三日月が落ちて、彼が膝を付く。蓬莱寺はその時、ただその美しさに目を奪われていた。異形にも思える彼が、本当は自分と同じ人間だった事を思い出した。
劉が慟哭のように彼の名を叫び、美里が悲鳴を上げた。醍醐が伏した彼に駆け寄り、桜井が小さくしゃくり上げた。彼の体から、見憶えのある赤い水が流れ出る。不意に左腕に痛みを感じて見下ろすと、桜井が縋るように掴んでいた。彼の愛称を口中でゆっくりと発音している。うそだよね、と聞こえた。世界との繋がりを逸した狂人が発するような声音だった。
視線を上げると、椅子に座って身を寄せ合っている美里と桜井が目に入った。互いの肩を抱き合い、時折その手が震えるのをぼんやりと見詰める。隣に座っていた醍醐が、急に立ち上がった。無言のまま玄関に歩き去る大きな背中を、やはり無感情に見詰める。
ふと、自分の体が呼吸している事に気付いた。吸って、吐いて、また吸って、吐く。精神を集中させる際など、蓬莱寺はよくこうして自分の呼吸を意識する。肺が動く様子を想像しながらゆっくり呼吸を繰り返していると、気分が落ち着いた。だが、今はそうして静める必要もないほど精神は凪いでいる。
唐突に自分の息が鬱陶しくなった。吸っても肺が満たされず、吐いても何かが留まっているように感じる。では、呼吸など無意味ではないか。何故こうも阿呆のように同じ事ばかり繰り返すのだ、この体は。自身に向いた破壊衝動を意識して、蓬莱寺は漸く自分が危うい状態にあると察した。
自身の呼気を聞きながら、寄りかかっていた壁から背中を離す。手に馴染んだ愛刀を取り上げ、辺りを見回した。連絡を受けて駆けつけた仲間たちが、各々好き勝手に病院の廊下で息をひそめていた。ああ、彼は慕われているのだな、と漠然と思い、自分も彼を慕う者の一人なのだと少し遅れて気付く。
俺だけじゃねぇんだな、などと、こんな時でも湧き上がる嫉妬心に吐き気がする。彼を待つのが自分だけだったらいいのに。彼に微笑みかけるのも、無事を喜んで抱きつくのも、彼が不覚を悔いて吐露する相手も、ただ一人だけだったら。
浮かんだ映像が、まるで誰かの見た幸福な夢のように思えて、蓬莱寺は息を止めた。もしかしたら、彼はもう二度と目覚めないかも知れない。微笑みかけても抱きついても、目を閉じたまま冷たく横たわっていたら、自分はどうするだろう。身も世もなく泣き喚くだろうか。それともそんな現実を受け入れられなくて激するだろうか。
指先が震えているのに気付き、蓬莱寺は固く拳を握った。想像した未来はとても現実味を欠いていて、やはり自分ではない誰かが録画した映像のように感じられる。
そうして思い当たった。
彼の死を、この心は信じていない。
息苦しさに耐えかねて、寒空の下に身を置いてみる。鼻先で白く漂う呼気を視認して、やっと肺が正常に働きだしたような気分になった。得物を肘で抱えて、ポケットに両腕を突っ込む。そうして暫くの間、寒風に吹かれて立ち竦んでいた。
不意に視界に入ってきた人影に、思わず小さく舌を打つ。この男ならば、気配を感知させずに通り過ぎる事など容易かろうに。そんな蓬莱寺の胸中を読み取ったのか、如月が軽く肩を竦めた。ここで立ち去るのも逃げたと思われそうで、蓬莱寺は仕方なくその男の名を呼んだ。
「如月」
「さすがに元気がないね」
「お前は随分と普段どおりだな」
「僕は玄武だからね」
どこか誇らしげに言い放った如月に、耐えようもなく嫌悪が湧き上がった。宿星という大きな流れに決定された、自分の根拠。そこに意思はなく、個人は存在しない。そんなものを誇る如月が滑稽に見えた。与えられた餌に尻尾を振って喜ぶ犬と同じではないか。言葉を吐き捨てる代わりに、蓬莱寺は侮蔑の表情を浮かべて見せた。如月が、その意味を過たず汲んで続ける。
「黄龍と共にあると、僕は自分の意思で決めたんだ」
「意思?流されてるだけじゃねぇか」
「違う。その流れを受け入れたのは僕の意思だ」
「抵抗なんかしたようには見えねぇけどな」
「何も知らない君が、分かったような口を利くな」
刃の鋭さで切って捨てられた。
如月は、出会った頃にはもう玄武だった。その身に宿った星に生かされる自分を認めていた。そこに至るまでに如何なる葛藤があったのかなど、蓬莱寺は知る由もない。水のような瞳がじっと見詰めている。その目が奔流のように叫ぶ様を、蓬莱寺は知らない。
薄い唇が、記録を読み上げるように無表情な声を吐き出した。
「黄龍が暴走しても、君に出来る事はない」
返す言葉が見付からなかった。世界を呪いながら、蓬莱寺はその事実を飲み下した。如月は自分の役目を知っている。彼を慕いながら、彼が黄龍に打ち克てなかった時を見詰めている。
黄龍の器がその役目を果たせなかった時こそ、四神が必要とされる時だ。つまり、暴走して害悪と成り果てた黄龍の器の破壊。与えられた命の目的を見据えながらも、如月は涼やかな瞳で蓬莱寺を見た。その使命を果たす自分を見据えながら、如月はずっと彼に微笑んでいたのだ。
「僕は玄武だからね、彼を守る為なら命も惜しくない」
彼が望まぬ姿に堕とされた時、この命を呈してでもそれを砕く。
それが狂信などではなく、冷静に決した清廉な意思なのだと、蓬莱寺はその時になって初めて理解した。同時にはらわたが煮え立った。右手にあった得物を大地に振り下ろし、その下で今も息づく龍脈などという傍迷惑な存在をぶった斬るつもりで氣を放出する。だが現実には、浅く傷付いた地面が僅かに震動したたけだった。何物にも届かない己の非力を目の当たりにして、蓬莱寺が為す術もなく唇を噛む。拳を握り締め、心中で誰にも届かぬ叫びを上げる。
「あいつは負けねぇ」
「僕だってそう思うよ」
「だったら!」
「でも、それを証明する術はない。今はまだ」
「あいつが信じられねぇのか」
「彼も人間だ」
そんな事は知っている、とは言えなかった。テレビの中のヒーローではあるまいし、彼が不死身ではない事ぐらい知っている。だが彼に捧げる己の信頼は、限りなく彼という個人を無視しているのではないか。あいつなら大丈夫。何を根拠にそんな妄言を。あんなにも脆弱で頼りない男に、どうしてそんな重荷を背負わせてしまったのだ。
狂的に信じていたのは、自分だったのではないか。
顔を逸らしたまま黙り込んだ蓬莱寺に、如月が嘆息した。その音が自分を責めているように聞こえて、蓬莱寺は右拳で得物を握り締め、空の左拳で己の手の平を握り締め、唇を引き結んだ。
「信じてるよ。そうでなければ、生きてなどいられない」
やはり無表情に落とされた言葉の意味を把握できず、蓬莱寺が歯を食い縛ったまま僅かに視線を上げた。生きる事と戦う事を等しくその精神に置いている如月が、退屈しのぎで決戦に身を投じた男を見ている。目頭が沸騰するように熱い。視界を滲ませる水が落ちぬよう、蓬莱寺は顔を上げた。どこまでも凪いだ湖面のように、如月が真っ直ぐに言い放つ。
「彼は勝つよ。勿論、僕もね。自分が負けると思って戦う人なんていない」
ただ、覚悟は終えている。沈黙と同じ声音でそう言って、如月は薄く笑った。
理解は、できなかった。だが、この水のような人は自分よりも多くのものを知っているのだと感じた。凄絶な闇と、そこに射す光を知っている。真の闇など、蓬莱寺は知らない。己の無知も非力も、それは陰ではあったが闇ではなかった。進む道に迷う事はあっても、道はそこにあるのだと思っていた。己が切り開く事など想像もしなかった。彼は人なのに、人は死ぬのに、彼が死ぬなどと想像もしなかった。
物静かなこの男の底で荒れ狂う嵐を想像し、鳥肌が立った。風が冷たかったからだと胸中で言い訳して、得物を握ったままの右手でその細い肩に触れ、反射的に引いた体を力任せに抱き寄せる。あからさまに嫌そうな顔をしている如月に、心から言ってやった。
「あいつはぜってぇ勝つ」
「そうだね、君も」
「ああ、負けねぇよ」
「そうだ、僕も」
「当然だろ」
そう言うと、如月がやっと表情を崩した。溢れた不安と恐怖を隠すように俯いた顔を、誇り高いこの男は見られたくないだろうと思い、蓬莱寺は黙って視線を上向けた。まだ密着していたので、肩に如月の呼気が触れる。それが僅かに震えていたのも、気付かなかった事にする。
願う声に、ただ頷いた。
|