緋勇が居る、と思った。何故こんな場所に緋勇が居るのかという疑問は感じたが、居るのならば本人に訊けば良い。さしたる躊躇も無く、蓬莱寺はいつも通りに彼の名を呼んだ。

「緋勇!何してんだこんなとこで!」

緋勇が振り向き、声の主に視線を合わせた。湖のような瞳が蓬莱寺を見詰める。
 蓬莱寺の胸中に、一筋の違和感が走った。蓬莱寺は緋勇を知っている。ほとんど毎日顔を合わせているし、彼の纏う一種独特な氣は間違えよう筈も無い。だが違う。思考よりも深い部分で、蓬莱寺は確信していた。目の前にいるのは、緋勇によく似た別人だ。
 人違い、という言葉がまず浮かんだ。直後に思い直す。別人にしては、似すぎている。しかし具体的に何が違うのかと自問してみても、明確な解答はさっぱり出て来ない。許容量を越えた事態に、蓬莱寺の思考力は仕事の大部分を放棄した。

「緋勇、じゃねぇのか?」
「いや、緋勇だよ」
「なんだ、そっか」

記憶にあるよりも幾分か穏やかに響いた声は、やはり緋勇と同じに聞こえる。そしてその言葉の内容に、蓬莱寺はあっさりと納得の仕草を見せた。感じた疑念は早くも埋没したらしい。しかし、一つが埋没すると同時に新たなる疑念が次々と浮かび上がる。緋勇(?)が浮かべる表情は、未だ蓬莱寺が見た事の無いものだった。遠い記憶を懐かしむような穏やかなその顔は、蓬莱寺が知る緋勇とはかけ離れている。緋勇はもっと無表情だ。
 いつも思っていた。緋勇は全てを押し殺す。その事に怒りを覚える度に、蓬莱寺は自分が落ちて行くような錯覚を感じた。緋勇を見る度に、其処にあると思っていた道が崩れ去る。信じていたものが、本当はその価値も無かったのだと、突き付けられたような気分になる。緋勇に会うまで、蓬莱寺は自由だった。心も体も自身の支配下にあった。
 緋勇にも激情が存在すると知ったのは、つい最近だ。黒い鳥を従えた男が、鉄塔の淵で語った言葉。それに、緋勇は怒気を叩き付けた。何故だかは分からない。だが尖った氣に圧倒されながらも、心の奥では安堵した。彼にも、感情がある。当たり前のその事実に、蓬莱寺は自分でも不思議なほど安心した。その時に分かった。この心は、もう自分のものではないのだと。

「なあ緋勇、何であのとき怒った?」
「うん?」
「ほら、鴉退治に行ったろ?」
「それは俺じゃないよ」

静かな表情で、不可解な事を言われた。やはり、緋勇ではないのだろうか。続く言葉を逸して、蓬莱寺がその凪いだ湖面のような瞳を見詰める。すると、細波のように湖面が微笑んだ。
 違う。この人は緋勇ではない。蓬莱寺が再び確信した。珍しい苗字だと思っていたが、もしかしたら自分が知らないだけで割りとよくある名前なのかも知れない。或いは親戚か。後者の確率が高そうだ。

「お前が知ってる緋勇は、俺じゃない」
「そーみたいだな」
「ごめん」
「謝る事ねぇだろ。俺が勝手に勘違いしたんだから」
「でも俺は、お前に会いたかったんだ」

透明度の高い瞳が、まるで愛しい人を見るようにさざめいた。緋勇にそのような目で見られているように錯覚する。蓬莱寺が、何となく居心地の悪さを感じて視線を泳がせた。その仕草に、緋勇(?)がまた笑った。子供のように無邪気な表情に、蓬莱寺の心臓が音を立てて軋む。記憶の中の彼の人は、そんな風には笑わない。

「やっぱ似てねぇや」
「そうか?」
「うん、ぜんっぜん違う」
「そうか」

嬉しそうに微笑む、緋勇によく似た顔を見詰める。記憶の中の、張り詰めた表情で押し黙る人を思う。辛い道を歩んできたのだろうと、そう思う。だが、彼はもう一人ではない。その事実を、強く心に浮かべる。
 不意に、緋勇(?)が問うた。

「お前が知ってる緋勇は、どんな人?」
「んー、あんま笑わねぇな」
「そうなのか」
「うん、いっつも渋い顔してる」
「お前の前でも?」
「誰の前でもだよ!」

言いながら、蓬莱寺の胸に理不尽な怒りが湧き上がった。一人で全てを背負っているような顔をして、緋勇はいつでも押し黙っている。その肩に何が乗っているかなど知りようも無いが、苦痛に耐える事を善しとする精神が、ただ気に食わない。隣に立っていても、まるで存在を無視されているような気分になる。

「『俺はお前らとは違う』とか、思ってそう」
「きっと違うんだよ」
「いや、そりゃ違うけどさ、そうじゃねぇんだよ」
「頼って欲しいんだね」
「・・・まあ、そうかもな」
「言ってやればいいんだ」
「俺を頼れって?」
「そう」

微笑んだまま頷く緋勇(?)を、思わず苦い表情で見返した。言って聞くとも思えない。彼はもう、覚悟を終えている。全てを背負って一人で道を往き、朽ち果てる覚悟を。そこに、蓬莱寺が介入する余地はあるのだろうか。お前は一人じゃない。そんな言葉が、緋勇の心に影響を与え得るのだろうか。

「きっと喜ぶよ」
「喜ぶかぁ?」
「喜ぶよ」

そう言って、緋勇(?)は笑った。混じり気の無い水のような笑みだった。蓬莱寺の心臓が、音も無く締め付けられた。この緋勇によく似た男は、全てが終わった場所にいる。不意に思った。緋勇も、全てが終わったらこんな表情で笑うのだろうか。あらゆる辛苦を知らず、ただ静かに空を映すかのような、こんな表情を。
 見蕩れて動きを止めた蓬莱寺に、緋勇(?)がもう一度笑いかける。

「俺はあいつとは違うし、お前もあいつじゃない」

意味は理解できなかった。恐らく、発した本人もそれを期待してはいないのだろう。伝わらないと分かっていながら、緋勇(?)が言葉を続ける。それが独白なのだと、蓬莱寺は漸く気付いた。

「それでも、お前が俺を信じてくれるのなら、嬉しいよ」

自分に言い聞かせるように言って、緋勇(?)が少しだけ頬を引き締めた。蓬莱寺を通して、他の誰かを見詰めているのは明白だった。乞うように、或いは責めているようにも感じられる瞳で、じっと蓬莱寺を見詰める。表情を抑えると、緋勇と全く同じに見えた。自分ではない誰かを見詰める瞳に、蓬莱寺が唇を噛む。湧き上がった感情を誤魔化すように袱紗を握りなおし、肩に乗せた。光を反射する湖面が、まるで泣いているように揺らめく。

「俺はずっと此処を守るよ。だって、お前に頼まれたんだから」

穏やかな独白に、蓬莱寺が耳を澄ます。きっと自分には意味の無い言葉なのだろうとは思ったが、それでも零れ落ちる声を逃がす事の無いように、湖面に広がる波紋を見詰め続けた。同時に、緋勇の事を考えた。
 向かい風にも真っ直ぐに立つ背中が、耐え切れないほど悲しかった。荷物の重さに、愚痴の一つも零せばいいのに。泣き言を、自分にだけは吐き出せばいい。
 彼の瞳は、水ではない。水と同じ色の鉱物だ。

「ああでも、本当はね
 一緒に、行きたかったなぁ」

叶わなかった願いをそっと囁いて、緋勇(?)が微笑む。蓬莱寺がその頬に触れようと手を伸ばし、寸前で止めた。この人は緋勇ではない。心で繰り返す。そうしていなければ、溢れてしまいそうだった。そんな顔をするなと叫んで、抱き締めてしまいそうだった。固く握った拳を、ゆっくりと開く。

 こんな表情、あいつには絶対させない。

 取り敢えず、次に会ったらあの仏頂面に笑いかけてやろう。ついでに肩でも叩いて、莫迦な事を言ってやろう。笑うだろうか。笑わなくても構わないが、やっぱり笑ってくれた方が嬉しい。嫌そうな顔をしても、ずっと隣に居よう。怒りでも悲しみでもいいから、彼の表情をずっと見ていよう。決意ではなく、誓いでもなく、蓬莱寺はただ願った。
 助けて、と、いつか言ってくれればいい。きっと自分は、何を置いても全力で彼を助けるだろう。その代わり、ラーメンでも奢らせよう。餃子も付けてやろうかな。そうしたら、二人は対等だ。肩を貸したり、背中を預けたり、殴り合ったり、くだらない事で笑い合ったりしよう。ずっと、いつまでも。爺になっても、そんな風に。
 終わりなど無いように、ずっと。
















 強い風に、思わず目を閉じる。瞬きの間に、蓬莱寺は自分のその行動を悔いた。きっと目を開けた時、湖の瞳は消え失せている。そして、もう二度と見る事は無いのだろう。切なく震える湖面は、本当は存在しないものなのだから。では、この焦燥は何だ。詫びなければいけないような気がする。どうしてそんな事を考えたのかは分からない。ただ、訳も分からず只管に悔いた。だが、もう遅い。蓬莱寺は目を閉じてしまった。

 予想違わず、開いた目に映る者は無かった。