていたのかも知れない。

 緋勇の拳と蓬莱寺の刀が、同時に互いを捉えた。
 それが触れたら、間違いなく即死。

 緋勇の方が、ほんの僅かに早かった。恐ろしいまでに正確に、最短距離で急所へと向かっていた拳が、僅かに揺らぐ。反応が遅れた蓬莱寺が我に返った時には、勢いを殺しそこなった切っ先が緋勇の耳をかすめていた。接触部位は小さかったが、純粋なる殺意を含んだその刃は、蓬莱寺の渾身の攻撃だった。決死と表現しても過言ではない。
 緋勇がぐらりと体を傾がせた。しまったこれひーちゃんだった!などと言葉にできる訳もなく、倒れ込んできた緋勇の体を、愛刀を投げ出して受け止める。額を押さえた緋勇が、心臓の近くで低く呻いた。

「ひーちゃん!しっかりしろ!」
「・・・本気だったな今の」
「わりー、夢中になっちまってよ」
「俺は止めたのに」
「悪かったって!」
「本気で俺を殺そうとしたな」
「ちっ違うんだよ!あの、なんか、止まんなくってさ」

言い訳しながら支える蓬莱寺の手を、緋勇がゆるく払いのける。しかし蓬莱寺はそれを許さず、それどころか緋勇を両腕で胸に抱き込み、「だってひーちゃんが誘うから」などと責任転嫁を始めた。お前だって途中までノリノリだったじゃねぇか。むしろ先に熱くなったのお前だろ。だんだんと恨み言のようになってきた言葉をせめて耳元から遠ざけようと、緋勇が押し付けられた胸に拳を当てた。しかしすがるような拘束は解かれず、言い訳のような恨み言のような声は涙混じりになってなおも続く。
 肩を掴んだ蓬莱寺の手が震えているのに気づき、緋勇は抱かれたまま溜息をついた。なんという矛盾だ。失えば嘆き悲しむと分かっていながら、それを打ち砕く時を望んでいる。屈服させる事を夢想しながら、そんな彼の姿は見たくないと願っている。難儀な性分に産まれついてしまったと、早鐘のような鼓動を聞きながら緋勇は思う。
 この鼓動は恐怖によるものか、それとも興奮によるものか、はたまた両方なのか。同じ速さで音を立てる自分の鼓動を聞きながら、緋勇は拘束からの脱出を諦めて体重を預けた。すると寄りかかった胸がびくりと震え、止め処なく溢れていた言い訳が止まった。

「ひーちゃん?」
「・・・」
「ひーちゃん!」
「うるさい」
「あ、なんだ、死んだかと思ったぜ」
「見くびるな、お前ごときに俺が殺せるか」

胸に頬をつけたままそう言うと、肩を抱く手に力がこもった。痛くはなかったが顔を上げると、獰猛な笑みを浮かべる唇が見える。やってみるか?と、その唇が囁くと、疲れた体が再び昂ぶるのを感じた。
 難儀な二人の凄絶にして苛烈な夜は、まだ終わりそうにない。