ふと見上げると、月が少しだけ傾いていた。右手には清酒を満たした杯。隣には、言葉少ない友人が座っている。春の宵はのろりと酔いの上がった頬を撫で、月は音もなく空を泳ぐ。縁側に腰掛けて、飲もうと誘ったのは蓬莱寺だった。

 くいと杯を干し、蓬莱寺は溜息をついた。眠くなってきたと口中で呟き、杯を置いて両手を後ろに付く。眠ればいいと、緋勇がささやくような音量で告げた。なんて魅力的な誘いだろう。抗わず、体を横にした。丁度良い位置にあった枕に頭を乗せて、蓬莱寺は目を開けたまま睡魔が下りてくるのを見る。ふ、と吐息の音がして、硬い指が髪を撫でた。思わず目を細めると、指がくすぐるように米神をかすめる。

 寝たのか?
 低い声で緋勇が問う。眠るなんて勿体無いと、声に出すのは億劫だったので心の中で返す。そうすると、髪を撫でる手が頬に落ちてきた。寝心地の悪い枕が、わずかに振動して夢路をさえぎる。緋勇の大腿を枕にしたのは失敗だったな、と揺られながら思った。
 俺を枕にするな。
 優しく責められて、知らず口の端が歪む。髪を梳く手は穏やかで、その手が自分以外に触れぬようにと願った。
 ことりと音がして、次いで瓶の蓋を開ける音、とくとくと注がれる音と、ふわり香る酒気。まだ飲むのかと苦笑して、こんな事でも彼に勝てないのだと悔しくなる。くっと緋勇の喉が鳴り、またしても枕が揺れた。動くなと口にする代わりに額をこすり付けると、即座に頭をはたかれた。痛くないが、胸が切なくなる。彼の拳はもっと速くて鋭い。こんな風に甘やかされるのも悪くないが、どうせなら打ち合いたい。













 膝の上で眠ってしまった相棒の髪をもてあそびながら、緋勇は思った。今この首を絞めたら、彼はなんと言うだろう。驚くだろうか。それとも、いつものように仕方ねぇなと笑うだろうか。憎むだろうか、許すだろうか。それとも、思いも寄らないそれ以外の反応を寄越すだろうか。
 ぼんやりと浮遊するように考えながら、無防備に晒された首に指を当てる。息の根を止めるのは実にたやすい。少しだけ押してやれば、それで彼は永遠に絶命する。
 ふと、薄く開かれた唇に目がいった。ゆったりとした呼吸が彼のおおらかな心を表しているようで、不思議と気持ちが柔らかくなる。凝り固まった腹の中のわだかまりが、溶けてほどけてゆくようだ。首に当てていた指を滑らせ、緩んだ口元に触れてみた。くすぐったいのか、安らかだった寝顔が眉を寄せ、枕にしている大腿に頬をすり寄せ、低く唸り、何事か不明瞭な声で呟いた。

 たつま、と聞こえたような気がする。意識が情報を構築した瞬間、何かを壊したいような、叫びたいような、走り出したいような、とにかくよく分からない嵐が緋勇の胸中に巻き起こった。暴走する心臓を叱咤して、散らばった自制心をかき集める。名を呼ばれただけだと自分に言い聞かせ、飛んでいった理性を引き戻す。
 そんなに潰されたいのかこの野郎。口中で呟くと、少しだけ嵐が弱まった。人の気も知らないで幸せそうに寝こけやがって。しかも人を枕にするなんて、襲われても文句は言えない。そうだ、襲ってしまおう。
 結論が出たところで、緋勇はふと冷静になった。彼が死んだら自分はとても困るという事に思い至り、では殺さずに苦しめる方法を、と考えたが何も浮かばない。そもそも彼が苦痛を感じて、自分が穏やかでいられる筈がない。しかし、それはなんだか理不尽だ。自分だけが苦しんでいるような気がする。悔しい。

 そういえば、と酔いの回った脳が記憶を探り当てた。相棒が行方をくらますと、彼は動揺するらしい。たしか証言者は霧島だった。それならば信用に足ると判断し、緋勇は腰を上げ、ようとして困惑した。立ち上がれば、膝に乗っている頭は落ちるだろう。そうすると、彼は目覚めてしまうだろう。こんなにも幸せそうに眠っているのに、起こしてしまうのは可哀相だ。ところで足が痺れてきたのだが、これはどうしよう。
 途方に暮れて、夜空を見上げる。三日月が声もなく無力なこの身を嘲笑していた。













 切っ先を、白い胸に滑らせる。色づいた傷跡をなぞると、死の恐怖か恍惚か、やけに甘やかな吐息が零れた。喉を通って首筋に触れて、頬を撫でてまた喉に。ここを斬り裂けば、彼は絶命する。白刃に肌が映り込み、目を焼いた。赤が見たいと強く思う。黒い瞳が冷たく光り、ゆらりと泳いで伏せられた。
 堪らなくなって刃を刺し込んだら、そこで目が覚めた。

 世界は朝だった。頭の下には何故か緋勇の背中がある。突っ伏して寝ている緋勇の上に乗っているのだと気が付いて、早く起きなければ彼は怒るだろうと考えた。考えたが、頭が重くて上げられなかったので諦めた。あたたかい体に頬を寄せて、しばし夢の名残を堪能する。そうするうちに、再び目蓋は落ちていた。

 息苦しさに呻いて目を開けると、緋勇が腹に頭を乗せていた。人を枕にするとはいい度胸だ。思わず頬が緩む。しかも腰の辺りに手が投げ出されていて、朝の生理現象が今日も元気な蓬莱寺には少しばかり困るような、嬉しいような、いや、やっぱり困る。しかし無防備に眠っている緋勇を起こさずに身動きをとるのは不可能で、どうしたものかと天井を見上げる。
 黒髪を指に絡ませてその感触を楽しんでいると、緋勇が身じろいだ。蓬莱寺の手から逃げるように、更に下へと移動した。さすがに慌てて上体を起こした瞬間、掴まれた。何を、とは、聞かないで欲しい。掴まれて、天を向いたそれをぐいと鬱陶しげに押しのけられて、蓬莱寺は叫んだ。













 物凄い声が鼓膜を震わせ、緋勇は即座に身を起こした。膝をつき、音の発生源に鋭い眼差しを向けた瞬間、血の気が引いた。
 眼前では、蓬莱寺がうずくまり、苦痛に堪えるような声を発している。攻撃的な気配ならば、たとえ寝入っていようとも察知できる筈だ。不穏な氣は感じなかった。手を伸ばせば届く位置で、相棒に何があったというのか。彼にもしもの事があれば、冷静ではいられない自分を緋勇は認識していた。名を呼びながら、その背中にそっと手を当てる。
 どうした、と問えば、涙の滲んだ目が恨みをこめて緋勇を睨んだ。ますます混乱する。何があったのかと重ねて問うと、蓬莱寺は無言で首を横に振った。自身を抱き込むように体を折り曲げ、いつの間に移動したのか記憶にないが畳の上で丸くなっている。

 状況を把握できずに戸惑うばかりの緋勇の背後で、ゆらりと剣氣が立ちのぼった。思考する余裕すらなく、振り向きざま間合いを詰める。視界に入ったのが人間と同じ形であると脳が判断するや否や、首を目掛けて手刀を突き出す。
 まるで鉄同士が触れ合ったかのような音が、のどかな朝を震撼させた。













「なあ、お前ら」
「あ、ひーちゃん醤油とって」
「俺は忙しい、あとにしろ」
「留守中に上がり込んだのは、まあいいとしても」
「醤油ぐれぇとってくれたっていいだろ!」
「まったく、しょうがない奴だ」
「勝手に人の酒で晩酌したのも、まあよくないが、いいとして」
「京一、刺し箸はやめろ」
「だって逃げるんだよこいつ」
「当然のように朝飯まで食ってるのも、大目に見てやる」
「ところで京一」
「ん?」
「俺が訊きたいのは」
「さっきは腹でも痛かったのか?」
「あ、いや、大したこたぁねぇよ、気にすんな」
「なんで家に帰った途端に殺されそうになったのか、という」
「そうか?」
「おうよ、んな顔すんなって」
「素朴な疑問なんだが」
「次はもうちょっと優しくしてくれよ」
「よく分からんが、善処しよう」

 卓袱台がひっくり返ったのは、全ての皿が綺麗に空になってからだった。