背後で石がこすれる音がした。振り向かず、葉佩は踏み出す。「早く行け」と、ささやくような声が聞こえた。声に従った訳ではないが、開いたばかりの扉に向かう。その扉を開いたのが自分だという事も、走り出した時にはほぼ失念していた。ただ、扉が開いた。眼前に道ができた。進む脚はまだ健在だ。ならば進むしかない。 而して、葉佩は振り向きもせずに進んだ。いつだってそうしてきたし、いつまでもそうするだろう。 それはさておき、葉佩はライフルを抱えて脱力した。扉は葉佩が通ったと同時にひとりでに閉まり、施錠され、進む道は見当たらない。番人らしき存在もいない。閉じてしまった扉の向こう側からは、物音ひとつしない。 やる事がなくなってしまった。いや、やるべき事はある。つまりが閉じ込められたのだ。脱出しなくては。 暗視ゴーグルは温存しておきたい。ハンドライトで辺りを探り、壁に刻まれた文字らしきものを発見した。見憶えがある形の文字だ。記憶と思考を駆使して、進む道を探す。好きな作業だ。 ほどなくして、扉は開いた。先程の部屋に戻る。不穏な気配がただよう中に彼をひとりで置いてきてしまったのだが、よもやあの男が不覚を取るとも考えにくい。無造作に壁にでも寄りかかっているか、あらぬ所に座り込んでいるか、と視線をめぐらせて、ほどなく目当ての影を見つけた。 薄暗いが、見えないほどではない。静まり返った空間に、横たわる影がひとつ。相棒が寝転んでいるのだろうと思ってから、それ以外の可能性もいくつか浮かべてみた。小さな物音も聞き逃さぬよう耳を澄まし、動くものはないかと周囲にも気を張る。細心の注意を払いつつ、横たわる男に歩み寄った。 それは、違わず葉佩の相棒だった。自分でも意識できないほどわずかに安堵して、あの怠惰な男が立てないほどその身を酷使したのだと思い至る。 名を呼んでみたが、反応がない。さすがに少しばかり不安になってきた。肩とおぼしき場所に手を当てると、何故かぞわりと全身が総毛だった。不潔な水音が、かすかに鳴った。ブーツの底が、粘度の高い液体を踏んだのだ。色は、よく分からない。 緩慢に、思い至る。これは血液だ。立ち込めているのは、血の匂いだ。 グローブを脱いだ手の平で革製のジャケットに触れながら、葉佩は冷静に、彼が死んでいると判断した。死体を持ち帰るのは得策ではない。どうせ邪魔になるし、重たいし、持ち帰ったところで葉佩に利益はない。そうか死んだかと息を吐き、立ち上がり、歩き出す。 而して、葉佩は振り向きもせずに進んだ。いつだってそうしてきたし、いつまでもそうするだろう。 前方にわずかな光が見えた。見紛うはずもない、陽光だ。およそ541時間ぶりの太陽だ。 ふと、葉佩は振り返って背後を見た。影すら落ちぬ隧道は、日を見た目にはあまりにも暗い。こんな暗闇の中にいたのかと、不思議な気持ちにさえなった。 闇に安らぎを求めるのは、きっと母を求めるのと同じ心なのだろう。漠然と、考えるでもなく言葉が胸中に浮かぶ。葉佩は母を知らない。 携帯していた小型削岩機でわずかな間隙を広げ、どうにか地上に這い出した。ほぼ同時に、自分が産まれた瞬間を夢想する。強すぎる光に目をすがめ、断たれた緒を夢想する。 腕を伸ばし、背を反らせ、全身に日を浴びた。その瞬間を葉佩は憶えていないが、たぶん多くのヒトがそうであるように、おそらく自分も泣き叫んだのだろうと、ぼんやりと思う。喜んでいたのか、悲しんでいたのかは、分からないが。 苔むした岩を踏んで、歩き出す。二本の脚は、まだ体を支えている。 高校時代の友人に再開した。わたしが驚いて目を見開くのとほぼ同時に、彼はあの頃と同じように微笑んで「久しぶり」と大きな声で言った。 彼の仕事の話を聞くのが好きだった。ほんの少しだけど、わたしも彼の仕事に関わったのだと、誇らしく思い出す。わたしには想像もできないような凄惨な事は、上手に隠しているのだろう。それがちょっと寂しい。でもそんな事を言っても彼はきっと困るだろうから、口には出さない。 不意に、本当にわたしにとってはなんの前触れもなく、彼が涙をこぼした。彼は自分が泣いている事に驚いたようで、戸惑いながらわたしを見た。あまり背が高くない彼は、わたしと簡単に目線が合う。真正面から、その濡れた瞳が見えた。あふれてこぼれ落ちる涙が見えた。 ごめんと、虚ろな表情のまま彼が言う。喉が圧迫されてうまく声が出せないのに、無理矢理に絞り出したのだろう。喉が熱くなったようなその感触を、わたしも知っている。抑えても無様に漏れてしまう、しゃくり上げる声。よく知っている。どうしようもなくあふれてしまう、その感触。 彼はその場でしゃがみ込み、両手で顔を覆ってとうとう声を上げて泣き出した。嗚咽に混じった「ごめん」という音を、意味も分からず否定した。彼が謝る事など、きっとどこにもない。彼は悪くない。何も知らないけど、わたしは彼の味方になれると、分かっていた。 一緒になってしゃがみ込んで、髪を撫でたり肩や背中を叩いたりして、しばらく経った。やっと正常な呼吸を取り戻したが、まだ涙は止まりそうにない。子供のように鼻をすすりながら、彼はわたしを見て、恥ずかしそうにうつむいた。まだ涙は止まらない。 彼に憧れるのは、本当は残酷な事なのだと、わたしは知っている。彼の話を聞くのが好き。それは、彼が優しいからだ。 理不尽も、自分の非力さも、彼は呑み込んで立っている。いつだって笑ってくれる。怪我はないかと気遣ってくれる。いつだって本当に傷だらけで泣きたかったのは、彼だったのに。 彼はきっと負けないだろう。逃げもしない。 それが寂しいなんて、知ったら彼はきっと困るだろう。 憎からず思っている女性の前で無様に泣き崩れてしまってから、葉佩はやっと後悔した。仕事を再開する気になれない理由も、漠然とだが察した。あの遺跡には、後発の人員が入ったらしい。それ以上の情報は、得ようともしなかった。彼の死体が発見されたのかも分からない。 数日間の煩悶のすえに、葉佩はH.A.N.Tを起動させた。 以前なら一日たりとも起動させぬ日はなかったというのに、むしろ起動させねば不安にすらなったのに、それすらもしなかった(できなかった)自分を、ようやく認めた。認めてから、葉佩は今更、本当にどうして今まで気付きもしなかったのかと自分を嘲笑いたくなるほど今更、怖くなった。 この端末は、彼に繋がっている。彼の手が空いていて、さらに彼の気が向いたら、という条件付きだが、繋げば彼が応答してくれる。応答してくれた。今までは。 彼を永遠に失う事が途方もなく恐ろしいのだと、やっと葉佩は自覚した。 なんの操作もしないままH.A.N.Tを閉じて、これからの事を考えようとして、それが不可能なのだと思い知る。呼吸が震えていると自覚したのとほぼ同時に、涙が落ちた。もう疑いようもない。これは涙だ。あの日から絶えず痛む心臓が発しているのは、後悔と憎悪だ。世界を憎んでいた自分を、葉佩は思い出した。 ああ懐かしい、久しぶりだ。奇妙な感覚を表現する言葉も持たず、この救いようのない心と体が砕けるまで、石と闇に埋没するのだと理解した。 何も難儀な事はない。あの頃に戻っただけだ。さて、いつものように、死に場所を探す旅に出よう。 時間の感覚は、とっくに失われていた。そろそろ老衰で死ぬのではないかと思い始めている。しかし残念ながら、実際はあの日から1月ほどしか経過していない。心身はまだ稼働しているが、右腕がそろそろ駄目になりそうだ。そういえば、このところ食事をした記憶もない。薬で痛みを抑えてはいるが、動かしづらい箇所がいくつかあった。 相変わらずのようにも見える仕事の日々を、物言わぬ相棒を放置して回収にも行かない薄情者だと、同僚たちにささやかれている事も知っている。という事は、誰かが回収したのだろう。 H.A.N.Tの着信を知らせる音で、浅い眠りから引き戻された。次の仕事の連絡かと思い、発信者の確認もせずにメールを開く。 『そこを動くな』 日本語だった。 このH.A.N.Tが日本語を表示させたのは、何年振りだろう。いや、そんなに長い時間でもなさそうだ。ほんの1月前にも、同じ発信者から日本語のメールを受けた。 「ん?」 「よし、そのまま動くな」 「え?」 背後から、声がした。決して振り向かぬと決めていた葉佩は、しかし思わず振り向いた。ほぼ同時に、米神に爪先が突き刺さった。 やはり振り向くべきではなかった。あるいは、振り向かなければ彼は攻撃をやめたのだろうか。その可能性も低い。つまり、振り向こうが振り向くまいが、彼は攻撃しただろうし、葉佩はそれを避けられなかっただろう。彼が本気で攻撃すれば、葉佩は高確率で大ダメージを食らうのだ。そうれはもう揺るぎない事実だ。 「ひどい!」 「お前ほどじゃない」 「俺はひどくないよ!」 「瀕死の相棒を放置して回収にも来ない奴が、ひどくないと?」 「だって死んでると思ったから」 「それはそれでふざけるな」 無造作に膝頭を強打され、立つ事さえ難しくなった。脇腹にも、重たいのを食らった。息が止まる。低くなった頭に、今度は踵が落ちてきた。覚えず涙がにじむ。痛みは感じないはずなのに。 彼の前にひざまずくような姿勢で、葉佩はこの1月間の自分を隠しとおすと心に決めた。幸い、外から見れば以前と変わらず、仕事に明け暮れていたように見えるだろう。否、ひとりだけ、この心を知っている人がいる。 「やっちーにも」 「あ?」 「お前が死んだって言っちゃった」 「それは、まあいい」 「え、よくないよ」 「まずはお前だ」 「次は誰なんだよ」 「次も、お前だ」 「俺はひとりしかいないよ?」 「そうだな」 だから、次もお前だ。それがまるで永遠の誓いのように思えて、葉佩は慌てて自分の思考を吹き飛ばした。そんな永遠は欲しくない。いや、どんな永遠も欲しくない。そんなもの、あってもきっと持て余す。死んだら終わりでいい。むしろ、それがいい。 感情を食いちぎって吐き捨てるように、彼が鋭く、短く溜息をついた。 「そんなになるほどだったのか」 「え、ええと?」 「だったらもう少し疑え」 「なにを?」 「お前の相棒は、そんなにやわじゃないだろ?」 ちらりと、彼が視線だけで、折れたままなんの処置もしていない右腕を一瞥した。そういえば、化膿した傷がどうなったのかも確認していなかった。 何も言わずに舌を打ち、彼がきびすを返した。思わず追いすがりそうになって、寸前で思いとどまる。危なかった。もう少しでも自制が遅れたら、彼の裾を掴んでいたに違いない。 彼の足音が聞こえなくなるのを待っていたら、いきなり腕を掴まれた。骨折していない方の腕だ。強く引かれ、ランドクルーザーの助手席に蹴り入れられた。 淡々とした表情のまま、彼がなめらかな動作で運転席に座る。たったそれだけの事で、うずくまって泣きわめきたいような、大声を上げて走り出したいような、名状しがたい心地になる。怖くて泣きそうになる。本当は、いつだって逃げ出したくてたまらなかった。 救いようのない莫迦だと、殊更にあざける口調で吐き捨てられた。違いない。惨めだ。また泣きそうだ。何もかも放り出して逃げ出したい。どうせ逃げ切れやしないのに。 「死ねばよかったのに」 「残念だったな」 「なんで死なないんだよ」 「お前が泣くから」 「生きてても泣きたくなるよ」 何も言わずに、彼が前を見たままふと微笑む。その横顔から目が離せなくなったのを、たぶん知られただろうと思うと今度は自分が死にたくなった。一刻も早くここから逃げ出したい。惨めだ。無様だ。泣きたい。 「泣いてもいいんだぜ?」 どうして逃げられないんだ。 |