はらはらと音が聞こえて、緋勇はふと顔を上げた。細かい雨が葉に落ちて立つ音だった。更に上を見れば、薄暗いのにほのかに明るい不思議な空が見えた。 ああ、優しい彼が泣いているのだと、嬉しくも悲しくも思う。 上げていた視線を下ろして、足元を見る。すり切れた靴は、いつだったか彼の隣を歩いていた頃の物と同じだった。もう形も失われているかと思っていたが、靴はまだ靴だった。ぼんやりとしたまま、緋勇は安堵する。 手の平に指を握り込み、拳をつくってみた。腕から肩へと、腰へと、膝へと、踵から大地へと、力が伝わる。思考など必要とせず、それは前に突き出される。貫くために、真直ぐに。 突き出した拳に、雨が落ちた。心がふるえる。これは彼の涙だ。彼が泣いている。すぐさま走って行って、泣くなと言って抱きしめてやれたら、少しはこの心も安らぐのだろうか。まあ、たぶんできないだろうが。たとえ彼のもとへと走って行けたとしても、抱きしめる前に目を逸らしてしまうだろう。彼の泣き顔など、きっと直視できない。 濡れた拳はほどかぬままに、緋勇は汚れた靴で大地を踏みしめる。できるだけ、遠くに行きたかった。誰にも知られないように。 落ちる雨音に、蓬莱寺は顔を上げた。窓越しに空を見れば、夜明けのような夕暮れのような、なんともいえず玄妙な色が見える。その色を名状する言葉を蓬莱寺は持っていなかったが、ただうつくしいのだと、心のどこかで思った。 この空は、彼の心だ。いつからか、そう確信していた。彼が泣くと、空も泣く。それはすでに確立された摂理であり、真実など知らぬ蓬莱寺の唯一の信仰だった。滑稽だと、時折りふと思わないでもないが、だからといって他に術を知らぬ、蓬莱寺は畢竟するに愚かな男だった。 もうだいぶ永らく、晴れた空を見ていない。 それは取りも直さず、彼が今でも嘆いている事の証明でもある。ひっそりと、蓬莱寺は暗く愉悦を頬に浮かべる。 触れるこの手を、名を呼ぶ声を、欲して彼は泣いている。胸の奥が、ふつと沸き立つ。 じっと押し黙っている左手の袱紗包みを、きつく握り締める。 泣くな、すぐに俺が行くから。届きはしないと分かっていても、彼に語り掛ける。届きはしないと分かっているが、有り得ない事が起こったら、と想像するのを止められない。分かっているのに。 この期に及んで、緋勇はまだ自分が向かう先を知らなかった。知ろうともしなかった。闇雲に踏み出した足は、それでも迷いなく進む。向かう先は知らずとも、来し方の後ろは当然ながら知っている。歩いてきた道なき道の最初の方に、彼がいる。彼から遠ざかる事だけを考えて、今まで歩いてきた。 世界の中心から逃げ出すような心地で、今も歩いている。 雨がやんだ。 やっと泣きやんだかと、つぶやいた声は誰にも届かず、草を踏む音に紛れて消えた。 誰かに慰めてもらうといい。彼は好かれているから、きっとひとりにはならないだろう。嘆いても、悔やんでも、彼に虚無は訪れない。彼の背を叩き、肩を抱いて、笑いかける誰かがいる。想像の中のそいつにちょっとそこ代われとかは思っていない。思っていない。もう一回ぐらい言っておこう、思っていない。 雨がやんだので、宿を発った。少し遅い出立になったが、まだ朝だ。曇天ではあるが、薄く日が出てきている。どうやら彼の機嫌もなおったらしい。 彼を助けようとする者は、蓬莱寺が知るだけでも多くいる。自分よりも頼るに足る人も、悔しいが認めている。知識もなく、思慮に欠け、感情的に決断し、力任せに叩き斬るだけ、という自己認識は、事実と大きく差異はない。 たとえば彼が頼るとしたら、冷静で思慮深く、またいざという時の戦力にもなり得る者だろう。数人は、思いつく。機嫌を取り持つほど彼を知っているとも思えない(思いたくない)が。 息を吸い、意識を凝縮しつつ拡散する。矛盾するようだが、どうにも説明の難しい感覚なのだ。集中し、解き放つ。これは、彼に教わったやり方だ。 胸の奥がじんと痛む。彼の痕跡を見つけただけで、こんなにも苦しくなる。蓬莱寺はたまらなくなって、地を蹴って走り出した。いつもそうだ。彼を見つけると、いてもたってもいられなくなる。 彼の声が自分の名を呼ぶのを、ずっと待ち望んでいたのだと、認める前に少しだけ抵抗したい気分だった。つまり緋勇は、彼の気配を察するとほぼ同時に全速力で走り出した。 背後で何やら声が聞こえた。間違いない、彼の声だ。逃げ出したいというよりも、体がはじけるような心持ちになったのだ。大声を上げて、どこまでも駆け抜けてゆきたいような。 「おいこら待ちやがれ!」 「ついに追いついたか、京一」 「え、ちょ、まだ、もうちょっと」 「俺の居場所を突き止めたのは、褒めてやる」 「お、おう、まあな」 「だが、俺が簡単に捕まると思ったか」 「いや、あんま思ってないっつーか」 「追いついて見せろ、京一!」 「むしろいい加減にしろっつーか」 もしかしたら、終わりなど来ないのかも知れない。彼の相棒は疑うべくもない人間で、やがて来る老いは終わりではなく安らかな眠りで、膨大な氣はいつしか空と地の深いところへと溶けてゆき、限りある命をともに過ごしていられるのかも知れない。 そんな夢を、緋勇は醒めたまま見ていた。 「何がしたいんだお前は!」 空が泣きやんだ。まるで彼のような空が、高く青く心を突き抜ける。 |