あの男は自由なのだと、皆守は考えていた。羨んで、妬みさえした。あの男は自由だ。目の前で愚か者が命を絶とうと、かわいい級友が涙目で引き留めようと、あの男は自由だ。
葉佩は現れなかった。皆守にとって最期になるはずだったあの夜が明けても、抜け殻のような一日が過ぎても、葉佩は現れなかった。押し流されるように年が明けても、春が来ても、葉佩は現れなかった。
ただ、卒業式の日に、八千穂が泣いていた。彼女らしくないと思ったのは、誰もいなくなった教室の片隅で、声を殺して泣いていたからだ。しかもその頬には、涙と笑みが同時に存在していたのだ。泣きながら笑うなどという器用な真似ができるとは思っていなかった。
諦めるのではなく、まっすぐ前を見据えるように、八千穂は泣いていた。皆守に気付き、慌てて涙をぬぐい、八千穂は少しだけかすれた声で言った。
九チャンがね、またねって。
言ってくれたの、と発した声は声にならず、しかし皆守の耳には過たず届いた。
九チャンが、と繰り返してまた泣き出した八千穂は、皆守が失ったものを持っている。つまり、葉佩との絆。葉佩を繋ぐ鎖、あるいは葉佩へと繋がる糸。
自由なあの男を、彼女だけは束縛できるのだろうか。
メールを受信していた事に皆守が気付いたのは、その日の夕方だった。
『わすれろ』
見憶えのないアドレスからの発信だったが、それがあの男の言葉であると、即座に皆守は理解した。返信しても彼には届かないだろうという、確信にも似た予感があった。どうせ届かないのなら、送ってしまおうか。ただ消えてゆくだけの言葉なら、きっと罪にもならない。
思い立って、メールを作成しようとベッドに寝そべる。だが指は動かず、一文字たりとも打てぬまま睡魔が落ちてきた。
夢の中で皆守は安堵する。あの男は自由だ。
八千穂に薄っぺらい嘘をついても、皆守にその言葉と反対の効果しかもたらさない一文を送りつけても、あの男の自由は損なわれない。そんな細い絆では、あの男は繋げない。あの男は自由だ。
けたたましい着信音に叩き起こされて、皆守は目覚める前に舌を打った。うるせぇと低く毒づきながら、顔のすぐ横にあった携帯へと手を伸ばす。開いたままだった液晶画面に目を落とす。
アルファベットと数字が不規則に並んだそのアドレスを見て、あの男は本当に自由なのかと疑問が湧いた。自由意思でこれを選択したのだろうか。つまり、繋がれる事を、あの男がその意思で決定したのだろうか。それとも、あの男は自由ではなかったのだろうか。たとえば誰かに束縛されて、動けなくなるという事が、あの男にも。
まるで傷付いたような顔を思い出した。途方に暮れたように立ちすくみ、そうしてから、あの男は叫んだのだ。切望のように、絶望のように、皆守の名を呼んだのだ。
胸がすいた。ほんの小さな痛みでも、残せたのなら満足だ。たとえ数日後には消え失せる程度の傷でも、ひとときでも彼の自由を奪えたのなら、それでいい。あの瞬間だけは、彼の心はただひとりに向いていた。それならば、もう何も。
どこからともなく湧き上がった記憶に気を取られているうちに、メロディは鳴り終わって再び部屋に静寂が戻っていた。手の中では、アクセスサインを点した携帯が、じっと押し黙って操作を待っている。
開いてなどやるものかと固く決意しつつ、指が自動的に動いてメールを開いた。心を裏切る体なんか、やっぱりあの夜に投げ捨てておけばよかった。そうすれば、今こんな気持ちを抱かずに済んだのに。
『そつぎょう おめでとう』
その情報から脳が何事か導き出すより早く、また携帯が音を立てた。思わずびくりと肩が跳ねたのは、どうせ誰にも見られていないので気にしない。
『やっちにまたねっていったのはうそじゃないよでもおまえにはあいたくない』
読みづらい。と認識した瞬間、皆守は携帯を閉じた。読む気が失せた。とりあえず今は眠ろう。携帯を放り投げてベッドに突っ伏して目を閉じる。毛布を頭まで引き上げて、耳をふさいで丸くなった。
また鳴った。しかも不運にも、携帯は手を伸ばせば届く距離にある。
『かんじへんかんてどうやるの』
「説明書を読め」
『せつめいしょない』
「とりあえずボタン全部押してみろ」
『 』
『ごめんおくっちゃった』
『はてなもでない』
「ほんといい加減にしろよお前」
「うわ!」
カーテンは閉めていなかったので、窓を開けるだけでその男は驚いた。その手にあるのはH.A.N.Tではなく、見憶えのない携帯電話だった。傷ひとつない、新品だ。だが最新の機種ではない。
窓枠に踵を引っ掛けてバランスを取っていた体がぐらりと揺れて、危ういところで踏みとどまる。そうしてから顔を上げて、葉佩はいつものように笑って見せた。
「ええと、おはよう、また会ったね」
「お前の事は忘れない、永遠にな」
「永遠じゃなくっていいよ」
「まあ、三日ぐらいは忘れない」
「分かった、じゃあ三日後にまた来るよ」
「俺はもう卒業なんだが」
「あ、そうか」
じゃあ、もういいよね。葉佩がいかにも不慣れな手つきで新品の携帯電話をたたんでポケットにしまい、左手を窓枠にかけたまま、すいと右腕を伸ばした。なんでもない事のように。
いっぱいに開いた手の平には、何も携えていない。愛用のグローブすらない。ただ傷だらけの硬い手が、皆守に向かって差し出されていた。
この男は自由だ。
怒りも嘆きも、彼を縛る事はできない。
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