喪部にとって、葉佩は友人ではない。抱いているのは本能にも近い危機感だけだった。殺意すら、そこには存在しない。殺さなければ死ぬ。その事実だけが、絶対のルールとして其処にあった。
 喪部は、その葉佩の部屋で読書をしていた。時間は宵の口を少し過ぎた辺り。夕食を終えた葉佩が部屋に戻った時、既に喪部は室内で本を手に俯いていた。自室の常と違う気配を察知した葉佩は、ドアを開けるや否や構えを取った。見当を付けた侵入者の居場所に銃口を向ける。ドアの外側から撃たなかったのは、そこが学生寮の廊下だったからに過ぎない。その程度の良識は、最近身に付けたらしい。椅子に座っているのが喪部だと気付くのがあと僅かでも遅ければ、間違いなく発砲していただろう。勿論、二人同時に。

「・・・何だ、お前かぁ」
「ボクならいいのかい?」

喪部の言葉には答えず、葉佩は銃を懐にしまった。そのまま喪部に背を向けて、ベッドの上でメールの確認作業に入った。喪部も手元の本に視線を戻した。

 それから一時間ほど経ったが、葉佩は一度も喪部に向けて言葉を発しなかった。沈黙の合間に独り言だけを吐き出している。目を合わせる事もない。それが開始の合図だと、双方が認識しているからだ。葉佩は弛緩し切っている。喪部も、特に緊張した素振りは見せていない。どちらかがスイッチを入れなければ、精神状態はオフのままだ。葉佩はそれを知っている。
 紛い物の静寂に、葉佩が声を落とした。それが独り言ではないと気付くのに、喪部は数秒を要した。呼び掛けられたのだと気付いても、喪部は顔を上げなかった。ねえ喪部、と、葉佩が焦れたように名を呼ぶ。反応の無い相手に、葉佩は歩み寄った。漸く顔を上げた喪部の腕を、無造作に掴んだ。喪部が懐に抱いた鉄を強く意識する。
 葉佩は喪部の腕を掴んだまま、H.A.N.Tに目を落としている。資料を検分している内に、どうやら何かを思い付いたらしい。

「喪部ってさぁ、蘇我氏のことどう思う?」
「別に、どうとも」
「物部氏は、蘇我氏に滅ぼされたんだっけ?」
「さあね、ボクは本当のことなんか知らないよ」

名前からの連想なのだろうが、唐突に腕を掴んでまで話す内容なのだろうか。喪部は掴まれた腕を振り払い、読書に戻った。正確には、視線を本に落とした。既に意識は隣の《宝探し屋》に向いている。文字など頭に入って来ない。もともと興味があって読んでいた物ではない。ただ、葉佩の部屋にその本があるという事実は興味深く思えた。退屈でなければ目にも入らなかっただろうが。既に読む価値を失くした本を眺めながら、喪部は葉佩の言葉を待った。
 喪部の反応など気にも留めず、葉佩は彼自身の脳内でしかで繋がっていない情報を並べている。脈絡が無いように見えて、極稀にだが美しい円環を描くその思考を、喪部は密かに気に入っていた。

「じゃあアマテラスは?」
「可哀想な女だね。夫を奪われて、似合わない服を無理矢理に着せられて」
「アマテラスの夫?」
「ボクにはそう見えるってだけの話さ」
「日の巫女・・・つまり、太陽神に仕える巫女。彼女じゃなく、太陽神が他にいたってこと?」
「そんなことは知らない。知りたいとも思わない」

葉佩の脳が働き出したのを察して、喪部はヒントを出すのをやめた。以前、そのような説を読んだ事があるだけだ。それが真実だとは思わない。時の為政者の意図で、或いは正義の名の下に、秘匿された真実がある。その事実が、喪部とそれ以外のハンターと呼ばれる全ての人間を駆り立てているのだろう。その姿を俯瞰したら、蟻の行列に良く似ているのかも知れない。

「ニニギよりもずっと前に降りてきて、名前に日のつく神がいたよね」
「そうだったかな?」
「それが、ヤマト以前の国で信仰されてた太陽神?」
「そういう説も、聞いたことがあるね」

洋の東西を問わず、侵略者が好んで採用する同化政策だ。信仰されていた神を習合し、貶める。或いは自然に融合していった例もあるのだろうが、往々にしてそれは意図的に行われる。その結果、神話は複雑怪奇な系譜の羅列で埋め尽くされる。神という存在は専門家の独壇場となり、人々が崇めるのは上澄みの、為政者にとって都合の良い偶像と成り果てた。
 そもそも古くは、宗教と政治は同一のものだった。人を人が支配する機構が、神を作り上げたのだろう。禁忌など、本当には存在しない。葉佩も喪部も、それを知っていた。死という不条理に触れ、我が身の不遇を嘆いた時にこそ、祈りは生まれる。浅ましい欲望に大仰な名前を付け、本能の命ずるままに安寧を求める。それを高尚などと、笑わせてくれる。
 清き信仰など、喪部は今まで見た事が無かった。信じるべきものなど、何処を探しても見付からなかった。それを憐れだと言う者には、鉛玉で応えてやった。

「物部氏は、その人達の子孫かもしれないね」
「ボクの名前は喪部銛矢っていうんだ」
「へえ、もりや・・・あ!知ってるよ!うん、知ってたよ!」

自分がかつて葉佩と同じ結論に至った事を、喪部は口にしなかった。有名人と名前が似ている。それだけだ。多くの人間がそうであるように、喪部は自分の根拠など知らない。それが人為的に隠されているものであれ、ただ時の堆積に埋もれてしまっただけのものであれ、眼前に存在しない事には変わりない。
 振り向いても、来た道が見えない。それは、行く道だけを見詰めている葉佩にとって恐怖ではない。だが喪部には、泥濘のような闇が酷く煩わしかった。この闇を払えば、信じるべきものが見えるかも知れない。

「じゃあヤマトは、征服した国の巫女を神に祀り上げたのかな」
「神っていう存在を考えれば、不自然なことじゃない」

アニミズムとは質の違う、罪悪感が生み出した神。自らの繁栄の犠牲になった者達への畏れが、この狭い国にひしめいている。死者の霊魂を慰める為に生み出された神という存在に、喪部は取り立てて異を唱えようとは思っていなかった。人間を嘲笑う理由になるからだ。自分の手で殺しておいて、許されると信じるその幼い傲慢。唾棄すべき醜悪さだ。
 かつて自分が滅ぼしたものなど、喪部は憶えていなかった。葉佩は、どうなのだろう。ふと疑問が浮かんだが、訊くまでもないと思い直す。葉佩は、背後に何があろうと気にも留めない。前に何があろうとも、進む事をやめない。強固な意志は、妄信とどう違うというのか。根拠など持ち得ない男なのに、葉佩はそれでも探究を諦めない。

「持統天皇は?」
「きっと、踊らされていたんだよ」
「何に?」
「さあね。もういいだろう?その話はもう飽きたよ」
「彼女を神格化するために、女神が必要だった、てのはどう?」
「どこかで読んだよ、そんな話」

事実、それほど目新しい説ではない。そういった系統の書物を広げれば、有り触れたものとさえ言える。葉佩が表情を失くした。スイッチが入った合図だ。深奥に沈み、思考の海で遊び始めた。こうなった葉佩に言葉は届かない。尤も、普段もあまり届いている手応えは無いのだが。一人で虚空に単語を発する葉佩を置いて、喪部は部屋を出た。
 今夜は邪魔されずに動けそうだ。ひっそりと零れた笑みは、誰にも届かず闇に消えた。
 行く道を照らす明かりさえ必要とせず、一人で闇の中を進む勇気を、喪部は羨ましいとは思わない。それは死を恐れぬ愚行だ。葉佩は遠くない未来に、一人で朽ち果てるのだろう。或いは、その死を与えるのは自分かも知れない。今のところ、その可能性は高い。せめて、ほんの一時でも、この乾き切った心に慰みを。それが祈りと良く似ている事を、喪部は知らない。
 過去への情熱は、即ち内省と同質のものではないのか。だとすると、自分を省みない葉佩が真実を得られる道理は無い。

 結局は自分も縛られているのだと思い当たり、喪部は笑った。
 まさか自分が、自由を求めていたなどと。これが笑わずにいられるか。