その男が、いつから居たのかは分からない。気付いた時には其処に立っていて、葉佩を見下ろしていた。先程から手に触れている温かい感触が皆守の手だと気付き、慌てて身を起こす。皆守の手が少しだけ何かを探すように動いたので、爪先で踏んでおいた。鈍い痛みに、皆守が呻きながら目を開ける。その様子を、男は無表情に見ていた。無精髭が散った口元に、甘くない紫煙が揺れている。医者が着るような白衣を肩に引っ掛け、男がけだるそうに声を発した。

「昼寝なら他所でやれ」
「え、いま昼?」
「いや、夜だが」
「じゃあ起こすな」

不機嫌そうに囁いたのは、皆守だった。踏まれた手の平を握り込み、体を丸めて目を閉じる。だがすぐにまた動き、いつでも立ち上がれるように膝を立てている葉佩のベストの裾を掴み、胸元に抱き込むように引っ張った。一瞬だけ怒涛のような何かに襲われた葉佩は、しかし見下ろしてくる視線に気付いて頬を引き締めた。
 男が、溜息と煙と声を同時に吐き出す。

「早く帰れ」
「おーい皆守ー、脱出できるってさー」
「んー、もういい」
「何でだよ!帰ってあったかいベッドで寝ようぜ!」
「お前でいい」
「はい?」
「お前もあったかいから、お前でいい」

 男が、視線を上げて宙を見詰めた。

「あ、あの、違うんです。いつもはこんな奴じゃないんです」
「どうでもいい。早く消えろ」
「てゆーか俺はいま叫びたいんだけど、あんたの目が気になるから我慢してます」
「分かった」

そう言って、男が白衣の裾を翻し、壁に向かって歩き出した。その姿が、不意に闇に消えた。よく見れば、壁に大きな亀裂が入っている。その隙間から、上に向かう階段が見える。葉佩が目を見開いた。何度も確認した筈だ。注意深く観察し、慎重に触れた壁に、そんなものは存在しなかった。遠ざかる靴音を呼び止めようと、葉佩が腰を上げる。

「ちょっと待って!」
「おい動くな。永久に動けなくするぞ」
「めんどくせぇデレだな!ちょっと待ってってば!おっさん!」
「俺の事は気にするな。実は俺は此処の管理人で中の様子は手に取るように分かるんだが、気にするな」
「やめてぇ!俺は恥ずかしがり屋なんだよぉ!」
「マジでか!」
「お前のツボが分かんねぇ!」

勢い良く顔を上げた皆守は、まだがっちりと葉佩の腰をホールドしている。男は振り向かずに去って行った。残された葉佩が、呆然と皆守を見下ろす。

「あの、皆守さん」
「ん?」
「・・・今すぐ手を離してくれないと、死ぬ」
「お前が?」
「うん」

頷いた葉佩を暫し見詰め、皆守は手を離した。ついでとばかりに身を起こし、アロマに火を点ける。大きな欠伸と共に腕を伸ばし、目を閉じて何事か呟く葉佩に顔を向け、当たり前のように言った。

「じゃ、帰るか」
「うわあ、なに、寝惚けてたとかそーゆー」
「あーくそ、休みの日は寝倒すって決めてたのに」
「もう日常に戻っちゃった?」
「あー腰いてぇ」
「撫でてあげよーか?」
「それより荷物を持ってくれ」
「・・・うん、いや、持つけどさぁ」












 地上は、男の言葉どおり夜だった。夜気を深く吸い込み、重たい体を引き摺って足を踏み出す。その斜め後ろで、皆守はまだ欠伸をしていた。首の間接を鳴らしながら、「あーだるい」とか何とか言っている。

「あ、単車あっちに置いて来ちゃったな」
「何時だ今」
「えーと、1時、49分36秒」
「くそ、終電もないのか」
「しょーがねぇ、歩くか」

放っておいたら「その辺で寝る」とか言い出しそうな皆守を引っ張り、葉佩が歩き出した。暫く無言でアスファルトを踏んでいたが、不意に皆守が顔を上げた。

「葉佩」
「なに?」
「お前は、別に葉佩じゃなくてもいいんだぞ」

寝言のように呟き、皆守はそれ以降ずっと押し黙ったまま葉佩の後ろを歩いていた。「それ、どういう意味?」などと、口に出来る筈も無い。此処にいなくてもいい。そのような言葉だったら、と思うと、疲れた体が更に重くなった。

 天香に到着し、愛車が最後に見た時と同じ状態である事に安堵する。都内とは思えないような広大な敷地の遥か向こうに、そびえ立つ校舎が見えた。あまりいい思い出は無いが、僅かに郷愁のような感傷が心臓を刺する。故郷など、自分には存在しないと思っていた。
 弾けるように自分を呼ぶ、少女の声を思い出す。彼女は、葉佩を愛称で呼んだ。それが信じられないほど嬉しかったなどと、格好悪いから一生言うつもりはない。今でもまだ、心臓が震えるほど嬉しいなんて、絶対に言わない。
 荷物をリアシートに括り付け、ヘルメットを手に持ってから気付いた。葉佩が走り出すのを待っている皆守に、彼が嫌う笑顔を向けてみる。どんな名前でも、彼は自分を葉佩だと認識してくれるだろうか。

「お前が九ちゃんとか言うんなら、九ちゃんでもいいよ」
「葉佩」
「・・・うん」
「死ぬなよ」

それはいっそ、滑稽なほど根源的な言葉だった。ただ、願いが含まれていた。皆守の左手が躊躇うように揺れたのを察して、葉佩が目を逸らす。そんな事、約束など出来ない。咄嗟に浮かんだのは、そんなつまらない言葉だった。そんな言葉、皆守は望んでいない。葉佩だって、望んでいない。自分が吐き出した煙を見詰めている皆守に、ただ正直に言ってみた。

「うん、お前もね」

その言葉もまた、ただの願いでしかない。死ぬな。死にたくない。始めて重なった願いは酷く曖昧で、悲しいほどに本能的だった。人間ではなくなる時を、二人は知っている。
 別離ではなく再会を願って、皆守が左手を上げる。バチっと音を立てて、葉佩はそれに自分の右手を叩き付けた。