他のどの場所よりも、彼女の足元を見る度に思っていた。スカートがしゃらしゃらと揺れる時も、自分よりも小さな歩幅で歩く時も、彼女は女の子なんだな、と。
 自分の体を見下ろす。昨日、転んで膝を擦り剥いた。もっと握力が欲しいと思って鍛えた手は、肉刺だらけで硬い。それを恥じるつもりは無い。硬く、大きく、強くなりたくて、いつだって頑張った。まだまだ足りない、とさえ思う。この体は誇りだ。膝の擦り傷はさておき、弦で付けてしまった傷跡すら、それは自分の力になる。
 傷ひとつ無い、白い指先を見詰めた。その手は傷を癒し、戦士を再び戦場へと導く。そして彼女は、そんな自分の力を嫌っている。
 顔を上げると、葵が少しだけ怒ったような顔をしていた。

「小蒔、何を考えてるの?」
「え、ああ、葵の事だよ」

素直に答えると、葵は更に眉を吊り上げた。分かっている。宿題を持て余して泣き付いたのは自分だ。呆れながらも、彼女はちゃんと付き合ってくれた。物分りの悪い頭でも分かるように、易しく教えてくれる。彼女は、無知を決して哂わない。知らないのなら、知ればいい。そう言って、丁寧に教えてくれる。それが嬉しくて、同じくらい辛いのだと、口にする気は無い。
 彼女には敵わない。優しさでも、強さでも。

「あー、お腹空いたな」
「もう、まだ半分しか終わってないのに」
「なに言ってんの、もう半分も終わったんだよ」

そう言うと、美里は困ったように笑った。時計に視線を流し、「そうね」と呟いて教科書をたたむ。時刻は18時30分、少し過ぎ。彼女が居てくれなかったら、きっとこんなに長く座り続ける事さえ不可能だったと思う。

「ねえ、アイス買いに行こう」
「でも、もうすぐ夕飯じゃない」
「だいじょーぶ!よくいうでしょ、腹八分目って」

間違った用法なのは分かっている。期待どおり、彼女が声を立てて笑った。その声に、鈴のような、という比喩を思い出す。鈴は、神様の声を模したものなのだと、どこかで聞いた事がある。といっても、神様の声など聞いた事が無いので、本当かどうかは分からない。話しに聞く神様は、大抵いつも怒ったり罰を与えたりしている。神様というのは我儘なものだな、と、ずっと思っていた。そんな存在は、彼女には似合わない。彼女はいつだって許してくれる。ほら、今だって。

「しょうがないわね」

なんて言いながら、腰を上げて財布を手に取った。その仕草も、柔らかくて緩やかだ。
 もうずっと前から知っている。彼女は綺麗だ。それが時々、堪らなくなる。












 暗くなった道には、まだ人が沢山いる。隣を歩く葵の歩幅に合わせて、一人で歩く時よりも少しだけゆっくりと歩く。自分のビーチサンダルの音と、葵の靴音に耳を澄ましていたら、不意に太鼓の音が聞こえた。

「おまつりかな?」
「そうね、裏の神社かしら」
「行ってみよう!」

返事を待たずに走り出す。勿論、手は繋いだままだ。彼女が転ばないよう、速度は抑えている。自分の速度で走ったら、彼女の隣には居られなくなる。何でも出来る彼女も、走るのは苦手らしい。
 立ち並ぶ屋台が目に入り、思わず歓声を上げた。縁日の屋台ほど魅力的な物はない。常々そう思っているのだが、同意は未だ得られない。同じ物を、家で食べても意味は無い。ただしょっぱいだけの焼きそばも、これでもかというほど甘ったるいわたあめも、舌が染まるほどの着色料入りカキ氷も、それだけではただのジャンクフードだ。夏の宵の空気と、暴力的ですらある喧騒と、様々なものが入り混じった匂い。其処を歩きながら食べる物が、この世で最も美味しいのだ。
 一通りの屋台を覗き、次に目に付いたのは、色鮮やかな水風船。

「葵!ヨーヨー釣り!」
「はいはい、やってらっしゃい」
「葵はやらないの?」
「やったこと、ないもの」
「そうなの?」

なんて寂しい子供時代を送っていたのだろう。お嬢様というのは、そういうものなのだろうか。思わず友人に、驚きと憐憫の入り混じった表情を向けてしまった。すると彼女が拗ねたような顔をしたので、慌てて目を逸らす。おじさんに百円玉を渡し、紙縒りを受け取った。先程から目を付けていた黄色い水風船に、意識を集中する。
 狙い違わず釣り上げたヨーヨーを、誇らしげに掲げて見せる。

「やったぁ!見て見て!」
「すごいわ小蒔!」

同じようにはしゃぐ姿に、喜びはいや増す。

「葵もやってみる?」
「そうね、じゃあ一回だけ」

そう言って、葵がおじさんに百円玉を渡す。受け取った紙縒りを物珍しそうに観察してから、水に浮かぶヨーヨーを見詰めた。戦闘に挑むような気迫を感じ、思わず息を飲む。いつだって彼女は全力だった。不器用なくせに、本当は弱いくせに、いつだってこうして真正面から勝負している。知っている筈なのに、時々忘れてしまうのだ。まるで彼女は完璧な人のように錯覚してしまう。
 祈るような気持ちで、彼女の指先を見詰めた。

「あ・・・」
「・・・あ」

ばちゃん、と音を立てて、一瞬だけ釣り上げられた水風船が落ちた。「残念!」と言って笑ったおじさんに、切れた紙縒りを悔しそうに返す。彼女は、見かけによらず負けず嫌いなのだ。
 気落ちした彼女の肩を叩き、「もう一回」と言い出す前に、二人で帰路を踏んだ。

「なかなか難しいのね、ヨーヨー釣りって」

まだ言っている。よほど悔しかったのだろう。隣でぱしゃぱしゃと音を立てる水風船を、羨ましそうに見詰めた。

「じゃあ、ちょっとだけ貸してあげる」
「本当?ありがとう!」

目を輝かせて手を出した葵に、黄色い水風船を手渡す。彼女は人差し指にゴムを通し、ぱしゃっと音を立てて弾いた。小気味良い感触に、嬉しそうに微笑んでいる。そんな顔をされては、「返して」などとはとてもじゃないが言えなくなる。ずるいなぁ、と、声には出さずに呟いた。
 彼女の足元を見る度に思う。彼女は清楚で、優しくて、頭が良くて、自分とは比べようもないほど綺麗だ。でも、と、同時に思う。本当は弱くて、頑固で、負けず嫌いで、時々我儘で、意外と要領が悪い。こんなにも恵まれているのに、自分は駄目な人間だと考えている。出来ない事だらけなのに、一人で全部やろうとする。
 彼女に出来ない事で、自分が出来る事は、いくらでもある。たとえば、こんな風に笑わせて、「大好きだよ」って言うとか。他にもいろいろ。

「あーおーいー」
「なあに?」
「それ、あげた訳じゃないからね!」
「うん、もうちょっとだけ」

 でも、彼女が望むなら、きっとどんなものでも差し出してしまうのだろう。
 貰ったものはそれ以上なのだから、それも当然だ。