午前2時を少し過ぎた。あいつはまだ戻ってこない。部屋のカーテンが開いていて、見たくもない月が見える。月明かりは、なんとなく嫌いだ。思い出したくもない事を思い出させる。
 早く戻ってこいと願っても、今はいない人には届くはずもない。当然なのに、俺はそれが理不尽に感じられてしまう。こんなにも願っているのにどうして届かないのだと、俺には知りようもない何かを憎みたくなる。無為だ。惨めだ。

 憎しみとよく似た虚無感が、うすらぼんやりと虚空に遊ぶ。俺はそれをなす術もなく遊ばせながら、あの足音が近づくのを待っていた。

 窓の外で声がした。ひそめた声はそれでも浮かれた色を滲ませていて、それに応えるあいつの声も、聞いていて恥ずかしくなるような感情をまるで隠せていない。もうお前ら、一緒の墓に入ればいいのに。あ、いつも入ってるのか。ちくしょうばかじゃねぇの(俺が)。

 俺の心など知らず、あいつは部屋に戻るなり上着も脱がずに抱き着いてきた。いつもの事だ。俺はその冷えた体を、できるだけ優しく抱き締めかえす。少しずつ弛緩してゆく体が、泥のような眠りに落ちるまで、何も言わずにあたためてやる。眠ってからも、ずっと。
 俺につつまれたまま、あいつが上着を脱ごうと身をよじった。その動作を邪魔しないように、少しだけ隙間を作ってやった。そうすると、あいつはさも不本意そうにすり寄ってくる。そんなに俺が好きなら、ずっと俺の傍にいればいいのに。

 上着を脱いで、靴下も脱いで、あいつは完全に俺に身を預けた。俺は黙って冷えたその体を柔らかくつつんでやる。それがあいつの望みだと知っているから。
 このまま眠りに落ちるのを見届けて、朝まで抱いてやるのが、俺の役目だ。それなのに、今夜はどうにも眠れぬ夜のようだ。

 眉間にしわを寄せて、あいつは泣きそうな顔で俺にすがり付いてきた。泣けばいいと、俺は優しくその頬に触れる。柔らかい髪も、白い首も、冷えた手足も、痩せた体も、物理的に触れられる部位のすべてを撫でてやる。
 そうすると、涙ではなく声が零れ落ちた。

「死ねばいいのに」
『そうだな』
「なんで死なないんだ」
『なんでだろうな』
「死ね」
『うん』
「誰か殺してくれ」
『お前のその他人任せ癖は、どうしたら治るんだろうな』
「どうにもならない」
『諦めの速さも』
「・・・無理だ」

 ぎゅっと端を掴まれた。痛くはないが、あいつの心を想像すると、痛みを感じるような気がする。綺麗な白い指が俺を掴んで離さないのは、俺が好きだからじゃない。そんな事は分かっている。

 閉め忘れたのか閉める意思がなかったのか、カーテンはまだ開いたままだ。傾いた月は、これから満ちてゆくのだろうか。それとも欠けてゆくのだろうか。どちらにしても、俺には関係ない。天上の事など、俺にもあいつにもまったく関係ない。
 日が昇ろうと沈もうと、関係ないんだ。そうだろ?

 それでも朝になればあいつは目を覚まして、離れたくないと全身で叫びながらも俺から離れてゆく。まるで自身を引き千切るような気持ちで俺から離れてゆく。どうしてずっとこうしていられないのか、世界を憎みながら、世界に続くドアを開けるんだ。覚悟もないくせに。

 せめて朝が来ないように願いながら、俺はあいつの涙を受け止める。












 願い叶わず、朝が来た。せめてと彼の顔を覆い、残酷な朝日をやわらげる。朝にも気付かず眠るのに、目蓋はあまりに薄すぎる。
 安心しろ、まだ午前中だ。まだ眠っていても問題ない。そんな俺の心は、やはり届かない。無遠慮な声が部屋に入ってきた。声だけならまだしも、体ごと。

「おーい皆守ー」
「うるせぇ」
「お前もう、毛布と結婚しろよ」
「祝福してくれるか」
「いや、しないけど」

 俺になす術はない。俺の切望も悲願も、すべては空虚な幻でしかない。引き離され、俺は床に落とされた。それでも手を伸ばしてくれるあいつが、どうか救われるようにと願うのも、きっと無意味だ。

「なんて事しやがる!」
「お前と毛布の仲の良さに嫉妬した」
「そうか、ならしょうがないな」
「あ、待って何事もなかったように寝なおさないで」

 あいつの手が俺を引き寄せる。俺はまだ必要とされているのだと、虚しくも安堵する。
 日が昇ってからの俺は、どうしようもなく弱気だ。夜はあいつの方からすがってきたのに、朝になれば俺があいつにすがり付く。

「さあカレー食え!」
「寝起きにカレーとか、狂ってるなお前」
「え、なにその正論」
「俺はいつも正論しか言わない」
「正論って暴論のこと?」
「まあ、正論と呼ばれるものの多くは論拠のない多数派の意見でしかないという事実は否めない」
「せ、正論だー!」

 無意味だが、願わずにいられないのが俺の弱さだ。
 どうか、どうしようもないあいつに安らぎを、と。